2025年3月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書25章6〜9
    ヨハネによる福音書11章28〜37
●説教「イエスの涙」小宮山剛牧師
 
   レント入り
 
 今週の5日(水)からレント、つまり受難節に入ります。今年は暦の関係でイースター(復活祭)が4月20日とかなり遅くなっています。従ってレントに入るのも非常に遅い年となりました。レントは必ず水曜日から始まります。その日を「灰の水曜日」と言います。これは、プロテスタントではあまりいたしませんが、カトリックや聖公会では、この日に司祭が指に灰をつけて信徒の額に十字を書くことからそう呼ばれます。
 レントはイースター前日までの、日曜日を除く40日間と決まっています。なぜ40日間かというと、それはイエスさまが世に出る前に、荒れ野で40日間の断食をされたことに由来しています。日曜日を除くのは、日曜日がイエスさまの復活を覚える礼拝の日、喜びの日だからです。そしてレントの期間中は、祈りに専心したり、質素な生活を送ってそれによって浮いたお金を「克己献金」として献げるとか、あるいは善行に励むなどして過ごすということが行われてきました。そのようにして過ごしつつ、キリストのご受難に思いをいたすのです。プロテスタント教会ではその過ごし方は個々人に任せられています。ほかにもたとえば、聖書通読に励むとか、祈る時間を多くとるとか、祈りの課題を決めて毎日そのことを祈るとか、いろいろ考えられます。
 いずれにしても、キリストのご受難を覚えつつ、聖霊の助けを求めながら私たちの信仰を新たにさせていただくよう心がけたいものです。
 
   マリアの信仰告白
 
 イエスさまと親しかったラザロの死。前回の個所でイエスさまは姉のマルタに対しておっしゃいました。(25〜26節)「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」するとマルタは答えました。(27節)「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 この信仰告白の答えを受けて、イエスさまは話を進められます。注意しておかなくてはならないのですが、これはラザロがイエスさまに対する信仰を告白したのではないということです。姉のマルタの信仰告白です。ラザロはすでに死んでいます。そればかりか、この物語においてラザロはひと言も語っていません。肉親であるマルタの信仰の言葉を受けて、ラザロの復活へとつながっているという点です。このことは、私たちの信仰というものが、私たちの救いだけに終わるものではないということを静かに示していると言うことができます。
 
