2025年1月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編23編4〜5
    ヨハネによる福音書10章7〜21
●説教 「命がけの羊飼い」小宮山剛牧師
 
   詩編23:4〜5
 
 最初に旧約聖書の詩編23編を見てみましょう。先週は1節〜3節を読みましたが、本日は続きの4節〜5節です。「4 死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。5 わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」
 主が羊飼いに、私たちが羊にたとえられています。前回は、羊飼いが羊を食べ物である青草のある所や、憩いの水飲み場に連れて行ってくれることが歌われていました。この画像は現代の写真です。羊飼いの少年が、羊に水を飲ませるために井戸から水を汲んでいるところです(『目で見る聖書の時代』日本キリスト教団出版局刊)。このように、羊飼いは羊を養うために導いてくれます。同様に、私たちの主は、私たちを養うために導いて下さるということです。
 そしてきょう読んだ4節5節では、羊飼いが羊を災いや外敵から守ってくれることを歌っています。その4節の中で「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と言われています。ちょっと読むと「鞭で羊をたたくのかな?羊を叱るということかな?」と思われるかもしれませんが、そうではありません。この鞭は羊を襲う狼などの野獣を追い払うために使われるものです。杖もそうです。杖は群れから迷い出ようとする羊を群れの中に戻すためにも使われるそうです。
 そのように私たちの主は、私たちを害そうとするものから守ってくださる。そういう力強い味方として描かれています。なお「わたしの頭に香油を注ぎ」と書かれています。頭に油を注ぐというのは、聖書では、神さまから選ばれたしるしであり、神の祝福のしるしです。あなたは私のものだ、そう言って祝福してくださる。そのような主なる神さまが私たちの羊飼いであると歌っています。たいへん力づけられ、慰められます。
 
   イエスは羊の門
 
 ヨハネによる福音書のほうですが、まず9節をごらん下さい。
(9節)「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 ここではイエスさまが、ご自分のことを「門」にたとえられています。この門は、夜羊たちが休む囲いの入り口の門のことです。このたとえ話の中で、イエスさまはご自分のことを「羊飼い」にたとえられると共に「門」にもたとえて話しておられます。つまり、イエスさまはご自分を「羊飼い」にもたとえられ、また「門」にもたとえておられるのです。
 門というものは、入り口にあります。門を通って、囲いに入る。囲いは、夜、羊が体を横たえ、休むところです。羊のねぐらであり、帰って来る場所です。それは私たちにとっては、神さまのところでです。そういうことにたとえておられます。私たちには帰る場所があるということです。
 
 一昨日の金曜日の夜、NHKテレビで、池上彰さんが司会を務める「時をかけるテレビ」という番組をやっていました。ごらんになった方もいると思いますが、これは以前放送した番組の中で反響の大きかったものを取り上げるものです。一昨日は、「ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜」という2017年に放送したドキュメンタリーを再放送していました。
 それは広島に住む中本さんという80代の女性の方のことです。中本さんは40代の頃から保護司を務めてきたそうです。保護司というのは、犯罪や非行をした人の更生を助ける人で、法務大臣から委嘱されて活動しますが、ボランティアです。中本さんは少年を対象にして奉仕してきました。そして、犯罪や非行に走る少年少女に、いつもお腹を空かせている子が多いことに気がつきました。家で十分食べさせてもらえないんですね。その理由は、親が育児放棄をしたり、あるいは酒ばかり飲んで仕事をしないとか、暴力をふるったり、生活が破綻しているということが多いそうです。つまり居場所がない。それが非行に走る原因にもなっているのではないか。それで中本さんは、いつでもそういう子たちが食べることができるように、365日24時間、自分の家を開放して食べさせるという活動を始めたのです。毎日3升もご飯を炊くそうです。そして居場所のない子供たちに食べさせる。そして親身になって相談に乗る。それで、そういう子たちの居場所になっている。みんなは中本さんのことを「ばっちゃん」と呼んで、自分の母親のように心を開いていく。ある男の子は少年院に行ったことがあるのですが、ばっちゃんの世話になり、自立して離れて働くようになりました。彼はばっちゃんのことを「第2の母親だ」と言っていました。
 テレビの取材スタッフが、中本さんに「なぜこういうことを続けられるのか?」と何度も尋ねました。するとある日、ばっちゃんがこう言いました。「子どもから面と向かって助けてくれと言われたことがない人には、分からんのじゃないの」。
 この番組を見ていまして、「ああ、こういう尊い働きをしている人がいるんだなあ」と思いました。そして「自分の居場所があるというのは大切なことだなあ」と思いました。
 
