2025年3月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書30章21〜22
    ヨハネによる福音書11章38〜44
●説教  「命の一声」 小宮山剛牧師
 
   イエス・キリストという方
 
 水曜日からレント、受難節に入りました。こちらの講壇カバーの色も紫色になりました。紫は悔い改めを表します。レントは十字架にかかられたイエスさまの受難を思い、それによって私たちに与えられた恵みを深く心に刻むときです。もちろんこのことはレントの期間だけではありませんが、このレントという時が与えられていることを感謝し、私たちの心を神さま、イエスさまのほうに向ける機会としたいと思います。
 そのイエスさまがどういう方であるか。きょうの聖書箇所によって恵みを分かち合いたいと思います。
 38節からですが、イエスさまが「再び心に憤りを覚えて墓に来られた」と書かれています。これはその前の37節を受けてのことです。そこでは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う人がいました。それを聞いて、イエスさまは再び心に憤りを覚えられました。
 これは、その人たちが「イエスさまでもラザロが死なないようにはできなかったのか」と言ったことに対して腹を立てられたということではありません。前回のところでもイエスさまは心に憤りを覚えられましたが、そのときの理由と同じです。つまり「死」に対する憤りです。人間は死を逃れることができません。必ず死にます。どうすることもできません。そして聖書によれば、死は人間の罪の結果です。人々が、「イエスさまでもラザロが死なないようにはできなかったのか」と言うほどに絶望した、その死に対して再び憤られました。
 それは愛があるゆえの憤りです。イエスさまの愛です。その愛が、本日の驚くべき出来事へと向かわせています。それが死んで墓に葬られたラザロのよみがえりです。
 
   信じられない現実の中での信仰
 
 そして、このラザロに死に関する箇所では、信じるということが強調されています。きょうのところでは、ラザロが葬られた墓に来たイエスさまが、墓石を取りのけなさいとおっしゃったときに、マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。するとイエスさまはおっしゃいました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
 そのように「信じる」ことを求めておられます。これは前回の所でもそうで、イエスさまがこのベタニア村に着いたときにマルタにおっしゃっていました。(25〜26節)「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
 そのように、そこでも「信じる」ことを求めておられます。またきょうのところでも、このあとイエスさまが天の父なる神さまに向かってお祈りされるのですが、その中で(42節)「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」とおっしゃっています。
 そのように、まわりにいる人たちに「信じる」ことを求めておられます。人々を信仰に導くためにこれらのことをなさっています。
 イエスさまは、なぜ人々に信じるようにうながされるのでしょうか? 人々が信じなくてもイエスさまにはこの奇跡を行うことができるのではないでしょうか?
 それは、神さま、イエスさまは一人芝居をなさらないからです。私たちと共に働こうとなさるからです。それが信仰というものです。そうして信じることのすばらしさを教えようとなさいます。
 たとえば私たちは、幼い子どもに遊んだあとの片付けや掃除を教えるとき、どのようにして教えるでしょうか?‥‥子どもは遊ぶことに夢中です。そして部屋を散らかします。その散らかしたものを片付けるには、親が一人で片付けた方が早くて手間もかからないに決まっています。しかしそれではいつまでたっても幼子は片付けるということを覚えません。それで親は、時間と手間はかかっても、幼子といっしょになって、教えながら片付けます。そうして子どもは成長していきます。
 神さま、イエスさまもそうです。奇跡をするだけなら、人間は必要ありません。きょうのラザロについても同じです。ただ単に死んだラザロをよみがえらせるだけならば、イエスさまは何も言わずにまっすぐに墓に行って、そしてよみがえらせればいいわけです。しかしイエスさまは、何度も「信じる」ということをマルタに求めています。そしてまわりにいる人たちに、信じようとさせます。
 マルタは前回の所でイエスさまが、(25〜26節)「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃったとき、(27節)「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。これはイエスさまを神の子救い主として信じる信仰の告白の言葉でした。一つの頂点を迎えました。
 ところがきょうのところでは、実際にイエスさまと一緒にラザロが葬られた墓に行って、イエスさまが「石を取りのけなさい」とおっしゃったときに、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)と言いました。イエスさまが死んで四日も経って腐敗し始めているラザロをどうにかできるわけはないと思ったのです。マルタは墓を前にしたときに、たちまち現実に引き戻されてしまいました。しかしこれはマルタだけの話ではありません。私たちもまた、イエスさまを信じますと告白しても、いざ難しい現実を前にすると、たちまち信仰を失ってしまうんです。
 今回、YouTubeで「ヨハネによる福音書」を忠実に再現した映画のこの場面を見ました。便利ですね。ヨハネによる福音書を映画にしたものを、いながらにして見れるのですから。そうすると、イエスさまも弟子たちもまわりにいる人たちも、区別がつきません。当たり前の話ですが、イエスさまも当時の人々が来ていたのと同じような服を着ておられるし、後光が射しているわけでもない、全くふつうの人に見えます。そうすると、この人がイエスさまだと言われても、そんな大それた奇跡を行うようには見えないんですね。人間というのは、目に見えることによって左右されますので、いくら信じようとしてもイエスさまでも無理ではないかと思ってしまうでしょう。ですからマルタが、そう言ったのも無理はないかもしれません。
 
