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2025年2月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編43編5
ヨハネによる福音書11章17〜27
●説教 「死の扉の手前」 小宮山剛牧師
ベタニヤ村にて
本日の聖書箇所は、聖書の中で一つのピークを迎える箇所です。もちろん聖書の救いの物語のクライマックスと言えば、イエスさまの十字架と復活ですが、私たち人間の信仰という意味で言えば、きょうの箇所は間違いなく一つのピーク、峰の一つを迎えていると言えると思います。
前回、かつて洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所(ヨルダン川向こうのベタニア)に滞在しておられたイエスさまは、伝言によってラザロの重病を知りました。そしてさらに二日経って、ラザロが死んだことを知られました。しかしイエスさまは、「わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃり、ラザロのいる村へと行かれました。そちらのベタニア村は、エルサレムまで15スタディオンの距離だと書かれていますから、3km弱ほどの所にあります。3kmというとゆっくり歩いても1時間ほどの距離です。そしてイエスさまがそのベタニア村へ到着されたときは、ラザロが葬られてすでに四日も経っていました。四日。それはたしかに死んだということを強調しているように聞こえます。
私たちの肉親が死んだときのことを思い出します。息を引き取った直後、まだ体も温かいし、さっきまで息をしていた。何か声をかけて体を揺すったら、ひょっとすると目を覚ましそうに思われます。医師の死亡診断は、何かのまちがいではなかったか。ちょっと眠っているだけのようにも見える。しかし呼んでも叫んでも、もはや返事はありません。それが病院や施設で亡くなったとなりますと、すぐにその遺体を運び出すように、やんわりとうながされます。亡くなった方がクリスチャンの場合、教会員の家族の場合、すぐに牧師に連絡することとなります。そしてやがて葬儀社が来て、遺体を運び出す。ご自宅に搬送された場合はそれまで故人が寝ていたふとんに寝かす。そして葬儀社の方が、ドライアイスでご遺体を冷やします。これは葬儀の日までご遺体を冷やしてきれいな状態で保つためです。そうしないと、特に夏場などはまもなく腐敗が始まってしまいます。そのドライアイスを故人の遺体に乗せて冷やしたあたりから、死という現実が本当だということが実感として迫ってまいります。
四日‥‥それはそのように愛する者の死というものが、受け入れざるを得ないということが、実感を伴ってのしかかってくる頃と言えるでしょう。
現代の日本では、死ぬと葬儀を行ってから火葬するということになります。そして時をおいて墓に納めます。しかしユダヤでは、亡くなると、遺体の処置をしてからまもなく墓に納めます。ですから「墓に葬られて既に四日経っていた」と書かれていますが、それは死んでから四日経っていたという意味でもあるのです。そして当時のユダヤでは、多くの人々が連日弔問に訪れます。そして弔問に訪れた人は、大声をあげて泣くなどして、なるべく悲しみを表すのがマナーとされていました。イエスさまが到着されたのはそういう時です。
マルタとマリア
イエスさまが来られたと聞いて、ラザロの姉?であるマルタが迎えに出ました。これは村の入り口付近であったことが30節を見ると分かります。そしてきょうの最初の17節ですが、「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と書かれています。「イエスが行って御覧になると」と。しかしまだ村の入り口付近です。そうすると、イエスさまは何を御覧になったのでしょうか?‥‥イエスさまは既にその神の子としての能力で、墓の中に葬られているラザロを御覧になっていたものと思われます。すなわちイエスさまは、墓に葬られたラザロに向かって進んで行かれる。この物語のすべてがそこに向かっている。そのように見ることができます。
ここでいったんマルタという人について見てみたいと思います。長く教会に通っておられる方でしたら、「マルタとマリア」という姉妹のことがほかにも書かれていることをご存じだと思います。それはルカによる福音書の10章に登場いたします。そしてこのマルタとマリア姉妹のお話というのは、教会ではとても有名な話です。マルタとマリアはどちらがお姉さんで、どちらが妹なのか分かりませんが、そちらの話を読むと、どうやらマルタの方が姉のように思われます。そしてルカのお話しだと、マルタの方が活動的です。イエスさまと弟子たちを、マルタは自分たちの家に迎え入れました。そしてマルタは、イエスさまご一行をもてなすために忙しくしていました。ところが妹のマリアの方は、イエスさまの足もとに座ってイエスさまのお話しを聞いている。それでマルタは腹が立った。そしてイエスさまに向かって言いました。
(ルカ10:40)「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」‥‥「何ともお思いになりませんか?」なんて、妹のマリアだけではなくイエスさまにも腹を立てているように聞こえます。イエスさまもとんだとばっちりを食ったものですが、するとイエスさまはマルタにおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
それがルカ福音書のほうの出来事ですが、きょうのヨハネによる福音書も少し似たところがあります。それは20節を見ると、マリアの方は家の中で座っていたと書かれているからです。姉弟であるラザロが死んだことで、悲しみでいっぱいになっていたのでしょうか。
