2024年12月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ゼカリヤ書7章9〜13
ヨハネによる福音書9章13〜23
●説教 「渦中の人」
アドベント
アドベントの第3主日を迎えました。アドベント・クランツの3本目のろうそくに灯がともりました。ところで、このアドベント・キャンドルは、クリスマスが近づくのを楽しみにするためのアイテムなのでしょうか? たとえばお正月を待つ気持ちを歌った子供の歌がありますね。「♪お正月にはたこ揚げて、コマを回して遊びましょう、早く来い来いお正月‥‥♪」という歌。あの歌がお正月を待つ気分を歌っているように、クリスマスを待つことも同じでしょうか?
たしかに世間ではそのようであるかもしれません。しかし本当は違っています。アドベントの期間中の講壇カバーの色が教えてくれています。この紫の典礼色は、悔い改めを表す色です。悔い改め。すなわち、みことばによって自分自身をかえりみ、あらためて救い主である主の方に心を向ける。そうしてキリストの降誕を迎える。そのためのアイテムです。本当の喜びはそのように私たちの心を準備することによって訪れます。
目が見えるようになった喜び
ところできょうの聖書には、悔い改めることもせず、したがって喜びもない人々が登場いたします。同じイエスさまのわざが目の前で起こっているのに、喜びもない。いったいどうしてそんなことになってしまったのでしょうか。
前回の聖書箇所で、生まれつき目の見えなかった人が、イエスさまによって目が見えるようになったという奇跡(しるし)が起きました。あらためてこの人のことを考えてみたいと思います。目が見えないというのはたいへんなことに違いありません。不自由です。目が見える者にとっては、当たり前のようにものを見て、当たり前のように外を出歩けるわけですが、目が見えなければそうはいきません。たいへんだなあと思います。
私の先輩で盲人の牧師がいます。以前、この先生と教団の委員会でいっしょになりました。すると彼は、遠い所の教会にいるのですが、飛行機と電車を乗り継いで一人で来られるんです。それで私は、「ここまで来るのにたいへんだったでしょう」と言いました。すると先生は、そうでもないと言われたんです。空港でも駅でも、どうしたらいいか分からないで立っていると、必ず声をかけてくれる人がいると言うんです。そして助けてくれるのだそうです。私はそれを聞いて、そういう人がいるということは、この世もなかなか捨てたもんではないな、と思いました。しかし、やはりなにかと不自由であることには違いないと思います。
またこれは目が見えないのではありませんが、以前私がいた教会にいた耳の聞こえない方がいました。彼女が、あるとき「聞こえるようになりたい」と言ったんです。その理由は「音楽を聴きたい」からだというんです。笑顔で言いました。そう言えば、彼女は礼拝でいつも讃美歌を大きな声で歌っていました。もちろん、音程ははずれています。しかし讃美歌は神さまに向かってうたう歌でありますから、どんなに音がはずれていようが、心から賛美しているのであれば、神さまがお喜びになるに違いありません。しかし彼女は、不便だからと言うよりも、音楽を聴きたいから耳が聞こえるようになりたいという。私はちょっと胸が熱くなりました。音楽とはどういうものか、この讃美歌はどのようなメロディーなのか、彼女には分からない。彼女の思いを聞いて胸が熱くなりました。
聖書に戻りまして、生まれつき目が見えなかったこの人は、生まれてこのかた何も見ることができなかったわけです。両親の顔も、人の姿も、花も、鳥も、山も川も空も、すべて見たことがなかった。それが見えるようになった。見えるというのはこういうことか!と思ったことでしょう。その感動、興奮はどれほどだったことでしょうか。本当に良かったね!と心から言いたい気持ちになります。
