2024年12月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記38章1〜2ヨハネによる福音書9章1〜12
●説教 「光を得た人」 小宮山剛牧師
12月8日
本日は12月8日です。今から83年前の1941年(昭和16年)のこの日、日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃しました。それを受けて同じ日に、アメリカ、イギリスが日本に対して宣戦布告をし、太平洋戦争が始まりました。すでに日本は中国と戦争を始めており、新たにアメリカ、イギリスと戦争を始めることによって、絶望的な泥沼にはまっていきます。その結果、多くの人が死ぬことになりました。ですからこの日は、あらためて政治の指導者が間違いを起こさないように、そして世界平和のために祈る日でもあると思います。
さて、皆さんにお知らせしておりましたとおり、先週2泊3日で検査の入院をしてまいりました。昨年の心筋梗塞に伴うカテーテル手術の経過を見るためです。やはり心臓カテーテルによって検査がなされたのですが、結果はとても良い状態で、大丈夫だと先生から言われました。皆さんに祈っていただいたことを本当に感謝いたします。
検査とは言え、やはり病院に入院するというのは楽しいことではありません。なんとなく気が重い感じがいたします。ところが横須賀共済病院に行ってみますと、あちこちにクリスマスツリーが飾られていたんです。入院する病棟のフロアにも、きれいに飾られたツリーがある。私はツリーが飾られているときは、「ちゃんとてっぺんにベツレヘムの星が付いているかな?」と思って見るのですが、ちゃんと付いていました。それだけではなく、建物に囲まれた中庭を窓から見下ろすと、そこにも大きなツリーが飾られていました。なんだかうれしくなりました。いいなあ、と思いました。おかげでその前を通るたびに、イエスさまがいっしょにいて下さる思いが強まり、感謝でした。
それらのツリーを飾った人たちはクリスチャンではないかもしれません。しかしツリー自体は、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったイエスさまを証ししているわけです。この世の人々が、平和の君であるイエスさまのもとに礼拝するために集まるようになることを願いました。
通りすがり
さて本日のヨハネによる福音書ですが、きょうからまた場面が変わります。そして生まれつき目の見えない人が、イエスさまによって見えるようになったという奇跡が起きます。
発端は1節に書かれていますが、イエスさまが弟子たちと共に歩いているとき、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見られたことから始まっています。「通りすがりに」と書かれています。つまり、何かその人に会いたいと思って行かれたのではない。通りすがりにその人を見たのです。その結果、イエスさまがその人の目を見えるようになさった。そうすると、その人はたまたまイエスさまが通りかかる道端にいて運がよかったねと、そのように多くの人は思うのではないでしょうか。そして一方では、「イエスさまがたまたま通りかかったからその人は癒されたということになると、他の人はどうなのか?不公平ではないのか?」などと思ったりするかもしれません。
しかし、ヨハネによる福音書では、イエスさまが一人一人のことをご存じであるということがよく出てきます。たとえばこの福音書の1章では、ナタナエルという人がイエスさまの弟子となった時のことが書かれています。その時、イエスさまはナタナエルに会う前からナタナエルのことをご存じでした。それでナタナエルは敬服してしまって、イエスさまのことを神の子でありイスラエルの王、つまりメシアであると信じる。そういうことが書かれています。
そうすると、確かにきょうの聖書箇所では、たまたまイエスさまが道を歩いていて偶然この盲人に会ったわけですが、イエスさまはこの盲人のことも知っておられたということになります。この人がどのような境遇に置かれているか、どのような人生を歩んできたか、何に困っているか‥‥そういうこともご存じであったということになります。
そしてイエスさまのなさる奇跡は、ヨハネによる福音書では「しるし」と呼ばれます。すなわち、イエスさまが奇跡によって癒やされたという出来事は、単にその人が癒されたという奇跡にとどまらない。すべての人が救われるための「しるし」となります。私たち一人一人のこともご存じであり、偶然に見えて偶然ではない。イエスさまが導いておられるということです。
たとえば、人はそれぞれ違う形でイエスさまの所に導かれますが、私の妻はキリスト教とは無関係な家に生まれました。しかし若い日のあるとき、たまたま教会付属の保育園の横を通りかかった。するとパートを募集中との貼り紙がしてあった。それで入って応募したところ、そこで働くようになった。そして教会へと自然に導かれました。このことを考えると、偶然教会付属の保育園の横を通ったのですが、実は偶然のように見えて偶然ではなかったとも言えるわけです。イエスさまはすべてご存じの上で導かれたということもできます。
