2025年3月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書49章6
    ヨハネによる福音書11章45〜57
●説教「脱線の真実」小宮山剛牧師
 
   レント
 
 私事ですが、このたび帯状疱疹にかかりました。2週間前から上半身のところどころに、時々痛みが走りました。「なんだろうな?」と思っていたのですが、約1週間後の先週月曜日に赤い発疹が出まして「ああ、これはもしかして帯状疱疹か」と思いました。そして翌日お医者さんに行きまして薬をもらったんですが、発疹は増え、痛みもひどくなって夜も眠れないほどになり、礼拝説教できるかな?と思ったのですが、さいわい一昨日夜から痛みが少しやわらぎまして、きょうの礼拝を迎えることができました。
 今まで帯状疱疹にかかった方の話を何人もから聞いたことがあったのですが、そのときは「へ〜」と思った程度でした。しかしいざ自分がかかると、これはなかなかたいへんだということが分かりました。やはり人の痛みというのは、自分もそうなってみないと本当には分からないなあと、あらためて思いました。
 2週間前というと、レント(受難節)に入った週です。私はそのことに気がついて、ああ、神さまは、キリストのご受難の苦しみを少しでも分からせるために帯状疱疹になることをお許しになったのだと思いました。もちろん、イエスさまの十字架の痛み苦しみとは比較にならないわけですけれども、少しでもキリストの受難に心を寄せるように導かれた。そう思うと、この痛みも恵みであると思うことができました。感謝であります。
 
   不信仰な人々
 
 さて、このかん、ヨハネによる福音書の11章、ラザロのよみがえりの所を読んでまいりました。死んで墓に葬れたラザロ。葬られてから4日も経っていました。そのラザロに向かって、イエスさまが大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫ばれました。するとラザロが墓から出てきました。これは、終わりの日の私たちの復活を予言するものとなりました。
 さて、この驚くべきしるしについて引き起こされた全く二つの異なる反応が、きょうの聖書箇所に書かれています。
 一つは、その場にいた多くの人々です。その人たちは、イエスさまを信じました。
 もう一つは、イエスさまを殺そうと決めた人々です。驚くべき反応です。しかもこの人たちは、無神論者ではありません。異教徒でもありません。ユダヤの宗教の、つまり聖書の宗教のリーダー達であり、指導者たちです。それがそこに書かれている祭司長たちとファリサイ派の人たちです。一人の死んだ人が生き返った。これはどうしても神さまの力です。この文句なくすばらしい奇跡を知って、悔い改めてイエスさまを信じるようになったというのではなく、180度反対にイエスさまを抹殺することを決めた。
 当時のユダヤ社会のトップは、大祭司でした。当時のユダヤはローマ帝国の占領下にありました。そしてローマ帝国は、ユダヤ人の一定の自治を認めていました。そのユダヤ人社会のトップが大祭司です。大祭司はエルサレムの神殿の司ですから、文字通りの宗教者です。その下に祭司長たちがいました。そしてその管理の下に、サンヘドリン、この聖書では最高法院と訳されていますが、ユダヤ人の議会がありました。最高法院の議員は、サドカイ派とファリサイ派によって構成されていました。サドカイ派は祭司や貴族が主なメンバーでした。一方ファリサイ派は、神の掟である律法と戒律を守ることに熱心な人たちで、庶民でした。
 彼らはイエスさまがラザロを生き返らせたということを聞いて、共に危機感を強めました。(47節)「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。」と相談しました。この「しるし」という言葉はヨハネによる福音書が言葉で、「奇跡」のことです。ただの奇跡のことではなく、メシア=キリストであることを示す奇跡を「しるし」と言っています。
 彼らサドカイ派とファリサイ派は、ふだんは仲が悪かったのですが、イエスさまを排除するという点では意見が一致しました。彼らは言いました。(48節)「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
 彼らが懸念したことは、イエスさまをメシアであると信じる人々が増えていくと、イエスさまを新しい王にしようとして暴動を起こすに違いないということでした。実際にすでに、ヨハネ福音書の6章の所で、イエスさまが少年の差し出した5つのパンと2匹の魚によって、男だけでも5千人もの人々を満腹にさせたというしるしをなさいましたが、そのとき人々はイエスさまを王に担ぎ上げようとしたことがありました。そのときはイエスさまが、人々のもとを去って行かれました。しかし今回の驚くべきしるしは強烈で、イエスさまをメシアと信じて新しい王にしようとする運動はさらに盛り上がるでしょう。そうするとそれが暴動に発展するに違いない。そうすると支配者であるローマ人は、暴動を一番恐れていますから、軍を差し向けて徹底的に人々を弾圧するに違いない。神殿も破壊するだろう‥‥彼らはそのように予想し、危機感を抱いたのです。
 もちろん、イエスさまの王国はこの世の王国ではなく神の国のことです。だから人々の革命運動の神輿に乗るようなことは決してありません。しかし彼らはそうなるに違いないと思って危機感を抱いたのです。
 すなわち、彼らは神を信じるように人々を教え導く立場の宗教者でありながら、本当は神を信じていないのです。少し前には、イエスさまが生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされたことがあります。そのときも、本当にその人がイエスさまによって目が見えるようになったのかどうかをくわしく調べました。そしてたしかにイエスさまが見えるようにしたことが分かりました。しかし彼らはイエスさまを信じるどころか、目が見えるようになったその人をユダヤ人社会から追放しました。つまり彼らは、自分たちの立場や地位を失うことを恐れているのであって、本当に心から神を信じようとしているのではないのです。言葉を変えて言えば、自分たちの神さまを勝手に作り上げていると言うことができます。自分たちの立場や利益を優先さえて考えているのです。現実を優先させているのです。宗教者でありながらです。だからしるしを見ても信じない。イエスさまを受け入れられない。
 私はこのところを読んで、自分も宗教者のはしくれですが、現実や体裁に捕らわれず、ただイエスさまの真実、神さまの真実を求め続け、証しする者でありたいと思いました。現実に捕らわれすぎていると、キリストを見失ってしまいます。私たちも心したいものです。
 
