2025年2月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編29編1〜2
    ヨハネによる福音書10章31〜42
●説教 「目の前の神」小宮山剛牧師
 
   イエスを石で打ち殺そうとする人たち
 
 本日もヨハネによる福音書から神さまの恵みを分かち合いたいと思います。きょうもエルサレムの神殿が舞台です。そして最後の40節の所で、かつて洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていた場所、川向こうのベタニアというところに行かれます。
 さて、イエスさまのお話しを聞いて、ユダヤ人の指導者たちがイエスさまを石で打ち殺そうとしました。これは石打の刑にしようとしたということです。たいへん恐ろしいことでです。なぜイエスさまを石打の刑にしようとしたのでしょうか?‥‥彼らが言うには、イエスさまが神を冒涜したというのです。人間なのに自分を神としているからだというのです。
 これは彼らの律法のどこに根拠があるかというと、もとは「十戒」の掟にルーツがあると言えます。出エジプト記の第20章2節、それは十戒の第一戒ですが、こう書かれています。(出20:3)「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」‥‥すなわち、真の神である主だけを神として礼拝しなさいということです。このことがまずおおもとにあります。そして、彼らユダヤ人指導者がいう、神を冒涜したから石打の刑に処するというのは、旧約聖書のレビ記24章11節〜16節に書かれています。その16節ではこう書かれています。
(レビ24:16)"(イスラエル人の中で)主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。"
 それで彼らは、イエスが主なる神を冒涜した、呪ったと断定して石を投げようとしたということです。しかしこれはかなり無理な、こじつけの解釈だと思います。そもそもイエスさまに神を冒涜する意思があったようには、とても思えません。むしろイエスさまは神さまから遣わされたのであり、神さまと共に働いてこられたことは明白です。そのイエスさまが、神を冒涜したという罪で石打の刑にされる。石を投げつけようとしている人たちは、神の熱心な信仰者だと自他共に認める人たちです。しかしその人たちが、実は神を見失っているとしか思えません。それはまた、現代でも、宗教の名を掲げながら、侵略戦争やテロを行う、あるいはまた人を虐待する人たちとの共通点があります。つまり宗教の名を借りて、自分たちのやりたいことをやる。
 もし神さまという方が、そのような人たちのいうとおりの神であったとしたら、その神とは本当に神なのでしょうか。
 
   議論するイエス
 
 しかしイエスさまは、このような悪意に満ちた人たちと冷静に議論を使用となさいます。そこには過ちを正そうとするイエスさまの姿があります。
 イエスさまはおっしゃいました。(32節)「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」‥‥頭を冷やして、イエスがなさってきた業を思い出しなさい。それは父なる神の業であるはずだ‥‥そういうことです。
 そこで、イエスさまが今までなさってきた業について、ヨハネによる福音書に基づいて振り返ってみましょう
 @はじめに2章において、カナの村での婚礼の席で、足りなくなってしまったぶどう酒を補充するために、水をぶどう酒に変えられたという「しるし」を行われました。これは結婚した二人を祝福する奇跡でした。
 A次に4章において、サマリアの女との対話がありました。後ろ指を指され、重荷を負って生きていた女性が喜びに満たされ、彼女を通して町の人がイエスさまを信じるようになったという出来事でした。
 B同じく第4章において、王の役人の息子が病気で死にかかっていたのを、癒やされたという「しるし」がなされました。
 C5章では、ベトザタの池のほとりで38年間病気で寝たきりだった人を癒やされるという奇跡をなさいました。
 Dまた6章では、男だけでも5千人というおおぜいの人々を、少年が差し出した5つのパンと2匹の魚で養うという奇跡をなさいました。
 Eさらに9章では、生まれつき目が見えなかった人の目を見えるようになさいました。
 これらイエスさまのなさったことは、たしかにいずれも「善い業」であるに違いありません。なぜ善い業と言えるかというと、そこにがあるからです。イエスさまの奇跡はいずれも愛があるんです。そしてこれらの奇跡は、神さまにしかできないことです。
 そもそもイエスさまを憎み、排除しようとしているファリサイ派の人の中にも、イエスさまを認めている人がいました。3章で登場したニコデモという人です。ニコデモはそのときイエスさまに言いました。(3:2)「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」‥‥ファリサイ派の中にも、イエスさまのなさる業を見て認める人がいた。ですから、誰も批判しようがないすばらしい業の数々です。
 ですから、イエスを抹殺しようとする人々の理屈は、イエスを抹殺するための口実を探しているとしか思えません。彼らは言いました。(33節)「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
 イエスさまのしている業のゆえではないという。まことにおかしい理屈です。たとえば、マザー・テレサが尊敬を受けノーベル賞をもらった理由はなんでしょうか?‥‥彼女がしてきたことについて、すなわち彼女のしてきた業が尊いものと評価されてノーベル賞を受けました。行いがすばらしかったのです。逆に、口ではまことに良いことを言うけれども、していることが悪かったら、それはなんにもなりません。そういうことを考えてみれば分かることです。
 