   イエスの祈り
 
 当時のユダヤの墓は、洞穴式でした。エルサレムとかベタニヤとか、山の方なんですね。平地ではありません。そして石灰岩の地質です。石灰岩と言えば、岩石の中では柔らかい方で、鍾乳洞というと大きなものですが、自然に洞窟になっている場所があったり、あるいは穴を掘っても掘りやすい地質です。そういう横穴を利用して、その中に死んだ人を葬ったんです。遺体に香料や香油を塗ってから布でぐるぐる巻いて葬りました。そして入り口に丸い大きな石を転がして、ふたをしたんです。
 マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。それに対してイエスさまは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃいました。そのように、あらためて信じることを求められました。
 そしてイエスさまは、天の父なる神さまに祈り始められました。それが41節〜42節です。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
 このお祈りは、私たちの祈りと同じでしょうか? 正直言って、かなりちがっているのではないでしょうか。それは、父なる神さまが祈りを聞き入れて下さったと言って感謝しておられる点です。まだラザロはよみがえっていないんです。死体として墓の中に横たわっている。なのにイエスさまは、父なる神がイエスさまの願いを聞き入れて下さったと信じて感謝しておられます。
 なぜイエスさまは、父なる神がラザロをよみがえらせてくださったと信じることができるのでしょうか?‥‥それには、イエスさまと父なる神さまが一つであるというほどに深く結ばれていることがあるでしょう。神さまへの深い信頼です。同時に父なる神さまの御心をよく知っておられる。
 このヨハネによる福音書を書いたヨハネは、教会に宛てて手紙も書いています。そこにこう書いています。
(1ヨハネ5:14〜15)「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」
 私たちの祈り願う内容が、神さまの御心にかなっているならばかなえられる。従って、この祈り願いは既に聞き入れられたと信じることができる。このことを思い出します。
 イエスさまは、ラザロをよみがえらせることを願い、それが父なる神の御心であることを信じておられる。そして感謝をしておられる。そういう祈りです。そしてその場にいる人々が、信じるためにと祈っている。ここでも、人々に信仰を求めておられます。そして祈られたということは、この奇跡が父なる神さまの奇跡であることが分かります。
 
   終末の復活の予言
 
 そしてイエスさまは大声で叫ばれました。「ラザロ!出てきなさい!」この大声は、命の一声とも言うべきものです。私たち人間の絶対の壁である死の壁をうち破る大声です。命の宣言です。イエスさまは、人の死を仕方がないものとは思われない。憤られ、対抗される。ですからそれは愛の一声とも言えます。そうすると、ラザロが布で巻かれたまま出てきました。よみがえったのです。
 このラザロのよみがえりは、このあと起きる出来事によってもたらされるのです。時間は前後しますが。つまりイエスさまの十字架によってもたらされることを示しています。ですから、ラザロのよみがえりは、単にラザロ一人のよみがえりではありません。終わりの日の、私たちのよみがえりの予言となっているのです。
 この時よみがえったラザロは、現在生きているわけではありません。よみがえったあと、また何十年か生きて死んだことでしょう。だとしたら、ラザロがよみがえった意味はないではないかと思うかもしません。しかしそうではありません。世の終わりの日、イエスさまによってよみがえらされる、復活させられる、そのときのことを予言し、指し示すものなのです。すなわち、信じることによってもたらされる神の国の永遠の命を予言しているのです。
 
   神の御心を知るために
 
(1ヨハネ5:14〜15)「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」
 私たちは、どうすれば私たちの願いが神の御心にかなうかどうか分かるのでしょうか?
 それは聖書を読むことです。聖書を通して神の言葉に耳を傾けるのです。そして祈るのです。聖書を読まないし祈らないのでは、神の御心は分かりません。たとえば会話をしないで、相手の考えていることが分かるでしょうか?‥‥分かりません。会話をして、相手の考えていることが分かるのです。神さまとの会話、それが聖書を読むことであり、祈ることです。
 しかし、このことはまた、神の御心ではないことは祈ってはいけないということではありません。何でも願いを祈っていいんです。繰り返し祈り願っていいんです。そうすると、やがてその願いがかなえられることかどうか、神さまから教えられるんです。人間同士でも同じですね。繰り返し会話をして、だんだん相手がどういう人か、何を考えているか分かってくるのと同じです。答がないからといってすぐに祈るのをやめてしまってはなりません。
 主に御心を尋ねつつ、願いを申し上げるんです。神さまへの感謝をするんです。そして聖書を読む。何でも祈り願っていいんです。しかしそのときは真剣に祈ってください。祈り続けているうちに、平安や確信が与えられることが多くあります。そしてもう神様にゆだねよう、と思えるときが来ます。平安になってです。平安が与えられるときが来る。それは神さまが与えてくださる平安です。
 マルタも信仰を告白しながらも、疑いました。誰でも疑うんです。疑いのない人はいません。だからこそ祈るんです。賛美するんです。礼拝するんです。そして私のような者の祈りにも耳を傾けてくださる神さまに感謝をするんです。そして主によって、疑いを信仰へと変えていただくのです。
 レントの時。御言葉を読み、祈りと賛美を新たにしたいと思います。


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