   大祭司の預言
 
 彼ら国のリーダー達は「どうすればよいか?」と相談しました。それに対して、ユダヤ人トップの大祭司であるカイアファが言いました。(49〜50節)「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
 これは彼らの考え方から言えば、イエスという一人の男に死んでもらえば片づく問題だということです。人々が王に担ぎ上げようとしているイエスに死んでもらえば、もはや暴動も起きることはないのだと。つまり、イエスを殺してしまえという提案です。
 しかしこの福音書を書いたヨハネは、実はこれは大祭司の考えで語った言葉ではないというのです。預言したというのです。「預言」というのは、神の与えた言葉です。大祭司は、自分が意図せず神さまによってこのことを語らされたのです。すると「一人の人間が民の代わりに死ぬ」ことによって国民全体が滅びないで済むというのはどういうことになるでしょうか?
 それは十字架を預言していることになります。イエスという一人の人間が、私たち人間の代わりに十字架にかかって死なれることによって、人々が滅びないで済む、救われるという預言です。そしてヨハネは52節で、「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」と書いています。つまりユダヤの国民だけではなく、世界に散らされている神の子となる予定の人々をも集めて救う、そのために死ぬということなのだと言っています。それが神が御子イエスさまを十字架に向かわせる理由であるということです。
 しかし大祭司の言葉は、議会の議員たちには、イエスを抹殺せよとの指令の言葉として聞こえました。それで議会は、イエスの居所が分かれば届け出よという指令を出しました。言葉を変えて言えば、イエスさまの逮捕状が出たのです。するとイエスさまはエルサレム近辺から離れ、寂しい町へと移られました。これは死を免れるためではありません。今この時は十字架にかかるときではないということです。神の定めた十字架の時は、このあと出て来ますが、過越祭の時であったのです。
 