先週私が入院した病室は、なんと昨年救急入院した時、集中治療室を出てから一般病棟に移ったときの部屋と同じ部屋でした。循環器病棟のいくつもある病室の中の同じ部屋。しかも部屋に5つあるベッドのうちの空いているベッドがあてがわれたのですが、そのベッドもなんと昨年と同じベッドでした。驚きでした。こんなことってある?と思いました。‥‥これも、たまたま偶然のように見えて偶然ではないように思われました。なにかイエスさまが、「剛よ、去年私はあなたを助けた。そのことを忘れないでいなさい」とおっしゃっているように思いました。
イエスさまは、たしかに私たち一人一人のことをご存じなのであります。
不幸の原因
生まれつき目の見えない人。この人は道端に座っていました。物乞いをしていたのです。目が見えませんから、働くことができません。だから生きるために物乞いをするしかなかった。それで道端に座っていました。きょう読んだところの次の箇所を読みますと、この人には両親がいたことが分かります。両親がいるのなら、なぜ物乞いをしなければならないのか?というのは、現代人の考え方でしょう。当時は庶民がみな貧しい時代です。また福祉もない時代です。障害を持つ子供を養うほどの余力がなかったのでしょう。それでこの人は物乞いをするしかなかったのです。通行人からあわれみを求めて生きる。そのようなことをしたくなかったでしょう。しかし生きるためには仕方がなかったのです。
弟子たちがイエスさまに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」‥‥弟子たちは、この人が生まれつき目が見えない理由をさぐったのです。しかしそれにしてもなんと残酷な言葉でしょうか。この人本人が罪を犯したからその天罰として目が見えないのか、それとも両親が罪を犯したからその天罰として目が見えないのか、どっちですかというのです。
「本人が罪を犯した」というのは、よく考えるとおかしいですね。生まれつき目が見えないのですから。もしそうだとしたら、生まれる前に罪を犯したということになります。しかし実際に、そのように考える人々もいたようです。つまり生まれる前、お母さんのお腹の中にいるときにすでに罪を犯したのだと。もちろん本人の記憶にはありません。そんなことを言われたら、どうすることもできません。さらに、両親が罪を犯したから、その天罰として子供の目が見えない状態で生まれたというのも同様に残酷です。本人はどうすることもできません。そのように、本人がどうすることもできないことを理由に挙げる。
おそらく弟子たちには悪気(わるぎ)がなかったのでしょう。つまり当時の人々は普通そのように考えていたのでしょう。しかしこれは日本でも同じで、「親の因果(いんが)が子に報い」という言葉があったりします。いわゆるカルト宗教は、こういう所につけ込みます。「先祖の因縁を断たなければ」などと言って、高額な壺や印鑑を買わせたり、高額な祈祷料を取って怪しげな呪文を唱えたりします。そうして解決どころか、泥沼にはまっていくことになる。本人にはどうすることもできないところにつけ込みます。
本人が胎児の時だとか、親の因果であるというのは、どうすることもできない過去のことに原因を求めているわけです。しかし、多くの人もまた自分の不幸の原因を過去に求めるということはよくあることのように思います。たとえば「このような親のもとに生まれたから不幸になった」とか。これは近ごろの言葉で言うと「親ガチャ」というものですね。あるいは、「なぜこんな自分に産まれたのか」とか「あのときあんなことをしなければよかった」とかいうようなことです。今さらどうすることもできない過去に、現在の不幸の原因を求める。これは自分では解決できませんから、ずっと引きずることとなります。
前方にある希望
ところで、イエスさまのおっしゃったことは、そのような過去の後ろの出来事にとらわれるのではなく、前の方を向いている言葉です。(3節)「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
なんとすばらしい言葉でしょうか!超弩級(どきゅう)の希望の言葉です。このような言葉は、イエスさましか語ることができません。なぜなら、この言葉はイエスさまの存在をかけた言葉だからです。なにか気休めの言葉ではありません。イエスさまが責任を取ってくださる言葉なんです。そしてイエスさまのこの言葉は、後ろを振り返っているのではなく、完全に前の方を向いている言葉です。神さまによって前を向くことができる。これから神の業がこの人に現れる。そのためにこの人は苦労を背負ってきた。しかしこれから神の恵みが現れるのだということです。
イエスさまは地面に唾をして泥をこねて、その人の目に塗りました。目の見えない人の目に泥を塗ったんです。どうしてそんなことをなさったのか。しかしイエスさまは彼に言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。目に塗った泥を洗い流すために池に行けとおっしゃる。だったら最初から泥を塗らなければいいのでは?とも思います。そもそもそんなことをなさらなくても、他の福音書ではイエスさまが「見えるようになれ」とおしゃったら盲人の目がたちまち見えるようになったという奇跡も書かれています。それなのになぜこのケースでは、泥を彼の目に塗って、池に行って洗えとおっしゃったのか?