   人間が神々と呼ばれる件
 
 しかしそのような無茶苦茶な理屈に対しても、イエスさまはさらに忍耐強く彼らを諭そうとなさいます。
(34〜36節)「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしが神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」
 ちなみにここで言われている「律法」というのは、広い意味で使われていて現在の旧約聖書にあたる書物のことを指しています。そして「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」という箇所がどこにあるかと申しますと、おそらく詩編82編6節だろうと思われます。イエスさまにしてみれば、あなたがたの律法の書でも、神の言葉を受けた人が「神々」と呼ばれているではないかと言いたいのです。
 また「神々」という言葉ではなくても、人間を「神の子」と読んでいる箇所は旧約聖書にもいくつかあります。たとえばその一つに
(ホセア書 2:1〜2)"イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と、言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる。"
 つまり人間が「神の子」と呼ばれるようになることが期待されているんです。人間はもともと神さまの栄光をあらわす存在となることを期待して造られたからです。そうすると、イエスさまに石を投げようとしている人々の理屈は間違っていることになります。
 
   愛によって一つ
 
 イエスさまはおっしゃいました。(37〜38節)「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
 この言葉を聞いて、ユダヤ人指導者たちはまた怒り、イエスさまを捕らえようとしました。30節でおっしゃっていた「わたしと父とは一つである」の言葉と共に、イエスは自分と主なる神を一つとしていると聞こえたのです。
 イエスさまと父なる神さまが一つである。これは「三位一体」のことを言っていると受け取っても良いでしょう。しかしなにかそのような神学的なことを言っていると考えなくても良いでしょう。というのも、このあとのほうになりますが、最後の晩餐の席でイエスさまが神さまに向かって祈った祈りの言葉を読むと分かります。
(17:21〜23)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」
 これがイエスさまの願いでした。すなわち、すべての人が一つとなること、「わたしたち」つまり父なる神とイエスさまが一つであるようにすべての人が一つになることを願っておられるんです。それは、神の愛によって一つになるということです。そのために、イエスさまは十字架へ向かって行かれる。神の愛を示すためにです。
 
  イエスを石で打とうとする私たち
 
 39節に書かれているように、彼らはまた言えす様を捕らえようとしましたが、イエスさまはそれを逃れて去って行かれました。彼らを諭そうとするイエスさまの心は、彼らに通じなかった。彼らには通じない。最初からイエスさまを断罪しようとしているからです。それで去って行かれた。今は死ぬ時ではないというように。その先の十字架を見ておられるんです。
 イエスさまを石で打ち殺そうとする人々の姿。私たちはどうでしょうか?‥‥イエスさまに向かって石を投げつけないまでも、イエスさまを非難する言葉を投げつけたことはないでしょうか?
 私にはありました。それは牧師になってからも何度かありました。それはとても困難でつらいことが起こった時でした。私は言いました。「イエスさま、あなたは私を伝道者となるように召したのではなかったのですか? どうして私の祈りを聞いてくださらなかったのですか? どうしてこんなことになったのですか? あなたが私をお召しになったのは、ウソだったのですか? 私の聞き違いだったのですか? もう牧師をやめさせてください! ついでにクリスチャンであることも辞めたいです! 信じられません!」‥‥そんなふうに、イエスさまに非難の言葉を投げつけました。
 その他の時にもありました。「一生懸命祈ったのに、どうしてあの人がこんなひどい目に遭わなければならないのですか? もうやってられません! 牧師を辞めさせてください!」‥‥そのように言ってイエスさまを非難し、断罪しました。石を投げたんです。
 しかし、私はクリスチャンであることをやめず、牧師もやめずに今ここに立っています。なぜでしょうか?‥‥それは、いずれの時も、その先にすばらしいことが起こったからです。私の心をいやして余りあることが起こったからです。主の恵みが現れたからです。そこに神の愛が見えたからです。
 私たちは少し短気です。ヘブライ人への手紙10:36にこう書かれています。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
 イエスさまが私たちを忍耐をもって導いて下さるように、私たちにも忍耐が必要である。そして主の恵みにあずかる者でありたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]