2025年1月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編23編1〜3
    ヨハネによる福音書10章1〜6
●説教 「羊飼いの声」小宮山剛牧師
 
   輪島訪問
 
 先週11日(土)〜12日(日)と私を含めて3名で輪島と富来に行ってまいりました。昨年元日の能登半島地震から1年。プライベートな休日でしたが、被災地を訪ねたという思いからでした。輪島では、かつて私ども夫婦が輪島にいたときに親しくなった町の方にもお会いしました。たいへんな苦労をされているようでした。輪島教会の会堂は、ちょうど解体工事中でした。また、あの大火災のあった朝市通り周辺は、解体撤去されて更地となっていました。そのように、損壊した建物の解体撤去が進んで、更地が増えていました。見かける人の数がめっきり減って、町がさびれている様子がうかがえました。
 そのような中、日曜日、プレハブの仮会堂での礼拝に出席いたしました。小さな仮会堂は、私たちを含めて10名の出席者で満員でした。しかし賛美が高らかに歌われ、祈りがなされ、新藤牧師から力強い説教が語られました。その礼拝に身を置いてみて、希望と力が満ちてくるのを感じました。教会に希望がある!そのように確信できました。このまことに小さな輪島教会が、町の希望となる。そのように信じることができました。感謝でした。後ほどあらためてご報告いたします。
 
   たとえ
 
 さて、本日のヨハネによる福音書では、イエスさまがたとえを語っておられます。これは前回までの話の続きになっています。イエスさまが、生まれつき目の見えない人の目を見えるようになさいました。しかしその人を、ファリサイ派の人たちが排除しました。ヨハネ福音書では、ファリサイ派の人たちは、ユダヤ人当局の中心的な存在であると見なしています。そのファリサイ派が、目が見えるようになったその人をユダヤ人社会から追放したのです。彼がイエスさまを信じたからです。
 そこでイエスさまは、ファリサイ派の人々を前にして、本日の聖書箇所に書かれているたとえ話をお話しになりました。ヨハネによる福音書では、たとえ話というものがあまり出てきません。他の福音書では、多くのたとえ話が出てきます。たとえば、週報の表紙にも記してあります通り、今年度の逗子教会の主題聖句は、種蒔きのたとえの中の聖句です。しかしヨハネ福音書では、たとえ話がほとんど出てきません。たとえ話らしいたとえ話と言えば、今日のこの羊飼いのたとえ話と、もう一つは15章に出てくる「ぶどうの木」のたとえ話ぐらいです。
 今日のイエスさまのたとえ話は、羊と羊飼いのたとえ話です。羊と羊飼いという題材は、聖書ではよく出てきます。たとえば本日読みました旧約聖書の箇所、詩篇23編は多くの人に愛されている聖書箇所です。きょうはその1〜3節だけを読みました。もう一度読んでみます。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
  主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
  魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。」
ここでは主を羊飼いにたとえ、「わたし」を羊にたとえています。羊というのは弱い動物です。狼などの野獣から身を守るのが難しい。また、羊の目は近眼だそうです。だからどこにおいしい青草があるのか分からない。目の前の青草を食べ尽くしてしまったら、次はどこへ行けば食べ物があるのかよく分からない。水飲み場も分からない。それで群れて生きているわけですが、その群れを守り、導くのが羊飼いです。ですからこの詩でも、羊飼いが羊を青草の原に導き、水飲み場に導いて休ませてくれるように、わたしの主である神さまが、羊である私を休み場へと導いて下さる。魂を生き返らせて下さる。正しい道を歩むことができるように導いて下さる‥‥と歌っているのです。
 ですから、イエスさまが羊と羊飼いのたとえ話をなさったときも、聞いている人々はこのダビデの詩を思い出したことでしょう。
 