一つ言えることは、イエスさまは、私たちを十把一絡げにして同じように扱われるのではないということです。一人一人をご存じであるイエスさまは、その人にふさわしい方法をお採りなさる。私たちに対しても同じです。みな同じようになさるのではありません。その人にふさわしい対応をなさるのです。
そしてこの人については、ここまでイエスさまが一方的に癒やそうとなさっています。彼のほうから「目を見えるようにして下さい」と頼んでいません。ここまでイエスさまの一方的な行為です。しかしイエスさまが彼の目に泥を塗られ、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたことにより、そのイエスさまの言葉に従うかどうかという判断が必要となりました。イエスさまの言葉を信じて従うという、イエスさまの言葉に対する応答が必要となったんです。そして彼はイエスさまの言葉を受け入れ、シロアムの池に行き、目を洗いました。すると見えるようになりました。つまりイエスさまは、一人芝居をなさろうとしない。彼の目に泥を塗ることによって、それを「洗いなさい」というイエスさまの言葉に従うチャンスを与えられたのです。イエスさまの言葉を信じるチャンスです。そしてその言葉に従い、神のわざが現れることとなりました。
神のわざが現れるようになるため
先ほども申し上げましたように、誰でも過去を引きずっている部分が大なり小なりあります。人によっては、それが大きな荷物となってのしかかることがあります。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」‥‥この残酷な言葉は、たとえば「この人の不幸は、本人の失敗が原因ですか?それとも親の過ちが原因ですか?」という言葉としても受け取ることができます。「自分の失敗のせいでこうなった」「あの人のせいでこんなことになった」‥‥そうしていつまでも悔やみ、あるいは運命を呪う。どうすることもできない過去を憎む‥‥。
しかしイエスさまは、その後ろに引きずられる私たちを、前に向かせて下さることのできる方です。前方にある大いなる希望にです。なぜなら、それらの失敗や過ちがあったとしても、イエスさまはそれをすべて代わりに担ってくださる方だからです。それが十字架のイエスさまの姿です。両親の罪によるのではない、本人が生まれる前の罪でもないと、体を張って言ってくださることのできる方だからです。そして神のわざが現れるようにして下さる。感謝へと変えてくださる。
私たち、イエスさまを信じる者にとっては、そのようなことが多々あるのではないでしょうか。「ああ、あの時の苦しみは、このような喜ばしいことのためだったのだ」というようなことが。「あの時の試練は、このような信仰の恵みのためだったんだ」と分かる時が来るのです。
もう一つ、イエスさまは「シロアムの池」に行って洗えと彼におっしゃいました。「シロアム」とは、きょうの聖書に書かれているように、「遣わされた者」という意味です。そして4節で「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」とおっしゃっています。「わたしは」ではなく、「わたしたちは」とおっしゃっている。この「わたしたち」というのは、イエスさまを含めた私たちのことです。つまり教会のことです。教会が、イエスさまによってこの世に遣わされている。神のわざを表すために。使命が与えられているんです。私たちのような者を用いてくださることもおっしゃってくださるんです。私たちが恵みを受けるばかりか、私たちが神のわざを表すためにお役に立てる。
私たちは、万事をすべて益と成してくださる方、悪いこともすべてのことも、良いことへと変えてくださる方を信じています。そのイエスさまを信じて、前に向かって行きたいと思います。
|