2025年3月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編67編4
    ヨハネによる福音書12章1〜11
●説教 「かぐわしき愛」小宮山剛牧師
 
   緊迫した情勢の中
 
 1節に「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」と書かれています。この過越祭の時に、イエスさまは十字架にかけられることになります。すでにイエスさまヘの逮捕状が出ています。ですから、イエスさまの物語も一挙に緊迫してきます。
 ベタニアという村は、エルサレムに近い村です。 そして私たちは、このかん、このベタニヤ村でイエス様がなされたしるしをめぐるできごとを読んできました。死んで墓に葬られたラザロを、イエスさまが生き返らせるというしるしです。そのベタニヤ村へイエスさまは帰ってきました。そして人々に迎えられ、家に入って食事をされるという場面です。
 新約聖書を読んでいると、食事の場面がよく出てきます。何でもないことのようですが、私はそういう所に聖書が身近に感じられます。そしてこの食事の席に、あのラザロも一緒に混じって食卓についていた。何気なく書かれていますが、一度は死んだ人がイエスさまによってよみがえった。そして今、実に共に食卓についている。イエスさまによって、そのように生かされて、食卓についている。ラザロのよみがえりが生の現実であったことを強く感じさせます。
 
     ナルドの香油
 
 さてそこに、ラザロの姉妹であるマリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐった、という出来事が起きます。
 この時の状況なんですが、西洋の画家が描くのは、テーブルの食卓に着き、椅子に腰かけておられるイエスさまの足もとで、マリアが香油を注いで髪の毛でそれをぬぐうというものです。しかしこれはヨーロッパの食卓の光景から想像して描いたものであって、椅子に腰かけて食事をしたわけではありません。当時のユダヤでは、どのように食事を取ったかということについていくつかの説があります。床に布を引いて、そこに料理の入ったお皿や杯を並べて、寝そべって食べた‥‥という説もあります。体を横たえ、体の左側を下にして寝そべって食べたと。寝そべって食べるなんてお行儀が悪いと思いますが、それが当時の正式なディナーのスタイルであったという説です。あるいは、日本の座卓のようなテーブルに食べ物を並べて日本人のようにして食べたという説もあります。その場合も、あぐらをかいて座ったり、リラックスして食べたという説です。
 いずれにしろ、マリアがナルドの香油を持って、それをイエス様の足に塗ったというのは、椅子に腰掛けていたのをテーブルの下に潜って香油を塗ったのではなく、座卓を囲んでいるイエスさまのもとにマリアが近づいて、香油を注いだという形になります。
 「純粋で非常に高価なナルドの香油」と書かれています。「ナルドの香油」‥‥これは、ネパールなどに生えているオミナエシ科の植物から取られる香油だそうです。だから輸入品で、とても高価なものでした。この当時は、庶民は風呂を沸かして入るという習慣がなかったので、体臭を消すために香料が使われました。また死者を葬る時も用いられました。中でもナルドの香油は、生薬としても用いられ、とても貴重なものでした。
 マリアが持ってきた香油は1リトラとあります。これは「約326グラム」になります。体積にするとどれぐらいになるのでしょうか。だいたい缶ビールの小さい方の缶1本分ぐらいでしょうか。イスカリオテのユダが「300デナリオンで売ればよかった」と言っていますが、1デナリオンが当時の労働者一日分の賃金ですから、300デナリオンは300日分の賃金です。とにかく非常に高い、ということは分かります。おそらくマリアにとって、一番大切な財産だったのではないでしょうか。あるいは母親から受け継いだものだったかもしれません。
 マリアは、その貴重なナルドの香油をすべてイエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。そんなにたくさんのナルドの香油を用いたので、「家は香油の香りでいっぱいになった」と書かれています。
 
     ユダの言葉
 
 さてそれを見て、イエスさまの弟子の一人であったイスカリオテのユダが言いました。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
 「もったいない」というのです。それよりも、それを300デナリオンで売って、貧しい人々に施した方が良かった‥‥と。そうすれば、貧しい人々が助かるではないか、というわけです。これはたしかに正論です。もっともに聞こえます。ユダの言うとおりに思える。
 しかし聖書は、そのイスカリオテのユダ自身が、実は盗人であったと書いています。彼はイエスさまと弟子たちの集団の「金入れ」を預かっていた。会計係をしていたのです。それは信頼をされていたということでもあります。にもかかわらず、彼はその金入れの中身をごまかしていたというのです。
 自分は不正をしていた。盗んでいたんです。その自分の罪、不正を覆い隠そうとして言った言葉のようにも聞こえます。彼は、キリスト・イエスさまを信じ、イエスさまのために献げているのではなくて、イエスさまを自分のために利用しているに過ぎなかったのです。キリストを愛しているのでもなく、キリストを愛そうとしているのでもなく、キリストを自分の利害のために利用しているに過ぎなかった。だからユダは、ナルドの香油をイエスさまに注いだマリアの行為が理解できなかった。マリアの行為は、キリストを愛することから出た行為です。対してユダの言葉は、キリストを愛していない言動です。すべては自分のためです。だからこのように人を裁くことを言うユダ自身は、決して貧しい人のために施さないでしょう。愛がないからです。
 