 子どもに居場所が必要なように、それは大人にも必要です。安心して帰るところがある。心からくつろぐべき場所、ぬくもりのある場所がある。それは私たちにとって、どれほど必要なことでしょうか。そいう居場所がなかったら、私たちは休まることがありません。
 「わたしは羊の門である」とおっしゃるイエスさま。その門の中の囲いは、イエスさまの場所です。神さまの所です。そこはイエスさまが外敵から守ってくださる場所、安心して体を休ませ、眠ることのできる場所。そういう場所が私たちのために用意されている。そして羊が毎日その門を出入りして、生きていくことができるように、私たちもその居場所がイエスさまによって用意されているから、外に出かけて行くことができる。なんとありがたいことでしょうか。
 
   豊かに与えられる命
 
 10節を読んでみましょう。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」たいへん印象的な言葉です。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」‥‥イエスさまがこの世に来られたのは、わたしたちが命を受けるため、しかも豊かに受けるためであると言われます。羊の盗人が来るのは、私たち羊を奪うために来る。それに対してイエスさまという羊飼いは、私たち羊に命を与えるために来られたという。しかも「豊かに」与えるために来られた。
 羊が命を「豊かに受けるため」。「豊かに受ける」とは、イメージとしてはなんとなく分かるけれども、具体的にはどういうことか分かったような分からないような言葉に聞こえます。この「豊かに」という言葉のギリシャ語には、「過剰な」とか「余りある」「必要以上の」という意味もあります。そうすると、「命を豊かに受ける」というのは「命を有り余りほどに、必要以上に」受けるということになります。何かコップから水があふれ出るような感じですね。
 そうしますと、単に永遠の命を受けるというだけでしたら「命を受ける」だけで良いでしょう。しかし「豊かに受ける」「有り余るほどに受ける」ということになりますと、神の国における永遠の命だけではなく、この世に生きている時も、そこからこぼれ出るような、あふれるような命を受けるということになるでしょう。言葉を変えて言えば「ああ、私は生きているんだなあ!」というような感謝と喜びに満ちた命、ということでしょう。
 それは、必ずしも問題のない平穏な日々という意味ではありません。私たちが「ああ、生きている、生かされている、感謝!」と思うときはどんな時でしょうか? 一昨年、私は心筋梗塞から助けられましたが、そのとき本当に「ああ、生きているんだなあ」と思いました。つまり私たちは、危機や困難からイエスさまによって助けられたとき、救われた時、いっそう喜びと感謝が自然に生まれるのではないでしょうか。つまり主と共に生きる。平穏な時だけではなく、苦しい時もイエスさまは私たちの牧者でいてくださる。そのときに、命を「豊かに受ける」ということになるのだと思います。
 