   感情を露わにするイエス
 
 そしてきょうの聖書の場面では、イエスさまの意外な姿があらわになっています。それは涙を流して泣くイエスさまであり、憤り、興奮なさる、すなわち感情をあらわにされるイエスさまの姿です。ラザロの死というものを巡って、涙を流され、憤られるイエスさま。私たちはちょっと驚きますが、しかし考えてみますと、これはきわめて人間らしいことであると思います。すなわち、前回は父なる神と一体である神の子としてのイエスさまが浮かび上がってきたわけですが、きょうの箇所では人の子としてのイエスさまの姿を私たちは見ることができます。そのイエスさまというお方は、決して冷酷無比な、感情のない人なのではなく、感情豊かな方であるということです。
 イエスさまが泣かれたという箇所は、ほかにはルカによる福音書の19章に書かれているだけです。それはイエスさまがロバの子に乗って、群衆が迎える中をエルサレムへと入って行かれる場面です。エルサレム手前のオリーブ山を降りて行かれるとき、イエスさまは、やがてエルサレムに臨む災いを思って泣かれました。人々が神の前に悔い改めなかった罪のゆえに、エルサレムが滅亡することを思って涙を流されたのでした。
 きょうの箇所では、イエスさまはラザロの死を巡って涙を流されました。私たちも愛する者の死に際して涙を流します。人はなぜ愛する者が死んだとき、涙を流すのでしょうか?
 一つには、すなおに悲しく寂しいからでしょう。もう見ることができない、もう会話を交わすこともできない‥‥そして同時にさまざまな思い出がよみがえってまいります。その懐かしさと寂しさが入り交じって涙を流します。もう一つには、後悔の涙というものもあるでしょう。後悔と言ってもそんなに大げさなものではないかもしれませんが、たとえば「行きたいと言っていたあの場所に連れて行ってあげればよかった」とか、「もっといろいろしてあげればよかった」というようなものです。しかしもうその機会はない。
 ではイエスさまの涙はどういう涙でしょうか?‥‥私たちは、もう会うことができないという悲しみ、寂しさの涙であるとしても、イエスさまはそうではないでしょう。前回の25〜26節でおっしゃった言葉があるからです。すなわち「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とおっしゃった言葉があるからです。よみがえりを語っておられるんです。そうすると、イエスさまの流された涙はどういう涙なのか?
 これは使徒パウロの言葉ですが、ローマの信徒への手紙12章15節に次のように書かれています。(ローマ12:15)「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」この言葉をご存じの方も多いかもしれません。しかもこれはなにか、「自分は悲しくないけれども、隣人が悲しんで泣いているから共に泣こう」ということではありません。この聖句は「愛には偽りがあってはなりません」(ローマ12:9)という言葉で始まるからです。つまり、隣人を愛するがゆえに、共感するんですね。相手の身になって考える。寄り添っているわけです。イエスさまの涙は、そういう涙です。
 ラザロに対する愛、周囲の人々に対する愛です。そしてそれが一方では、死に対する憤りとなる。人間は死というものに対して全く無力です。なすすべがありません。しかし死に対して憤るということはあまりないでしょう。むしろ、あきらめでしょう。
 しかしイエスさまは憤られたのです。そして興奮されたのです。興奮とは、心をかき乱すという意味の言葉でもあります。すなわち、死というものに対してあきらめるのではなく、憤られた。死に立ち向かって行かれるのです。ここが私たちと決定的に違うところです。それは人の子であると同時に神の子であるゆえにおできになることです。
 
   マリア
 
 本日の聖書箇所は、マルタがマリアを呼ぶところから始まります。おそらくマルタの方が姉であり、マリアが妹だと思われます。「マリア」という名前の女性は、聖書によく出てきます。イエスさまのお母様であるマリア、マグダラのマリア、マルコの母マリア‥‥という具合です。そのようにマリアという名前は多かった。きょうのラザロの姉弟でマルタの妹であるマリアは、一般にベタニアのマリアと呼ばれます。
 そのマリアは、イエスさまがベタニア村にお出でになったときに、イエスさまを迎えに出ませんでした。そして家の中にいました。おねえさんのマリアはイエスさまを迎えに出ていったのに、なぜマリアは家の中にいたのか?
 聖書を見ると、家の中にはマリアを慰めるためにマリアといっしょにいた人々がいることが分かります。そしてマリアがイエスさまの所に行くときには、その人たちはマリアが墓に泣きに行くのだろうと思ってマリアの後を追っていったと書かれています。しかしマルタがイエスさまを迎えに出てきたときには、いっしょについて行っていない。このことから、マリアの方が深刻な悲しみの中にいたのだろうと思われます。マリアは弟のラザロに死によって、深い悲しみと絶望の中にいた。それで弔問客はマリアを慰めるためにいっしょにいた。
 そこにマルタが来て、(28節)「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。イエスさまが自分を呼んでいると聞いて、マリアはすぐにイエスさまの所に飛んで行きます。そしてイエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました(32節)。マルタがイエスさまに言ったのと全く同じ言葉です。遅かったですよイエスさま、と。しかしマリアは今や、イエスさまに呼ばれて、そのイエスさまが目の前にいらっしゃる。
 もし私たちが、イエスさまに呼ばれたとしたらどうでしょうか? そしてイエスさまが目の前に立っておられたとしたらどうでしょうか?‥‥私たちの悲しみがどんなに大きくても、そして私たちの絶望がどんなに深くても、イエスさまが私の名を呼んでくださり、そしてイエスさまが目の前にいて下さるのなら、それで十分ではないでしょうか。もうありがたくて、ありがたくて、他に何もいらないという思いになるのではないでしょうか。
 私たちはマリアをうらやましがる必要はないんです。なぜなら、イエスさまは私たちをも呼んで、招いて下さっているからです。ヨハネによる福音書の15章16節でイエスさまは次のように弟子たちにおっしゃっています。(15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私たちはたいへんな修行をして、善行を重ねないとイエスさまに会えないのではありません。イエスさまのほうが、私たちを招き、導いて下さり、お会いして下さるのです。そしてイエスさまに招かれて、いまこのキリストの体である教会につなげられているのです。
 