   神の意思としての十字架
 
 すなわち、イエス・キリストの十字架の死というものは、何かイエスさまに敵対するこの世の人間のたくらみが成功したということではないということです。一見悪の勝利のように見える。しかし実はそうではない。私たち民を、滅びから救うために、私たちの代わりに死んで救ってくださったということなのだと。そのことを、神さまは、イエスさまを憎む大祭司カイアファの口を借りて預言されたというのです。
 ここに私たちは、人間の思いを超えて働かれる神さまを知ることができます。イエスさまが十字架にかけられて死なれた時、人間の罪、悪魔の勝利であると思えました。しかし実はそうではない。実はそこに神さまの偉大なご計画があって、それが成就したのであるということです。
 そのように神さまは、悪をも用いて、神さまのご計画を進められるのです。この世は、悪が支配しているように見えます。しかし実はそうではない。実はその悪さえも、神さまのお許しがなければ何もなすことができない。一羽の雀さえ、神のお許しがなければ地に落ちることはない(マタイ10:29)とイエスさまはおっしゃいました。悪が支配しているのではありません。神さまが支配しておられるのです。人間の罪と悪が満ちているこの世を見放すのではなく、その中に入ってきて、動かしてくださるのです。
 イエスさまの十字架がそのことを証ししています。それは悪の勝利、人間の罪の勝利のように見えた。しかし復活によって、私たちを救うための神のご計画の勝利であったことが明らかにされました。その十字架によって、私たちは救われました。カイアファの預言を見てください。「一人の人間が民の代わりに死に」と言っています。「民」の中に私たちもいるのです。「私の代わりに」死んでくださった。‥‥つまり、本当は私が死ぬべきところを、イエスさまが「代わりに」死んでくださった。それは愛から出たことです。
 だから私たちは、悪がこの世を支配しているのではないことを信じて良いのです。私を支配しているのも悪魔ではありません。この世を支配しているのも悪魔ではありません。この礼拝から帰って、私たちはまた、この世の中に戻っていきます。そこはまたいろいろな問題が渦巻き、悩みのタネが転がっており、心配事がある世界です。しかし私たちが主イエスと共に歩むなら、そこは悪が勝利をおさめる世界ではなくなります。人間の罪と悪にもかかわらず、神さまが生きて、働いてくださる世界です。問題や、心配事の中にさえも、神さまが働いてくださいます。
 
   十字架の愛
 
 話しは変わりますが、このたびチイロバ牧師こと榎本保郎先生の新しい本が出版されました。亡くなってからもう50年近くも経つのに、今ごろなぜ新しい本が出版されたかというと、未完の原稿が見つかったのだそうです。その本は、『エッケ・ホモ』ラテン語で「見よこの人だ」という意味です。その中にこのようなエピソードが書かれています。
 あるとき、一人の目の見えない人が榎本先生にこんな質問をしたそうです。「二千年も昔、頼みもしないのに勝手に十字架についておいて、あれはおまえの罪のためのものであった、と言われてもありがた迷惑です」。榎本先生はその鋭い質問にたじろいだそうです。しかし質問を受けた以上、なんとか答えなければならない。そして、とっさにこう答えたそうです。「頼んだから十字架についてくれたというのでは当然じゃないですか。頼まんのに十字架について死んでくれたところに神の愛があるのですよ」と。すると彼は大きな声で「わかりました」と答えたそうです。あとでよく考えてみると、なんだか自分でもよく分からない回答をしたようにも思えたそうですが、このことからその人は熱心に求道し、やがて信仰を告白して信徒となったそうです。
 そしてこう書いています。「先ほどの盲人は、信じることによってイエスさまと自分の間にあったかすみが晴れて、ほんとうに主の十字架はわたしのためであったということを発見することができたのだろう。」
 あらためて主の十字架が、私を救うための愛から起きたものであることを心に留めたいと思います。


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