   神のものを自分のものにしたい人たち
 
 今日のイエスさまのたとえ話では、その羊たちが集められている「囲い」から始まっています。羊は昼は羊飼いに導かれ守られながら野原で過ごし、夜は石垣や塀で囲まれた囲いに戻ってきて過ごします。その囲いに集められていることから話が始まっています。
 1節でこう言われています。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」
 これはその通りですね。人間の家で言えば玄関からあいさつして入って来ないで、窓ガラスを割って入ってくるのが泥棒であるのと同じように、羊の囲いに入るのに門から入らないで塀を乗り越えてはいるならばそれは盗人であり強盗であるに違いありません。そもそも、この人たちはどうして門から入ろうとしないのでしょうか?‥‥門から入るには、門番の許可が必要となりますね。門番が「入っていいよ」と言えば入れるし、「だめだ」と言われれば入れません。つまり門から入らないのは、門番に聞きたくないからですね。面倒だし、門番の言うことに従いたくない。自分たちの思うとおりにしたいんです。言い換えれば、羊を自分たちのものにしたいんです。
 また、この人たちは羊を愛していません。ただ羊という物をほしいだけです。自分のものにしたいんです。だから羊はこの泥棒たちには着いていかない。5節で、羊は羊飼い以外の人たちには着いていかないで逃げ去る、と言われています。羊は分かるんですね。
 イエスさまはなぜこのようなたとえ話をなさったのか。イエスさまはファリサイ派の人たちに向かってこのお話をなさったのです。つまり、「あなたがたファリサイ派の人たちよ、この羊泥棒はあなたがたのことだ」ということです。しかし彼らは、この話が何のことだか分かりませんでした。彼らは見えなくなっていたんです。イエスさまは、生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようになさいました。一方でファリサイ派の人々について、前回の最後の9章41節で「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」とおっしゃいました。すなわち、ファリサイ派の人たちは見えるべきものが見えていないと言われたのです。見えるべきものが見えていない。だから、このたとえも、何を言われているのか分からなかった。高ぶっているからです。自分たちの方が偉いと思っているからです。イエスさまのたとえ話は、自分の身を低くしなければ分からないのです。
 
   名前を呼ぶ羊飼い
 
 3節で、羊はその羊飼いの声を聞き分けると言われています。そして「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われています。羊飼いは自分の羊の名を呼ぶ。つまり、羊飼いは自分の羊たちに名前をつけていると言うことです。例えば100匹の羊を飼っている人がいたとして、「羊が100匹いるなあ」ということではない。その100匹の羊に、1匹1匹名前をつけている。「羊」というように十把一絡げで見ているのではない。「太郎、次郎、三郎、四郎‥‥」というように、1匹1匹ちゃんと名前をつけて、区別してみている。
 この世の中は、十把一絡げにして見る見方が多いです。たとえば「日本人は」とか、「韓国人は」「アメリカ人は」‥‥というようにして十把一絡げにしてくくって決めつける。たとえば、よく「日本人はキリスト教を受け入れない」というような言い方を耳にすることがあります。よく考えてみればそんなことはないのですが。例えば戦国時代は、わずか数十年のうちに、数十万人が洗礼を受けてキリシタンになりました。また「日本人はキリスト教を受け入れない」のなら、キリストを信じたこの私は日本人ではないのか?と思ってしまいます。
 私は信じたんです。それはイエスさまがこの私のような愚かな者でも、呼んで下さったということです。イエスさまは「日本人」などと十把一絡げにしてご覧になっているのではありません。「あなた」と名前をおぼえ、呼んでくださる。一人一人を見ておられるのです。そして名前を呼ばれる。
 教会では洗礼式の時に、受洗志願者の名前を呼んで洗礼を授けます。それはイエスさまがその人の名を呼んでおられることを現しています。その人を招かれている。
 しかし世の中は、やはり一人一人を見ているのではないことが多いですね。私が大学を卒業して、会社に就職した時、新入社員研修が最初にありました。その中で、人事課長が言いました。‥‥君たち新入社員を得るために会社は多額の予算をかけている。そのお金は2〜3年働いて一人前にならないと元が取れないほどの額だ。だから2〜3年でやめてしまったら困る。‥‥と、そういうようなことを言いました。しかし私はその年の家に体を壊して会社を辞めることになったわけで、そういう意味では会社に多大な損害を与えたことになるわけですが。この場合の新入社員は、お金をかければいくらでも他に代わりが見つかる存在であって、小宮山君という存在でなければダメだ、代わりがいない、というものでは絶対にないわけです。当たり前の話ですが。
 これは戦争に行かされる兵士もそうですね。ロシアとウクライナの戦争、かわいそうなのは直接関係のないのにこの戦争に動員されている北朝鮮の兵士です。彼らにも名前がある。しかしその名前は単なる識別記号のようなものです。死んでもいくらでも代わりがいる。物でしかない。使い捨てです。
 しかし、例えば親が子供に名前をつける時はどうでしょう。そのこの幸せを願って名前をつけます。その子はかけがえのない子だからです。
 今日のたとえ話では、羊飼いとはイエスさまのことをたとえています。その羊飼いであるイエスさまが、羊1匹1匹を名前を呼んで連れ出す。それはその羊1匹1匹がかけがえのない、大切なものであるということです。すなわち、私たち一人一人を掛け替えのない大切なものとして御覧になられるということです。これはすごいことだと思います。
 
