2024年12月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教/歳晩礼拝
●聖書 詩編146編8〜9
ヨハネによる福音書9章24〜34
●説教 「見える人見えない人」小宮山剛牧師
教会最大の行事であるクリスマスが終わりますと、すぐに年の暮れとなるのは毎年のことですが、今年は衝撃的な出来事で始まりました。元旦礼拝を終え、くつろいでいた午後、能登半島に大地震が起きました。そのあまりの被害の大きさに、言葉を失い、胸が引き裂かれるような思いがいたしました。輪島は、私が伝道者として遣わされた最初の任地でした。主が愛しておられると言われた土地でした。その奥能登の地が2007年に続き、ふたたび震災にという衝撃でした。そして本当にゆっくりと復興の歩みが始まったと思った9月、今度は記録的な豪雨による災害に見舞われました。「追い討ちをかける」という言葉がありますが、まさにそれを地で行くようなショッキングな出来事でした。
しかし私は、皆さんが心から輪島と能登のために祈り、協力を惜しまないできて下さったことによって励まされました。これは本当に感謝でした。試練があるところには恵みも現れる。主の奇跡も現れる。このことを信じていきたいと思っています。
信じられない人たち
さて、本日からまたヨハネによる福音書の連続講解説教に戻ります。生まれつき目の見えなかった人が、イエスさまによって見えるようになった。そのすばらしい出来事。しかしそれをすばらしいと思わない人たちがいました。それがユダヤ人の宗教指導者であるファリサイ派の人たちでした。彼らはイエスさまを憎んでいました。イエスさまを死刑台に送ろうとしていました。そのイエスさまが、生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにしたということは、由々しき事態でした。イエスさまの人気が高まり、やはりイエスはメシア、救い主であるとの信仰が広がっていくことになるからでした。
それで彼らは、目が見えるようになった元盲人を尋問しました。彼らにとっては、イエスさまがそのような奇跡を行ったということは、信じられない出来事でした。彼らにとっては、イエスさまはメシアなどではなく、神を冒とくする罪人でした。しかし元盲人は、イエスさまによって目が開けられたというのでした。それで今度は彼らは元盲人の両親を尋問しました。しかし両親は、ファリサイ派によってユダヤ人社会から締め出されることを恐れて、本人に聞いてくれと答えました。それで彼らは、ふたたび元盲人を尋問しました。それが今日の聖書箇所です。
彼らファリサイ派は、元盲人に「神の前で正直に答えなさい」と言いました。彼が嘘をついていると思ったのでしょうか。盲人の目が見えるようにするなどということが信じられないのです。あまりにもふしぎで、すばらしすぎて信じられないのでしょう。
反対に、悪いことはふしぎにも信じるのが人間です。この出来事の最初、9章2節で、イエスさまの弟子たちは彼を見て、この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか、それとも両親が罪を犯したから、その天罰として見えないのですか、と尋ねていますが、そういうことは自然に信じるのです。たとえばどこかの怪しげなカルト団体から「あなたの家に不幸が続くのは、先祖の供養の仕方が悪いからだ」などと言われると、ドキッとして信じやすいのが人間です。悪いことは容易に信じるけれども、良いほうのことはなかなか信じないのです。私たちが、「私はイエスさまによって救われました」と言っても、「ああ、そうですか」で終わってしまいます。
またもやこの元盲人を尋問するファリサイ派の宗教者たち。彼らはイエスさまが彼の目を開けたことを信じられないというよりも、信じたくない様子です。なぜ信じたくないのでしょうか?
ただ一つ知っていること
彼らファリサイ派は、イエスは罪人であると言います。それに対して元盲人である彼は言いました。(25節)「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
「今は見える」!‥‥この喜び、このすばらしさ!彼にとって、これは誰にも動かしようがない事実です。これは強いですね。最強です。彼は事実を述べているからです。
対するファリサイ派は、人々に神の掟を教える専門家です。努力し、しかるべき先生のもとで聖書と神の掟について研鑽し、励んできたことでしょう。だからそのような人たちと論争しても勝ち目はありません。しかし一つの事実がある。イエスさまによって見えるようになったという事実です。この事実こそが、どんな理屈よりも強力に、イエス様という方がどのような方であるかということを証ししています。
私は今までに、3回命を助けられました。いずれも病気で死ぬところでした。それについては今まで何度も申し上げてきたとおりです。しかし、実は神さまによって命を助けられてきたことは、もっとあっただろうと思うんです。たとえば、きょう本当は車にひかれるところを助けられたとか、きのう何か不慮の事故に遭うところを実は助けられていたとかです。私たちはそれに気がつかないだけでです。
私が今まで3回命を助けられてきたと言っても、中にはそれが神さまによって助けられたのではなく、偶然に助かったんだと思う人もいるに違いありません。例えば私が一歳の時、医師から「もはやできることはありません」と言われてさじを投げられた。しかしそれが祈りによって回復したという奇跡も、人から見たら、それは奇跡ではなく、運が良かった、あるいは医者の誤診だったのではないかと思う人もいるでしょう。もちろん私は主の奇跡であると信じているわけですが。運が良かったんだ、偶然だったんだと思う人もいる。なるほど、では百歩ゆずって、それが仮に本当だといたしましょう。だとしたら、私が主を信じる理由と根拠が失われたことになるのでしょうか?‥‥答えは「ノー」であります。
あるいは他にも数々の奇跡を体験してきましたし、自分について起こった出来事だけではなく、これまでさまざまなクリスチャンの奇跡の体験を見聞きしてきたわけですが、それらもすべて思い違いか、錯覚か、はたまた偶然だったといたしましょう。だとしたら、やはりイエスさまを信じる根拠が失われたことになるのでしょうか?‥‥これも答えは「ノー」です。