   命をふたたび受けるために捨てる
 
 11節でイエスさまは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。このたとえは、ふつうのたとえではありません。なぜなら、良い羊飼いがいるとしても、その羊飼いが羊を助けるために命を捨てるなどということはあり得ないことだからです。ほかの福音書のたとえ話のことを思い出してください。イエスさまのたとえ話には、必ず「おや、おかしいぞ?」と思うところがあります。人間の常識と違っているんです。しかしそのおかしいところに、神の愛が現れている。ここでは、いくら良い羊飼いだとしても、羊のために命を捨てる羊飼いなどいません。しかしそこに神の愛が見えてくる。イエスさまという羊飼いだけは、羊のために命を捨てるということです。つまり私たちのために命を捨てるということです。
 また17節では「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」とおっしゃっています。「捨てる」といいますと、何か自殺でもなさるのかと思いますが、そうではありません。これは十字架のことをおっしゃっているんです。十字架の予告がなされているんです。イエスさまが十字架にかかられる。それは表面的には、ファリサイ派の人々や祭司長たちによって捕らえられて、死刑にされるということになります。しかしそれはイエスさまの意図に反して、つまり残念ながら捕まって死刑にされた、ということではないのだと。イエスさまはご自分が捕らえられて十字架につけられることをご存じの上で、進んで行かれる。それは私たち羊を救うためである。それを「命を捨てる」と言っておられるのです。
 そしてその命を、父なる神がよみがえらせてくださる。復活させてくださる。その父なる神にすべてを託して進んで行かれるということです。
 
 三浦綾子さんの有名な小説に「塩狩峠」があります。この小説のクライマックスは、現在の北海道JR宗谷線の塩狩峠での出来事にあることは言うまでもありません。塩狩峠に向かって上っていく汽車の連結器がはずれて、客車が坂を逆送しはじめる。そのままでは脱線して大惨事になると思われた時、主人公の永野信夫が自らの体を線路上に投げて、暴走する列車を止めたという場面です。
 この小説は、事実を基にして書かれたものです。その実在のモデルが、鉄道員の「長野政雄」さんという人です。そしてその人はクリスチャンでした。三浦綾子さんの秘書をしていた宮嶋裕子さんが、『神さまに用いられた人・三浦綾子』という本を出されました。その中に、旭川六条教会の記念誌に、三浦綾子さんの小説の基となった藤原栄吉さんという人の書いた「僕の見た長野政雄兄」という証言が紹介されています。それによると、鉄道員だった長野政雄さんは、休暇を利用して管内の従業員にキリストを伝道して回っていたそうです。そして自分の乗った列車が、塩狩峠の登り急勾配を進行していた時に、長野さんが乗っていた最後尾の客車が、連結器がはずれて逆送し、脱線転覆は免れまいと乗客は総立ちとなって救いを求めて叫び、車内は大混乱となった。その時、長野さんはただちにデッキに出てハンドブレーキがあるのをを見ると、それを力一杯締め付けました。そして客車のスピードがゆるみ、徐行速度になった時に、線路上に落ち、そこに客車が乗り上げて止まったのです。
 長野さんの服からは、いつも身につけていたという遺言状と聖書と賛美歌、そして長野さんの帰宅を待っている妹さんやそのお子さんへのお土産の饅頭が出てきたそうです。この長野さんの殉職が伝えられると、旭川の町には大旋風が巻き起こったかのごとくに、どこに行っても長野さんの噂で持ちきりとなったそうです。そして、「あの人が耶蘇(やそ)教の先生であったことは知らなかった。それを見ると耶蘇を邪教と思いこんでいたのは、我々の間違いであった」と、語り合っていたそうです。そしてこの出来事がきっかけとなってリバイバル運動が起き、教会は人であふれたということです。長野さんは、ご自分の命を捨てました。しかしそれと引き換えに多くの乗客の命が救われました。それはとっさのことだったでしょう。
 
 イエスさまの十字架。イエスさまは、私たちを罪と滅びから救うために十字架に向かわれる。最初にご紹介した、居場所のない子どもたちのためにごはんを作り続け居場所を提供し続けた、ばっちゃんこと中本さんにテレビの取材スタッフが、「なぜこういうことを続けられるのか?」と何度も尋ねた。すると彼女は答えた。「子どもから面と向かって助けてくれと言われたことがない人には、分からんのじゃないの」。
 イエスさまに向かって、「なぜ十字架に向かわれるのですか?」と尋ねたら、イエスさまは同じように答えられるかもしれません。その裏には神の愛があります。私たちの心の奥底の、魂の叫び。救いを求める魂の叫びを聞いてくださるイエスさま。それが十字架へ向かわれるイエスさまです。それは、イエスさまでなければできない救いです。
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。このイエスさまの言葉を口にしながら、主と共に歩む一週間でありますように祈ります。 


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