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2025年2月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編89編47〜49
ヨハネによる福音書11章1〜16
●説教 「永眠と仮眠」小宮山剛牧師
人の人
ヨハネによる福音書は、本日から場面が変わりまして、ラザロのよみがえりのできごとに入ります。
「ある病人がいた」(1節)という言葉で始まっています。1節全体を読むと「ラザロという病人がいた」という言葉で始まったほうが回りくどくなくてよさそうなものですが、「ある病人がいた」という言い方で始まっています。これはギリシャ語の原文でもそうです。
しかしここに聖書のメッセージがあると思うんです。「ラザロが病気にかかっていた」という言い方で始まりますと、ラザロとイエスさまの特別なつながりというように感じます。しかし「ある病人がいた」と始まりますと、それは何か特別な人だからイエスさまが行動された、ということではないということになります。言い換えれば、ひとりの人に焦点を当てている。特別な人ではない、ひとりの人。しかも十把一絡げではありません。私たち一人一人をご覧になっているような印象を受けます。
この世の中は十把一絡げで見る世の中です。一人一人を見るというよりも、集団で見る。たとえば、私もサラリーマンだった頃、スーパーにて自社製品宣伝のためのマネキン販売(店頭販売)をしたことがありますが、買ってくれるのは誰でもいいわけです。誰でもいいから買ってくれれば良い。一人一人のことまで考えない。お客さんが買ってくれて、お金が入ればいいわけです。買ってくれるのは「あなた」や「わたし」ではなくても全然かまわない。だれでもいい。そもそも資本主義社会というのはそういうものです。
しかし、「ある病人がいた」という言葉で始まり、そのためにそちらに向かって行かれるイエスさまの姿を見た時に、それは一人の人間を見ておられるイエスさまの姿が見えてまいります。それは同時に、この私という全く小さな一人にも目を留めてくださるイエスさまであることになります。その一人が、たまたまマルタとマリアという姉妹の兄弟であった。そういう書き方です。
マルタとマリアの姉妹は、イエスさまのもとに人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」と伝えました。「早く来て治してください」と言っているのではありません。ただ「あなたの愛しておられる者が病気です」という事実を伝えました。これは、あとはすべてイエスさまに委ねている言葉です。
ここで「あなたの愛しておられる者が」と言っています。そうすると「ああ、やはりイエスさまとラザロは特別に親しい関係だったんだな」と思ってしまいますが、これも最初の「ある病人がいた」という書き方からすると、ラザロがとくに特別だということではなさそうです。マルタとマリアの姉妹が、イエスさまに「あなたの愛しておられる者が」と言っている。これは私たちにもそのまま当てはまることだと思います。すなわち、「あなたの愛しておられる小宮山が」というように、自分の名前、あるいは家族の名前、隣人の名前を入れてみてください。イエスさまの愛しておられる○○と、信じることができれば幸いです。そう信じて良いのです。
死で終わるものではない
それを聞いてイエスさまはおっしゃいました。(4節)「この病気は死で終わるものではない」。ふしぎなお言葉です。「この病気は死で終わるものではない」と言われる。そもそも、死んだら終わりではないでしょうか。それで以前の口語訳聖書では「この病気は死ぬほどのものではない」と訳していました。これなら意味が通ります。ところがきょうの聖書箇所にも出てきますが、ラザロはこのあと死んだんです。そうすると口語訳聖書が訳しているように「この病気は死ぬほどのものではない」という訳し方は間違っていることになります。やはり「この病気は死で終わるものではない」と訳すべき言葉です。それはいったいどういうことなのか? 病気で死んだら終わりではないでしょうか?