私がイエスさまを信じる理由は、それらの奇跡が仮に勘違いだったとしても(もちろんそんなことはありえませんが、仮に百歩ゆずって勘違いだったとしても)、他にあるからです。それは、イエスさまによって、私自身が罪人であることを知ったというところに大きな理由があるのです。イエスさまのおかげです。私自身が罪人であることを知ったことが感謝であり、イエスさまを信じる大きな理由であるというのは、クリスチャンではない人が聞いたら変だと思えるでしょう。しかし事実そうなのです。
私は以前はたいへん傲慢な人間でした。それによって多くの人を傷つけてきました。しかしキリストに出会って、自分が罪人であることが分かりました。自分が何者であるかを知ることができたんです。このヨハネ福音書で言えば、「見えるようになった」ということです。自分が罪人であり、キリストなしにはどうしようもない人間であることを知った。見えるようになった。これはかけがえのない恵みです。奇跡です。自分が罪人であることが見えるようになったのことが、かけがえのない恵みだというのは、おかしいと思う人もいるでしょうけれども、それはこんな罪人をこそ愛してくださるイエスさまを知ったからです。これが掛け替えのないことでした。
イエスは神のもとから来たのか否か
さて、聖書に戻りまして、彼らファリサイ派は疑い、元盲人に対して、「あの者」つまりイエスさまが、どうやって目を開けたのかと問いました。前にも聞いたのですが、また聞いた。元盲人がウソを言っているのか、あるいは勘違いをしているのか疑っているのでしょう。それで元盲人である彼は呆れはてました。そして言いました。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか?」‥‥これは強烈な皮肉ですね。もう彼は、このファリサイ派たち、すなわち先生たちを信用していません。
ファリサイ派の人たちは言いました。「我々はモーセの弟子だ」と。しかし「あの者(イエス)がどこから来たのか知らない」と。イエスは、どこの馬の骨なのか分からんやつだと言っているんです。つまり上から目線です。自分たちを一段高い所に置いている。最近の言葉で言うと、マウントを取っているんです。
そうすると元盲人は答えます。(30節)「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。」‥‥さらなる強烈な皮肉ですね。人々に神の掟を教え、誰よりも熱心に神を信じている宗教家であるあなたがたがご存じないとは!冗談でしょ!というわけです。
彼はそのファリサイ派に対して「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(33節)と言いました。イエスは神のもとから来たとはっきり言っている。自分に起こった動かしがたい奇跡に基づいて。
それに対してファリサイ派の人たちは、自分たちの権威を振りかざし、見下します。(34節)"「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。"
これは最もひどい言葉ですね。「お前は全く罪の中に生まれたのに」という言葉は、この一連の出来事の最初、イエスさまの弟子たちが生まれつき目の見えなかった人を見て言った言葉と同じです。この人が生まれつき目が見えないのは、本人が胎児であった時に犯した罪の天罰か、それとも両親が犯した罪に対する天罰か、ということと同じです。人間の出自によってその人を判断するということは、最も言ってはならないことです。たとえば「日本人のくせに」などと言われたとしたらどうでしょうか?
彼らファリサイ派は元盲人に向かって言ったんです。「生まれつき罪人の分際で、我々教師に教えようというのか。身の程知らずめ!」‥‥そして「外に追い出した」。これは、ユダヤ人の会堂から追放したということです。イエスさまを通して神さまが奇跡をなさったのに、その人が追い出された。これは神さまを追い出したと言うことに他なりません。神を最も熱心に信じているはずの人が、神さまを追い出したのです。しかもそのことが分かっていない。
高慢と謙遜
なぜ彼らはイエスを認めることができなかったのでしょうか?‥‥それは彼らが高慢だったからです。高慢、すなわち高ぶりです。自分たちのほうが偉い。自分たちはモーセの律法、神の掟をよく知っている。守っている。一段高い所にいるんです。だから見えない。見るべきものが見えない。イエスさまが見えない。
私は若い時、アメリカ人の宣教師、ボストロム先生の元で「謙遜」についての学びの時を与えられました。平日の夜、男性ばかり5〜6名を集めてその学習会が行われました。ある日先生は、旧約聖書の「箴言」の中に、「高慢」とか「高ぶり」に関する単語がいくつでてくるか数えて来なさいと言う宿題を出しました。それで私は一週間かけて「箴言」を読み、数えてみました。39個ありました。そして一週間後のその学習会の時にそのことを言いました。すると先生はおっしゃいました。「聖書で、最もひどい罪は高慢です」と。
私はそのことが忘れられません。そしてとても尊いことを教わったと思いました。それからは、その視点で聖書を読むと、なるほどその通りであることが分かりました。高ぶり、すなわち高慢こそ、イエスさまを見えなくします。なぜなら、イエスさまは私たちに仕えるために、低くへりくだって来られたからです。フィリピの信徒への手紙2:8にこのように書かれています。「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
私たちも身を低くしないと、イエスさまが見えてこないのです。低く下って、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に生まれてくださったイエスさまが分からない。十字架で命を捨てられたイエスさまが、なんのためであったか見えてこない。
31節で元盲人は言っています。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」
これはそのとおりです。ですから、本来なら私たちは罪人ですから、神さまに祈りを聞いていただけないはずです。しかし、その罪をイエスさまが代わりに担ってくださった。十字架であがなってくださった。それゆえ私たちは罪赦されて、イエスさまのお名前によって、神さまに祈りを聞いていただけるようになったのです。ですからそのことに感謝して、父なる神さまにお祈りいたしましょう。祈りを通して、神さま、イエスさまと親しく交わることができます。
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