   羊は羊飼いを知っている
 
 3節「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われています。そう言われますと、「はて?わたしは名前を呼ばれたのかな?」と思います。直接イエスさまから名前を呼ばれ、その声を聞いて教会に来たという人は少ないと思います。
 しかし例えば、詩編の19編2〜5節に次のように書かれています。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」
 「声は聞こえなくても」と書かれています。声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かうと。
 確かに直接私たち一人一人の名を呼ぶ声は聞こえないけれども、霊の世界ではどうでしょうか? 聖霊が、私たちの霊、それは魂といっても良いのですが、私たちの霊に対して呼びかけておられるのではないでしょうか。そして実は私たちは、その霊の声を聞き分けたのではないでしょうか。
 私は自分がなぜキリスト者となったのか、ふしぎなんです。確かに奇跡を見たというのもあるでしょう。キリストが生きておられるのを知ったと言うこともあるでしょう。しかし、なにかそれだけでは言い表せないものがあるように思うんです。それは、私たちの魂、霊に語りかける聖霊の働きがあったのではないかと思うんです。
 キリスト教幼稚園などで歌う『幼児さんびか』104番に、「ひとりひとりのなをよんで」という曲があります。その1節はこうなっています。
  ひとりひとりの名を呼んで 愛してくださるイェスさま
  どんなに小さなわたしでも おぼえてくださるイェスさま 
このさんびかは、きょうの聖書箇所を念頭に置いていますね。私たちの魂の深いところで真の羊飼いであるイエスさまが、私たちの名を呼んでくださった。そういうことでしょう。イエスさまは、私たち一人一人をおぼえ、名前を呼んでくださる。かけがえのないものとして見てくださる。この私を。あなたを。驚くべき事ではないでしょうか。
 教会は、神の羊の群れです。羊飼いであるイエスさまが導き、養ってくださる一人一人の集まりです。「牧師」という言葉は、もちろん牧者、つまり羊飼いという言葉から来ています。真の羊飼いであるイエスさまから、羊の群れを託されている。それはヨハネ福音書の最後のほう、復活されたイエスさまが、弟子のシモン・ペトロにおっしゃった言葉から来ています。
(ヨハネ 21:15)"食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。"
 「わたしの小羊」、つまりイエスさまの羊をあずかる。そして、その信仰を養う役目を与えられている。身が引き締まる思いがいたします。間違ったことは言えないという厳粛な思いになります。主の言葉を忠実に取り次がないとなりません。
 しかし私たちはイエスさまから見れば、みな羊の群れです。それが教会の民です。真の羊飼いであるイエスさまの声を聞き、みことばに聞き従う。私たちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴ってくださるイエスさまです。


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