     イエスの葬りのための準備
 
 いっぽう、なぜマリアは大切なナルドの香油をイエスさまに注いだのでしょうか。それについてイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7節)と言われました。
 すでに祭司長やファリサイ派の人々は、イエスさまを捕らえようとしていました。そういうことはもちろんマリアも知っていたことでしょう。そしてマリアはイエスさまの言葉に聞く人でした。そうすると、これまでイエスさまがエルサレムで死ぬことになるという予告をまじめに聞いて、心に留めてきたことでしょう。そして今、イエスさまは彼らの待つエルサレムへ向かって行かれようとしている。私たちの救いのために。
 そのイエスさまのために、自分は何ができるのか、ということをマリアは考えたに違いありません。イエスさまが十字架に向かって行かれることを察知した。そのために自分は何ができるのだろうか、と。‥‥そういうキリストへの愛から出た行動であったに違いありません。その愛から出た行為が、300デナリオンもするナルドの香油をイエスさまに注いだという行為になったのです。愛というものは、時には説明のつかない行動をとります。キリストへの愛。神への愛。それがマリアにとっては、最も大切な持ち物をイエスさまに献げるという形をとった。それが一体何になる?と言われてしまえばおしまいです。しかしキリストを愛するがゆえに、理屈を超えた行動を取った。それがナルドの香油をイエスさまに注いだということであったと思います。
 それをイエスさまは、「私の葬りの日のためにそれを取って置いた」とおっしゃられました。‥‥死んだ遺体にも香油を塗りました。当時のこの地方では火葬にしないで葬りましたので、香油や没薬を塗って極力臭いを抑えるようにし、亜麻の布で遺体を巻いて葬りました。十字架へかかって死なれるイエスのために、ということです。
 この同じ出来事についてはマタイ福音書とマルコ福音書にも書かれています。そこには、マリアという名前は出てきませんが、マリアが香油を注いだのはイエスさまの頭に注いだと書かれています。これはどちらが正確に記録しているか、ということではありません。マリアは、まずイエスさまの頭に油を注いだのでしょう。そして次にこのヨハネによる福音書が書いているように、足にも注いだのでしょう。
 頭に香油を注いだということになりますと、それは旧約聖書において王や大祭司を選ぶときに注がれたことを思い出します。たとえば、サムエル記上16章を見ると、預言者サムエルが少年であったダビデに頭から油を注いで、イスラエルの王となると言いました。そのときダビデはまだ少年で、羊飼いでした。しかし神が預言者サムエルに、ダビデに油を注ぐように命じたのです。そしてのちに本当にダビデは王になりました。そのように油を頭から注ぐというのは、神によって選ばれたというしるしです。
 そもそも、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストという言葉は「油を注がれた人」という意味です。それは神によって選ばれた人という意味です。ですから、この時マリアが注いだナルドの香油は、奇しくもイエスさまが神によって選ばれた真の王であることを示すものとなったのです。十字架へ向かわれるイエスさまが、真のキリストであるということをマリアは暗に証言しています。
 マタイとマルコの福音書では、マリアは頭に注いだと書かれ、ヨハネ福音書では足に注いだと書かれています。イエスさまはその足で十字架を担いで、ゴルゴタの丘に向かわれることになる。イエスさまの足に注がれたナルドの香油は、その足を祝福し、神の救いを指し示すものとなったのです。
 それだけではありません。多くのナルドの香油を塗られたイエスさま。このあとエルサレムに入場した時も、神殿の境内で民衆に教えられた時も、そして祭司長たちによって捕らえられた時も、大祭司の邸宅で真夜中の尋問を受けた時も、そしてローマ総督ポンテオ・ピラトによって裁判を受けた時も、鞭打ちの刑を受けられた時も、そして十字架を担いでゴルゴタの丘への道を歩かれた時も、そして十字架につけられた時も‥‥このナルドの香油の香りは、漂っていたのではないかと思います。
 人々から見捨てられ、弟子からも裏切られ、見捨てられ、人間の罪の泥沼の中を十字架へ向かって歩まれた主イエス。その最後の歩みの過程で漂っていたこのナルドの香油の香りは、人間の救いのかすかな祈りであり、深い所でキリストへの感謝となってあらわれていたと言えます。
 
     キリストのために
 
 イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言いました。先ほど申し上げましたとおり、言葉だけ聞けば、それは道理に聞こえるかもしれません。しかしそのように言う人は、決して貧しい人のためになることをしないでしょう。神を信じていないからです。
 インドのコルカタの聖女と言われたマザー・テレサ。ご存知のように、彼女は無一物で、コルカタの貧しい人々のために生涯をささげました。イスカリオテのユダの問いに対しては、マザー・テレサのことを例に挙げて答えることができます。ある時、テレビ局がマザー・テレサを取材しました。マザー・テレサと彼女の同労者たちが、毎朝早朝に1時間の礼拝(ミサ)をささげている。それを見て、そのテレビ局の人がマザー・テレサに、ちょっと意地悪な質問をしました。「マザー、あなたが毎朝、礼拝のために使っている1時間を、貧しい人々のために使ったならば、もっと多くの貧しい人々が助かるのではないですか?」と。
 それに対してマザー・テレサは答えたそうです。「私はこの毎朝の礼拝なしに、貧しい人々のために働くことはできないのです」と。キリストのために献げる時間こそが、慰めとなり、励ましとなり、力と意味を与えてくれるということでしょう。
 マリアの注いだナルドの香油。考えてみれば、それはたしかに高価な香油でしたが、私たちを神の子とするために十字架に向かって行かれるイエスさまに対して、いったいそれが何かの役に立つのかと思われるようなものに過ぎません。しかしそれがキリストに対する感謝と祈りとなった時に、意味を持つものとなったのです。
 同じように、私たちが生きている毎日。何の意味もないように思われることもあります。しかしその私たちの毎日も、キリストに対する愛があるならば、変わってきます。主がその愛を受け取って、導いて下さる一週間でありますように。