しかしイエスさまが「この病気は死で終わるものではない」と言われたということは、死んだあとに続きがあるということになります。イエスさまは続けておっしゃいました。「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「神の子がそれによって栄光を受ける」とはどういうことか。それは、イエスという方が何ものであるのかがはっきりする、神の子であることが分かる。そういうすばらしい出来事が起きるということです。その出来事とは何なのか?‥‥そういう謎と期待をもたらしたまま、進んでいきます。
昼間歩く
そしてそれからなお2日間、今いるところに滞在されたという。ラザロが病気だということを、わざわざマルタとマリア姉妹が使いをよこして伝えたということは、重病で危篤状態であったことが推測できるのに、なお2日間同じところに滞在されたという。他にご用があったのです。すぐにいけない事情があった。
私たちにも、早くイエスさまに来てほしい、はやく問題を解決してくださいとイエスさまをせかしたくなることがあります。しかしイエスさまにはイエスさまのご計画があるということです。しかし遅れても「神の子がそれによって栄光を受ける」、そういうことになるというのです。これは励ましです。
そしてそのあと「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。今おられるところが、前回と同じ場所だとすれば、洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた場所、すなわちヨルダン川の向こう側のベタニアです。そしてユダヤは、ヨルダン川を渡ってエルサレムのある側になります。そしてマルタとマリアとラザロの3兄弟が住んでいる村も同じベタニアという名前の村で、エルサレムの近くにあります。
エルサレムのあるユダヤは、この前の10章で、ユダヤ人指導者たちがイエスさまを石で打ち殺そうとした場所です。そこに行かれるのですか?と弟子たちは言う。
するとイエスさまは言われました。(10〜11節)「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
なんだかふしぎな答えです。昼間歩けば光で照らされてつまずくことはないということは分かります。しかし夜は暗いのでつまずくということも分かります。しかしその次の言葉「その人の内に光がないからである」というのは、話が急に変わったようでよく分かりません。しかしここで、これはイエスさまがたとえを語っておられるということが分かります。すなわち、昼間光があって明るいうちはつまずくことがないように、その人の心の内に光があるならば、つまずくことがないということ。逆に、夜になって暗くなった時にはつまずくように、その人の心の内に光がなければつまずくということを言っておられる。
その人の内側にある光とは何か?‥‥それはイエスさまです。すなわち、イエスさまと共に歩むならば、つまずくことはないということです。イエスさまが光だからです。
永眠と仮眠
続けておっしゃいました。(11節)「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」
ここでイエスさまは、ラザロを「友」と呼んでおられます。イエスさまと弟子という関係でいえば、先生と弟子という関係です。またイエスさまが主人である、つまり「主」だとすれば、イエスさまを信じる者は「僕(しもべ)」です。そういう関係。しかしここでは「友」と言われます。何かぐっと個人的な親しい関係になっている。イエスさまがラザロのことを友と呼び、私たちのことを友と呼んでくださる。
そして眠っているラザロを起こしに行くと言われます。眠っているから起こす。実はラザロはこのときすでに死んでいました。この2日間の間に。しかし、イエスさまにとって死は眠りとみなされています。人間の理解を超えていることです。
ですからそれを聞いた弟子のひとり、トマスが仲間に言いました。(16節)「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。これはもっともな反応ですね。死んだトマスの所に行こうというのですから、人間が死んだら陰府に行くと考えられていましたから、イエスさまは陰府に行こうとおっしゃったのだと思った。つまり死にに行くのだと。
普通このイエスさまの言葉を聞いたら、そう思うでしょう。なぜなら、「死」というものは絶対だからです。一度死んだら、絶対に元に戻らないことを私たちは知っています。私たちが肉親を失った時、どれほどの寂しさを味わうことでしょうか。「できれば生き返ってほしい。もう一度この世に戻ってきてほしい」と願う。しかしどんなに泣いても叫んでも、死んだ人間は戻ってきません。
実際、私はここまで牧師をしてきまして、何人の兄弟姉妹の死に直面してきたことでしょうか。牧師ですから、他の人々よりも多く人の死に接することとなります。しかも同じ信仰をもって神さまを礼拝してきた人たちの死です。そのたびに家族を失ったような思いになります。家族の悲しみにも接します。
私たちは何度死の前に無力さを感じてきたことでしょうか。絶望したことでしょうか。涙を流したことでしょうか。「死」というものが絶対的なものであることを、身をもって味わってきたはずです。ですからイエスさまが、ラザロの所に行こうと言った時、それはラザロが行った死の世界に行こうとおっしゃったのだとトマスが受け取ったのは、当然のことなのです。
十字架に向かう主イエス
しかしその前にイエスさまは、「しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)とおっしゃいました。イエスさまにとっては、死も眠りと言われる。そしてそれは眠っている人を起こすのと同じように、死んだ人を起こすこともできるという言葉となる。おどろきです。それは神さまにしかできないことです。
そしてイエスさまはマルタとマリア姉妹のいるベタニヤ村、姉妹の弟のラザロが眠っているベタニア村へ向かわれます。今いるところから3兄弟のベタニア村に向かっていくと、その先にエルサレムがあります。そしてそこには十字架が待っています。すなわち、これからいよいよイエスさまは十字架の待つエルサレムのほうへと向かって行かれるのです。
それはすなわち、ラザロのよみがえりは、イエスさまの十字架の死と引き換えにして起きることなのだと物語っているかのようです。そして実際その通りです。時間的には前後しますが、ラザロのよみがえりは、イエスさまの十字架と引き換えになされることなのだと聖書は語っているんです。
「ある病人がいた」という言葉で始まるこのラザロの物語。それは、私たちもその「ある病人」に含まれるということです。私たちの死と復活。それもエルサレムの十字架にかかられるイエスさまによってもたらされるのである。そのことを物語っています。ここに確かな希望が示されています。
このことは同様に、私たちが「終わった」と思うことも終わりではないということも示しています。イエスさまがベタニア村に着くのが遅かった、もうラザロは死んでしまった、遅すぎた。そのように思われる。しかしそうではない。イエスさまという光と共に歩んで行くならば、そこに神の栄光が現される。その栄光を見ることができる。そのように信じるよう、励ましてくれています。
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