マルタ
イエスさまを迎えに出たマルタは言いました。(21節)「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
遅かった。そのように言いたいのでしょう。なぜもっと早く来てくださらなかったのか‥‥そういうニュアンスが込められています。それはすなわち、死というものが後戻りできないものであることを知っているからです。
ところがマルタは、そのあと続けて言っています。(22節)「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」‥‥イエスさま、あなたが神さまにお願いすることは何でも神さまはかなえて下さる、そのことを今でも分かっています。そのように踏み込んで言っています。それはすなわち、神さまとイエスさまが極めて親密な関係であること、もっと言えば、神さまとイエスさまが一つであること。そういう信仰の言葉です。人間には絶対の壁である死。しかしその死の壁というものを越えることができる、そういうものをイエスさまに見ている言葉です。
ここに聖書の一つのクライマックスが訪れます。手に汗を握るような問答です。死は終わりではないのか? 死は免れることのできない冷酷な現実ではないのか? 旧約聖書が天地創造で始まる。そして神によって作られた人間が罪を犯し、死が入り込む。誰もが死ぬこととなった。しかし聖書は、その人間の救いの物語を書き始めます。旧約聖書の長い歴史がある。そうしてキリスト=メシアの到来が予言される。そうしてイエスさまが来られる。‥‥そういう歩みをたどってきた聖書。それが今、ラザロの死を前にして、そしてマルタとの会話を通して、ついに真理が明らかにされようとしているのです。聖書の帰結するところはどこにあるのか? そのことが今、明らかにされようとしているのです。
イエスさまはおっしゃいました。(23節)「あなたの兄弟は復活する。」これに対してマルタは、(24節)「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。「終わりの日」、すなわち世の終わりの日、終末です。世の終わり、メシアが来るとき、よみがえり、復活ということが起きる。これは、当時のユダヤ教のファリサイ派の人々が信じていたことです。
現在、エルサレムに行って、そのすぐ東にあるオリーブ山に上りますと、その斜面に墓地があります。それは石の棺が並んでいるように見えます。その中に遺体が安置されているのです。そしてそれはエルサレムの市街地の真ん中にある、もとの神殿が建っている丘の方を向いています。どうしてそちらを向いている方というと、終わりの時にメシアがエルサレムの神殿に降り立ったとき、死んだ人が復活すると信じられているからだそうです。マルタも、終わりの日の復活のことを言ったのです。
イエスは復活であり命
それに対してイエスさまはおっしゃいました。(25〜26節)「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
これはちょっと聞くとおかしな言葉に聞こえます。「わたしは復活させる、命を与える」と言われたのではなく、「わたしは復活であり、命である」と言われました。すなわち、イエスさまその方が復活であり、命であると言われたのです。イエスさまその方が復活そのものであり、命そのものである。だったら、復活、よみがえりと永遠の命は、そのイエスさまとつながるところにある。そういうことになります。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」‥‥目の前にいる私を見なさい、とおっしゃっている。この私にすべてをゆだねるか?と問うておられる。そういう言葉です。すなわち、すべてはイエスを信じることへ向けさせておられるのです!
するとマルタは答えました。(27節)「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ここに福音書のピークがあるんです。イエスさまの十字架と復活が最高峰とすれば、その手前のピーク、峰です。イエスさまの言葉に対する人間の応答の頂点です。このマルタの信仰の告白の言葉を受けて、イエスさまは行動されます。信仰告白というものが、実に尊い言葉であることが分かります。命の光が差し込んでいるんです。
先日、友人の牧師から、長く教会を遠ざかっていた人の葬儀をした話を聞きました。その方は、若いときに教会で洗礼を受けましたが、教会の中で問題が起こったときにつまずいて、教会を離れたのだそうです。お母さんは今も教会へ通っている。それから長い歳月が過ぎ、最近になって癌にかかっていることが分かったそうです。しかも悪い状態であったそうです。すると死を前に母親に言ったそうです。「御国に行くんだから泣かないでほしい」と。そして葬儀はその牧師にしてほしいと頼んだそうです。そして葬儀では、彼の経歴を話すのではなく、ただ神の栄光を語ってほしいと言ったのだそうです。牧師も母親も、彼は教会を離れて信仰を失ったのだと思っていた。しかしそうではなかったことが分かったと言いました。
目の前のイエスさま。イエスさまはマルタにおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエスさまその方が復活、よみがえりそのものであり、命そのものである。そのイエスさまにつながる。それはすなわち復活につながることであり、命につながることである。信じることによってその命につながる。信じてイエスさまに我が身を委ねる。その尊さを思うことができます。
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