2025年1月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言26章12
ヨハネによる福音書9章35〜41
●説教 「目の前の人」小宮山剛牧師
箴言26:12
本日は新年最初の主日礼拝となります。主の年2025年というこの年。世界も日本も、課題や困難な問題が山積していますが、困難の中でこそ主の奇跡は現れます。そのことを信じ、期待して、イエスさまと共に歩んでまいりたいと思います。
さて、本日は先に旧約聖書の方から見たいと思います。箴言26章12節です。「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」
これは説明をしなくても分かる言葉ですね。箴言というのはそういうところがおもしろいです。この言葉は、自らを賢者と思い込んでいる人こそ、もっとも愚か者であると言うこともできるでしょう。もう救いようがないんですね。自分を賢者と思っているというのは、自分を他人よりも上に置いている、つまり高慢であるということです。そういう人には成長がないんです。
もっとも、この言葉は、かつての私を思い出させます。かつての自分の未熟さを思い出します。ですから、自分自身に悔い改めを促す言葉となります。
探し出されるイエス
そして、これはただ今続けて読んでおりますヨハネによる福音書の今日の箇所とつながっています。
生まれつき目が見えなかった一人の人。彼はイエスさまによって目が見えるようになりました。その奇跡の出来事について読んでまいりました。しかしその奇跡に注目するだけならば、きょうの聖書箇所は余談ということになるでしょう。けれども、どうやら余談ではなさそうです。むしろ、きょうの聖書箇所こそが結論であるという書き方をヨハネはしているように思います。
一人の盲人がイエスさまの奇跡によって目が見えるようになった。それを知ったファリサイ派の人々、つまりユダヤ人の宗教指導者たちは、盲人であった人を尋問しました。なんとかして、イエスが見えるようにしたのではないことにしたかったんです。しかし、元盲人だった彼は、イエスさまによって目が見えるようになったという事実を断じて曲げようとしませんでした。事実だからです。それでファリサイ派たちは、彼を「外に追い出した」。これは単に建物の外に追い出したという意味ではなく、会堂から追放した。すなわち、ユダヤ人社会から締め出したということです。昔の言葉で言えば村八分にしたんです。すでに22節に書かれていたように、イエスをメシア(救世主)であると公に言い表す者がいれば会堂から追放することに、彼らは決めていたのです。
そのように彼がユダヤ人社会から追放されたことを聞いたイエスさまは、彼に会いました。35節に「そして彼に出会うと」と書かれています。何かたまたま彼と出会ったように読めますが、ここで「出会う」と日本語に訳されている言葉は「探し出す」という意味の言葉なんです。つまり、彼がユダヤ人社会から追放されたことを伝え聞いたイエスさまは、彼を探し出したんです!たまたま再び会ったのではありません。イエスさまのほうから探して見つけたんです。イエスさまは、彼に会いたかったんです。社会から追放された彼を受け入れるために。励ますために。そのように、一つの単語に込められた意味に気がつくと、イエスさまの愛が伝わってきます。
イエスを礼拝する
探して見つけた彼に対してイエスさまはおっしゃいました。「あなたは人の子を信じるか?」 ‥‥ここで「人の子」というのは、イエスさまがご自分を指している言葉ですが、この言葉には単に人の子という意味の他に、当時のユダヤ人にとってはもう一つ意味がありました。それは予言としての意味です。それはメシア(キリスト)のことです。ここでのイエスさまと彼とのやりとりを見ますと、どうも彼も「人の子」という言葉に込められた意味を知っていたようです。
イエスさまはおっしゃいました。「あなたは人の子を信じたいか?」。彼は答えました。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」‥‥ここで「その方を信じたいのですが」という言葉ですが、原文に近いように訳しますと「その方を信じることができますように」となります。「信じることができるように」と、祈りの言葉のようです。主の助けを求めているんです。主の助けによって、自分をその方にゆだねたいという気持ちが表れています。
ちなみに、彼は目の前のイエスさまをこの時はじめて見ました。なぜなら、彼が目が見えるようにされた時点では、イエスさまの姿を見ていないからです。イエスさまは、最初彼の目に泥を塗って「シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。そして彼がその言葉に従ってシロアムの池に行って目を洗うと見えるようになった。だからその時点では、イエスさまの声は聞いたけれどもまだ見ていませんでした。
しかし見えるようになって、今、自分の目の前におられる人がイエスさまであることは、声によって分かったでしょう。自分の目を見えるようにしてくださったイエスさまが「あなたは人の子を信じたいか」とおっしゃる。それで彼が「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じることができますように」、つまり「その方が人の子、メシアであると信じることができますように」と答えた。するとイエスさまが言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
彼はこの時どう思ったでしょうか。「やはりこの方、イエスが救い主だ」と思ったことでしょう。ですから彼は、すぐにそれを受け入れ、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。この「ひざまずく」という言葉は「礼拝する」とも訳せます。彼はイエスさまを信じて礼拝したんです。
