2025年2月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言14章16
ヨハネによる福音書10章22〜30
●説教 「時を生きる」小宮山剛牧師
『讃美歌』500番
ただいま聖歌隊に歌っていただきました『讃美歌』500番は、「御霊なるきよき神」という歌い出しで始まっています。この曲の作詞者はジョン・ベルという人になっています。昭和29年に発行された『讃美歌略解』という讃美歌の解説をしている本によりますと、ジョン・ベルは19世紀のアメリカ長老教会の教職者です。そして日曜学校(教会学校)用として作られたそうです。解説にこう書かれています。「歌詞も曲も繊細な弱々しい歌であるため、今回あまりに感傷的な語句を訂正する措置がとられた。」
それで気になって、その前のもっと古い昭和6年に初版が発行された讃美歌に載っているこの曲の歌詞と比べてみました。そうすると、あんまり変わっていないんですね。しいて言えば、2節冒頭の「おののける手をささぐ」という歌詞が、古い讃美歌では「わななける手をささぐ」となっているという程度です。「わななける」も「おののける」もあまり違わないように思いますが、それが「あまりに感傷的」であり、繊細な弱々しい歌であると『讃美歌略解』に書かれている。昭和29年といえば、戦争が終わって9年後。戦災からの復興が本格的となり、経済成長が始まった当時は、繊細で弱々しい歌詞は好まれなかったのかもしれません。
しかしこの歌詞は、自分の弱さ、罪深さというものをたいへんよく見つめていますし、それゆえに主にすがらざるを得ない自分。その手を取って、主のもとに連れていってくださいと聖霊に頼んでいます。「御霊」というのは聖霊のことで、以前の聖書ではよく使われていた言葉です。1節の歌詞も、「わがよわきたましいを 主のもとにみちびきて かくれしめたまえかし」と歌っています。隠れさせてくださいと。めんどりが羽を広げて雛をかくまうように、主にかくまっていただきたいと願う。私たちの主は、主にすがる、弱い私たちをかくまってくださる方であることがたいへんよく表現されています。
それは、今読んでいますヨハネによる福音書の10章の、私たちの羊飼いであるイエスさまの姿と重なります。神の羊の囲いに入れてくださるイエスさまです。
あなたはメシアか否か
24節で、ファリサイ派の人たちなどユダヤ人の指導者たちがイエスさまに言っています。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」つまりイエスさまに対してしびれを切らして、「イエスよ、あなたがメシアかどうか、はっきり答えよ!」と詰め寄っているわけです。
これは、きょうの聖書箇所の最初、22節の冒頭に書かれていることと関係があると思われます。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」これは、この出来事があった時が「神殿奉献記念祭」の時だったという、単なる記録の言葉ではありません。それを説明するためには、そもそも神殿奉献記念祭とはなにか、ということを説明しなければならないでしょう。
神殿奉献祭と言いますのは、ユダヤ人の祭りで、口語訳および新改訳聖書では「宮清めの祭り」となっています。ユダヤ人はこの祭りのことを「ハヌカー」と呼びます。ときは12月のクリスマスごろ。「ごろ」と申しますのは、ユダヤ人の暦は私たちの使う太陽暦とは違って、月の満ち欠けに伴う太陰暦ですので、太陽暦に直そうとすると毎年ズレるんですね。イースターも同じですが。ですから今日でも、キリスト教会はクリスマスを祝い、ユダヤ人はハヌカーを祝います。
このハヌカーを説明するためには、イスラエルの歴史を振り返る必要があります。今、私たちの水曜日の聖書を学び祈る会で呼んでいますエレミヤ書。今はちょうどバビロン捕囚直前のところを読んでいます。そのバビロン捕囚。新バビロニア王国によって、ユダヤ人の国は滅亡し破壊され、多くの人々がバビロンに連れて行かれます。そしてやがてバビロニア王国をペルシャ帝国が倒します。そうすると、捕らえられていたユダヤ人は祖国に戻っていいよということになります。これは奇跡なんです。そうしてイスラエルの地に戻ったユダヤ人は、エルサレムの神殿を再建し、国を復興させます。
ところがしばらくして、今度はギリシャの隣、マケドニアからアレクサンダー大王という人が出てきて大帝国を作ります。ペルシャを倒し、遠くインドのほうまで征服する大帝国。そしてそのアレクサンダー大王が死にます。するとその大帝国は、アレクサンダー大王の4人の部下によって分割されます。ギリシャ人の統治の国家です。そしてイスラエルの地は、シリアのセレウコス朝という王朝の支配となります。その王朝で、やがてアンティオコス4世エピファネスという人が王様となります。このアンティオコス4世という人は、ユダヤ人の宗教を徹底的に迫害いたします。その辺のことは、『旧約聖書続編』付きの聖書をお持ちの方は、「マカバイ記」を読んでくだされば分かります。アンティオコス4世は、ユダヤ人が律法を学ぶことを禁止します。律法の書を見つけると焼いてしまいます。また安息日を守ったり、割礼を受けることを禁止します。そしてその命令を破った人を死刑にします。それほどひどく弾圧する。さらに、こともあろうにエルサレムの神殿にギリシャ神話のゼウス神の偶像を立て、祭壇を築きます。そして、律法で献げることを禁じられている穢れた動物、例えば豚を献げる。これはユダヤ人にとっては耐え難いことであったのですが、反対者を次々と処刑していきます。そういう悲惨な状況となります。
そのときにユダ・マカバイという人が出てくるんです。ユダ・マカバイは、父親、そして兄弟と共に決起し、反乱を組織するんです。そして独立戦争を始める。そして、ついにエルサレムを取り戻し、穢された神殿を清める。そして神殿をふたたび主なる神に献げます。これが紀元前165年のことで、このことを記念して行われるのがきょう出てくる「神殿奉献記念祭」というものなんです。紀元前165年というと、きょうのヨハネによる福音書のイエスさまの時代よりも約200年前のこととなります。イエスさまの時代にはイスラエルの地はローマ帝国の支配に入っていましたけれども、この祭りが今に至るまで続けられています。