   死との対決
 
 イエスさまは、マリアが泣き、またいっしょに来た人々も泣いているのをごらんになって、心に憤りを覚え、興奮されました。そして涙を流されました。それを見て人々は、「どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)と言いました。「愛しておられたことか」‥‥これは文法で言えば過去形です。ラザロが死んだことによって、愛が過去形になってしまいました。それは人間の現実です。しかしイエスさまは、死との対決に向かわれます。神の愛は死によっては、過去のものとならないのです。
 主はおっしゃいました。「どこに葬ったのか?」(34節)。ラザロの遺体をどこに葬ったのか、実際のところイエスさまはその千里眼によってご存じであったはずです。しかし「どこに葬ったのか」と言うことによって、マリアと人々を死の現場へと案内させる。死と対決するためにです。
 人はなぜ死ぬのでしょうか? 旧約聖書の創世記の第3章を読むと、人間が神に背いたためです。人間が神を信じず、命の源である神から離れてしまったためです。人間のせいなのです。しかしイエスさまは、だから人間が悪いのだ、仕方がないとはおっしゃらない。その罪人である人間、哀れな人間に思いを寄せ、涙を流され、死と対決される。死と対決されるということは、人間の罪と対決されるということです。それが十字架です。この先に十字架があるんです。
 そして、このラザロの物語は、私たちの救いの物語として読むことができます。ラザロは私たちの代表として描かれていると言うことができます。ラザロさん、いいね!ではないんです。私たちもよかったね!なんです。イエスさまは私たちの死に対しても涙を流されるんです。私たちの罪とも対決なさるんです。次週が楽しみです。
 
   死と救いについて
 
 ここで、死と救いということについて、アウグスティヌスが書いているものをご紹介したいと思います。アウグスチヌスと言えば、今から1600年ほど前の古代のキリスト教会の指導者の一人です。そのアウグスティヌスがこういうことを書いています。
 「どの人も肉の死を恐れるが、魂の死を恐れる人は少ない。いつかは必ずやってくる肉の死のために、どの人もそれが来ないようにと心を砕く。そこから労苦が出て来るのである。いつかは死ぬべき人間が死なないようにと苦労するのに、永遠に生きるべき人間が罪を犯さないように心を砕くことはしない。しかも死なないように骨折りながら、意味もなく苦しむのである。なぜなら、死をできるだけ遅くしようとしているのであって、避けようとしているのではないからである。しかしもし罪を犯そうとしなければ、労苦することもなく、永遠に生きるのである。」
 たしかにその通りです。現代でも同じです。人々は、そしてかつての私たちもそうでしたが、肉の死を遠ざけようと努力します。ウォーキングやさまざまな健康法に努力する。あるいは健康によいというサプリメントを試す。一生懸命いたします。もちろんそれらは大切なことです。しかしそれは確実に訪れる肉の死を遅くしようとする努力に過ぎない。一方で、魂の死、霊の死のために備えをしているのかと、そちらはしない。そして聖書は、永遠の命のために備えることができると言っています。それが、このイエス・キリストを信じることであると。
 アウグスチヌスは続けて言っています。「もしあなたが信じないのであれば、生きている時でさえもあなたは死んでいる。」
 レントを迎え、あらためて私たちを救うために苦しみを受けられたイエスさまのことに思いをいたしたいと思います。


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