「ひざまずく」とは「礼拝する」こと。私は日本キリスト教団の中の、旧メソジストの流れを汲む教会で導かれましたので、聖餐式は聖壇の前の「恵みの座」と呼ばれるところに進み出て、ひざまずいて受けるものだと思っていました。しかし神学校に入るために東京に出て他の教会に行ったときに、会衆席に座ったままで受ける聖餐式があることを初めて知りました。この逗子教会も、今から30数年前に新しい会堂になってからは恵みの座がなくなりましたが、それ以前はやはり前に進み出て聖餐を受けていたということですから、やはり初代の宮崎先生はメソジストの人だと思いました。現在当教会では、夕礼拝は人数が少ないので、前に進み出てひざまずいて聖餐を受けていただいています。また朝の礼拝でも、聖餐の司式者である私はひざまずいてパンと杯をいただいてきました。そうしますと、何年か前から配餐者である役員の方もひざまずくようになりました。
ひざまずくというのは、きょうの聖書の言葉がそうですけれども、礼拝する、伏し拝むという意味があります。聖餐式において、そこにたしかにキリストが現臨しておられることを示しています。皆さまも、会衆席に座ったままですが、心の中ではキリストの前にひざまずくつもりで受けていただければと思います。
元盲人の導き
ここまで9章に書かれた、目の見えなかった人をめぐるできごとを読んできました。そうすると、彼がイエスさまのことを何と呼んでいるか、また接し方が変化していることが分かります。
まず11節で、ファリサイ派の人たちが彼に対して「お前の目はどうやって開いたのか?」と聞いたとき、彼は「イエスという方が」と答えました。この「方」は原文は「人」となっています。直訳すると「イエスという名前の人が」と言っているんです。
次に17節で、再びファリサイ派の人たちが彼を尋問して「お前はあの人をどう思うのか?」と聞いたときは、「あの方は預言者です」と答えました。預言者は旧約聖書では「神の人」と呼ばれます。
そしてきょうの38節では、信じてひざまずきました。イエスさまを神から遣わされた救い主であると信じて礼拝するに至りました。
順に追っていきますと、イエスという人によって目が見えるようになった。そのようなことができるのは、昔のエリヤやエリシャのような特別な預言者であろう。だから預言者だ。そして、社会から追放された私を探してきて下さった。なんという方だろう。まさにこの方は神の子であると信じることができる。そうてひざまずいて礼拝した。そういう経過をたどっています。この私の所に来てくださった。その神がイエスさまである。そういう感動が見て取れます。
元日に、能登半島地震から一年を迎えました。あらためて能登の復興と、輪島教会の再建をお祈りいたします。そのことを考えていまして、私が輪島教会の牧師をしていた時の一人のご婦人を思い出しました。はじめ輪島教会は礼拝出席者が10人ほどの小さな教会でした。彼女は以前から長く役員を務めていました。教会がきびしい試練を迎えた時もありました。しかし彼女は黙々と奉仕をしてきました。決して得意とは言えない書記役員を務め、また私たち夫婦と共に、もう一人の教会学校の先生として奉仕していました。
ある時、彼女からイエスさまと会ったというお話を聞きました。昔、パートをしながらも生活がきびしくて、ご近所に、お醤油を借りに行ったり、お味噌を借りに行ったりしたことがあったと言いました。ある日、そんな生活に疲れてしまって、家の中の敷居の上に座っていたそうです。すると、誰かが後ろから自分の肩の上に手を置いた。温かい手だったそうです。そして彼女は言いました。「振り向いたら、イエスさまやった」と。そして彼女は、満面の笑みを浮かべられました。
私はそのお話を聞いていて、思わず息をのみました。そのイエスさまはどんな姿をしていたのかとか、そのあとどうなったのか‥‥とかいろいろ聞いておけばよかったと思うのですが、その時の彼女の笑顔があまりにも輝いていて、それ以上何か聞いてはならないような厳粛な思いになりました。彼女が、良い時も悪い時も、人が去っても、教会を休まず黙々と奉仕をして来たのは、そういう経験があったことも大きいのだと思いました。
もちろん、そのような形でイエスさまを見るというのはたいへん珍しいことです。しかしイエスさまは、その人その人に最もふさわしい仕方で接してくださいます。肉眼の目で見えなくても、イエスさまは私たちに接し、導いて下さいます。この目が見えなかったが追放された時、イエスさまはこの人を捜して見つけに来てくださった。自分の目を開けてくださったイエスさまが、この私のことを心から心配してくださっている。そのとき、彼はイエスさまがどなたであるかが見えた。そして、ひざまずいて拝んだのです。
見えるとは
39節でイエスさまがおっしゃっています。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
これが肉眼の目のことを言っているのではないことは、やりとりを見るとお分かりだろうと思います。すなわち、見えるべきものが見えるか、見えないかということです。分かるか、分からないかということです。
人々の指導者であるファリサイ派は、自分たちは「見える」と自認している。最初に読んだ箴言の言葉で言えば、「自分を賢者と思い込んでいる」のです。それは高ぶり、高慢から来ています。その結果、神の子イエスがまったく分からない。つまり見えない。その箴言の言葉と同じようなことを使徒パウロも言っています。(1コリント8:2)「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
私は牧師ですが、だからと言って神さまのことを統べて知っているわけではありません。なぜなら神さまは永遠、無限の方だからです。神さまのことを全部知るには、永遠の時間が必要です。しかしイエスさまは、永遠の命を与えられる方です。ですから、永遠に神を知っていくことができます。神の無限の愛。愛というものは、知れば知るほど感動も深まっていきます。喜びが増し加わっていきます。
ですから私たちは、「あなたが見えません、あなたを見えるようにして下さい」と単純に神さまにお願いすることができるんです。見えない者は見えるようになる。「主よ、わたしにもっとあなたの愛を教えてください」と祈りつつ、歩んでまいりましょう。
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