きょうの聖書箇所で、ユダヤ人指導者たちがイエスさまに向かって「あなたがメシアかどうか、はっきり答えよ」と言ったのは、アンティオコス・エピファネスと戦って神殿を取り戻したあのユダ・マカバイの姿に、メシアを重ねて見ているんです。あのように国を回復してくれる指導者がメシアであると。神殿奉献記念祭のときに、ユダヤ人のメシア待望の気運が高まる。それでイエスさまに「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったのには、そういう背景と考えられます。
イエスとのズレ
「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。しかしこの言葉は、「もしかしたらイエスが本当のメシアかもしれない」と期待して言ったのではありません。イエスさまを捕らえるための口実だったんです。というのは、すでに9章に出てきましたように、すでにイエスをメシアと告白する者を会堂から追放することにしている(9:22)からです。
「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という彼らの問いに対して、イエスさまは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」とお答えになりました。このお答えを聞いて、私たちは「はて?イエスさまは自らメシアだとおっしゃったことがあったかな?」と思いますね。
ここまででは、イエスさまはご自分の口で「わたしはメシアだ」とおっしゃったことはありません。しかし、間接的におっしゃったことがあります。それは、4章のサマリアの女との問答の中でのことです。サマリアの女が言いました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスさまが言われました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
このようにイエスさまは、心からの真剣な問いには答えてくださるんです。しかし高ぶって尋ねてもお答えになりません。
きょうの聖書箇所でのユダヤ人指導者たちの「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という問いに対しては、イエスさまは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と答えられました。直接「わたしはメシアだ」とはおっしゃっていないんです。その代わりに、これまで私が言ってきた言葉を思い起こしなさい、そしてあなた方自身で判断しなさいとおっしゃっているんです。
続けておっしゃいました。「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」父なる神が証ししているのを見よ、と。私の父である神が、私を通して多くのしるしを行ってくださっている。それを見よ、思い起こせ。そして答えは自分で出しなさい。そういうことです。
このようなイエスさまの態度は、すべての福音書で一貫しています。例えばマタイによる福音書の11章3〜6節。ヘロデ王に捕らえられて獄中にいた洗礼者ヨハネは、イエスさまのところに弟子を遣わして尋ねました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」‥‥イエスこそメシアであると証ししたのは、洗礼者ヨハネではなかったでしょうか。しかしそのヨハネでさえも、イエスさまが本当にメシア=キリストであるか、分からなくなってしまったのです。その問いに対してイエスさまはおっしゃいました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
あなたはイエスのことを見聞きして、どう判断するのか? 羊飼いイエスさまの羊として、その群れに加わるのかどうか?‥‥そのように応答を求めておられるんです。
信じることへの招き
もう一度25節ですが、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」とイエスさまはおっしゃいました。信じるか信じないかが問題となっています。イエスさまがメシア、救い主であることを研究して知識として認めるのかどうか、ということではなく、信じるのかどうかと。
昨日ここで、笹本喜代子姉の葬式をいたしました。その中で、笹本姉が当教会創立70周年記念証言集で書いておられることをご紹介いたしました。「自分を主にゆだねて歩くだけ。主を信じ、ゆだねる。これだけが私の持ち物。信仰が主に与えられた最高の贈り物です。」こう書かれています。「信仰が主に与えられた最高の贈り物」。本当にそうだなあと思います。
イエスさまは、なぜ信じるのか、というような理屈を述べておられません。ただこのようにおっしゃっています。27節です。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」
この「従う」という言葉は「ついて行く」という意味の言葉です。羊が羊飼いのあとをついて行く。羊が羊飼いのあとをついていくのは、羊飼いの後についていけば大丈夫であることを知っているからです。羊飼いが、食べ物である青草の有る所に連れて行ってくれる。水飲み場に連れて行ってくれる。狼が来れば追い払ってくれる。そして夜は囲いの中に導いて、安心して休むことができるように守ってくださる。そして、我が身を捨てて永遠の命を与えてくださる。
28節でおっしゃっています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」‥‥だれも、何ものも、イエスさまの手から私たちを奪うことはできない。
使徒パウロもローマの信徒への手紙で書いています。(ローマ 8:35)「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。(ローマ 8:39)「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
たとえ私たちの信仰が弱っても、私たちは見捨てられないのです。かえってこの羊飼いは、心配してくださる。迷い出た1匹の羊を捜しに来てくださる。このようなイエスさまを信じる。それはただ神の愛にゆだねるということでもあります。
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