しかし、見えるようになって良かったねで終わり、ということではないこともまた事実です。それだけでは、目が見える人たちと同じになっただけです。目が見えるようになったことで、何もかも新鮮な感動に包まれる。しかしやがてその感動はなくなって、当たり前のことになるでしょう。生きていかなければならないからです。それからどうやって生きていくか、その問題にたちまち直面いたします。
しかし、きょう読んだ聖書よりも先のほうに書かれていることですが、この人はイエスさまを信じたいと言いました。そしてイエスさまの前にひざまずいたと書かれています(38節)。その「ひざまずいた」と日本語に訳されている言葉は、「礼拝した」と訳すことができる言葉です。彼は再びイエスさまに会って、イエスさまを信じて礼拝したんです。ここに至って、彼は真実の意味で闇から光へ移されたと言うことができます。
よくイエスさまについて、「イエスは苦しんでいる人を助け、貧しい人に寄り添った人だ」という説明がなされることがあります。私は、この説明は間違っているとは言いませんが、中途半端な説明だと思います。つまり、助けたあとどうなのか、また寄り添ってどうなるのか?というところが本当に大切なところだからです。そしてそのところこそが、イエスさまが本当に救い主キリストであることを示しているからです。イエスさまは私の救い主であり、神であり、主人であり、兄であり、友でもあり、聖霊によって共に歩んでくださる方です。イエスさまの弟子となった彼は、そのことを知っていくことでしょう。そこに救いが現れます。
ファリサイ派の尋問
さて、ここに、真の神に出会うことを妨害するように働く人々が登場します。律法主義者であるファリサイ派の人たちです。しかしその彼らは、自分たちこそ最も神さまに忠実だと思っていたのですから、困ったものです。
今日の聖書箇所にイエスさまは出てきません。イエスさまのなさった奇跡をめぐるやりとりについて書かれています。しかもそれはたいへん緊迫したやりとりです。ただいまの盲人が見えるようになたという喜びが、消されてしまいそうなやりとりです。
ある人たちが、盲人であったこの人をファリサイ派の人たちのところに連れて行きました。なぜ連れて行ったのかは書かれていません。するとファリサイ派の人たちは、彼を尋問し始めたのです。「どうして見えるようになったのか?」と。これは好意を持って尋ねているのではありません。逆です。不審に思っての質問です。そうしますと、彼はただ事実を述べます。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」これは全く事実その通りです。
事実ですから、どうしようもありません。するとファリサイ派の人たちは、またもや安息日の掟を持ち出しました。イエスは安息日の掟を破っている。だから神から来た人ではないという。なぜなら、安息日の掟は神が定めた掟だからだ、という論法です。
安息日
もう何度も「安息日」の掟については触れてきましたが、あらためて説明しますと、もともとこれは律法の最大の教えである「十戒」の中に書かれていることです。十戒の中の第4戒で、「安息日を心を留め、これを聖別せよ」(出エジ20:8)と書かれています。もともと安息日は一週間のうちの土曜日でした。その日には仕事を休んで神さまを礼拝しました。
安息日には仕事をしてはならないということが十戒に書かれています。しかしこれは安息日が定められた箇所なども含めてよく読むと、収入を得るための仕事をしてはならないという教えになります。それは、荒れ野のマナの話を読むと分かるのですが、安息日には働かなくても、神さまがその日の分までちゃんと与えてくださるから大丈夫だということを教えています。神さまが休んだ分まで与えてくださるから、安心して休みなさいということです。自分が休むだけではなく、奴隷も家畜も休ませなさいと。人道的な配慮もされている。そうして皆で仕事を休んで神さまの恵みを味わい、礼拝(聖会)したのです。礼拝に神がおられ、安息があるからです。そのように、安息日は神の恵みを分かちあう日であったのです。
イエスさまは安息日に、彼の目を見えるようになさった。それもまた奇跡であり、主なる神の恵みであるに違いありません。なのになぜファリサイ派の人々は、それをとがめたのでしょうか?
これは実は、かつてイスラエルの民の国が滅びたバビロン捕囚の反省から来ているんです。イスラエルの民が、主なる神さまにそむき続けた。その結果神の怒りをかい、国が滅び、バビロンに捕囚とされた。イザヤやエレミヤなどの預言者が繰り返し悔い改めるように、神の言葉を語り、警告してきたのに悔い改めなかった。きょうゼカリヤ書を読んでいただきましたが、ゼカリヤの預言もそのことを物語っています。
そして神の憐れみによってバビロン捕囚が終わり、ふたたび国に帰ってくることができた。そこでイスラエルの民は悔い改めたんですね。これからは主なる神に従っていこう、と。それ自体は良いことでした。しかしそこから厳密に神のおきてを守ろうとした。例えば「安息日に仕事をしてはならない」という掟から、ではなにが仕事に該当するかということを考えた。安息日には何キログラムのものまで持って良いとか悪いとか、何メートル歩いたら仕事になるとか、そういう細かいことを決めていった。その中に、医者がふだんの治療をすることも仕事であると決めた。それで、イエスさまのなさったことをとがめたのです。目の見えない人を治すというのは仕事だ。安息日の掟を破った‥‥というわけです。
皆さんお分かりのように、これは神さまの本来の意図から離れています。本来の意味を失っています。本来は、安息日には休んで良い、休んだ分は神が保証してくれる、だから安心して神を礼拝しなさいという日。奴隷を休ませても大丈夫。そのはずが、神の子イエスさまを排斥するに至ってしまった。これは間違っているのです。イエスさまは自らの収入のために盲人の目を開けたのではありません。神の業をなさったのにです。
はじめに結論ありき
22節に「イエスがメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と書かれています。会堂から追放されるということは、当時のユダヤ人にとっては、ユダヤ人社会から排除されるということでした。村八分にされるんです。ですからこの人の両親がファリサイ派の人たちから尋問された時、恐れて、本人に聞いてくれと答えました。
「イエスがメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」ということは、最初から結論は決まっていたということです。イエスはメシアではない、神からきた者ではない、むしろ神を冒とくする存在だと。そのように結論がはじめから決まっていた。そこから始まっている。イエス憎しから始まっている。こういうのを偏見というのです。だからそういう人たちには、なにを言ってもムダだったのです。一つの考えでこり固まってしまっている。だから、ファリサイ派の人たちこそ、見えるべきことが見えなくなってしまっています。
それに対して、彼がファリサイ派の人たちに言った言葉をもう一度見てみましょう。15節「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」これ以上強力な証しはありません。事実だからです。私も言いたいです。「イエスという方が、どうしようもない罪人であった私を救ってくださいました」と。これは紛れもない事実です。
あらためて安息日
彼の目を見えるようになさったイエスさまの奇跡は安息日のことでした。考えてみますと、安息日の奇跡は多く福音書に書かれているように思います。ヨハネによる福音書では、5章で、ベトザタの池のほとりでの38年間病気で寝たきりだった人の癒やしがありましたが、それも安息日のことでした。ヨハネ福音書に書かれている2つの癒やしの奇跡の出来事がいずれも安息日になされています。
そうすると、これはたまたま安息日だったというよりも、むしろ安息日の恵みを強調しているように読めます。先ほど述べましたとおり、安息日は休むことのできる日であると共に、礼拝の日です。旧約聖書では「聖会」と呼ばれます。集まって主を礼拝する日。旧約聖書では土曜日が安息日でしたが、教会はそれを日曜日に移動しました。イエスさまの復活を覚えてのことです。そしてこのように私たちは共に集まって礼拝をしている。療養中の方もYouTubeなどで共に礼拝しています。
そしてここにこそ主が共におられ、安息日の恵みを表してくださるということができます。ゆえに、主日礼拝は、これから始まる一週間をがんばろう、という決起集会のようなものではありません。今まさにここで、主の業が、神の業が起きている。なにかが起きている。その恵みの主と共に歩んで行くことを確認し、感謝する場であるということができます。
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