2024年12月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント1/準備
●聖書 創世記12章2
    ヨハネによる福音書8章48〜59
●説教 「はるかなる存在者」 小宮山 剛牧師
 
   アドベント入り
 
 教会の暦では、本日からアドベント、すなわち待降節に入ります。アドベントという言葉はラテン語のアドベントゥスから来ていて、「到来」という意味です。つまりキリストの到来です。アドベントの期間は、クリスマスイブの前の4週間です。そしてアドベントが教会の一年の始まりです。すなわち、キリストの到来を待ち望むことから私たちの歩みが始まります。
 キリストの到来を待ち望むことによって一年が始まり、キリストがお生まれになり、この世を歩まれ、十字架にかけられて死なれ、復活し、昇天を経てペンテコステの聖霊降臨があって教会が誕生する。そして聖霊に導かれて歩み、再臨を待ち望む終末主日で一年を終える。そのように、イエスさまと、イエスさまによってもたらされた救いの道をたどって一年を歩む。なにかと神さまの恵みを忘れやすい私たちにとっては、教会暦はイエスさまによる救いの意味を味わいつつ歩むという恵みがあります。
 私たちは教会暦を覚えつつ、本日もヨハネによる福音書の続きの箇所から恵みを分かちあいたいと思います。
 
   見かけや偏見ではなく
 
 終わりのほうの57節が気になった方はおられるでしょうか。人々がイエスさまに「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言っています。つまりイエスさまの年齢についてです。この時イエスさまは、30歳代の前半だと思われます。なのに人々は、「あなたはまだ50にもならないのに」と言っている。「40にもならないのに」というのならまだ分かりますが、「50にもならないのに」と言っている。ちょっと離れすぎという感じです。
 そもそもアブラハムというのは旧約聖書の最初のほうにでてくる人であり、イエスさまの時代よりも約2千年も昔の人です。50歳でもはるかに届きません。ですから、「あなたはまだ50にもならないのに」という彼らの言葉は、50歳ならばアブラハムを見ることができたというのではなくて、イエスさまが実際の年齢よりも老けて見えたのではないかとも考えられます。これについては、旧約聖書における重要なキリスト予言であるイザヤ書53章の2節にこう書かれています。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」‥‥「好ましい容姿もない」。
 実を言いますと、新約聖書はそれぞれの人間の外見について何も書いていません。旧約はダビデが「美しかった」など、人間の外見を書いている箇所は多くありますが、新約聖書では人の外見や容姿についてはほとんど書かれていません。書かれているとしても、例えばザアカイが背が低かったとかかれているのは、なぜザアカイがイエスさまを見るために木に登らなければならなかったかということを説明するために書かれているに過ぎないのです。ですから新約聖書では、もっぱら語られた言葉や信仰に焦点が当てられています。見かけには関心がないんです。そういうことはどうでもよいということですね。神の言葉の前に、その人がどう応答したかということだけです。旧約聖書でも、サムエル記上16:7には、こう書かれています。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 しかし、本日のヨハネの聖書箇所で登場する人々は、そのように人を見ていません。見た目や先入観にとらわれてしまっています。
 
   石打ち
 
 本日の聖書箇所で、仮庵の祭りのあと始まったイエスさまと人々との対話が終わります。そして、人々がイエスさまに石を投げつけようとしたという結果に至る。どうしてそんなことになったのか? イエスさまとの対話によって、自分たちに悔い改めが求められ、またイエスさまがご自身のことを語られた時に、イエスさまに対して激しく怒ったという結果になっています。
 今日の聖書箇所は、やや長い箇所となりましたが、なにか難しいことが書かれているわけではありません。しかし現代の日本人である私たちからいたしますと、なにかちょっと理解しにくいところがあるかもしれません。そこで今日の箇所を、もう一度順に追っておきたいと思います。
(48節)人々が、イエスさまのことを「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っています。それは先にイエスさまが彼らに対して、あなたがたは悪魔である父から出た者だと言ったことについて、反発するように言っているわけです。つまり、「悪魔に取りつかれているのはイエスよ、あんたのほうだ!頭がおかしくなっている。」というわけです。
(49〜51節)そうしますとイエスは、「そうじゃない。わたしは神を重んじている。なのに君達は私を重んじない。つまり君達は神を重んじていないということになる。私は自分が誰かから栄光を受けてあがめられたいのではない。私の栄光を求めて裁きをなさる方が他におられるからだ。(つまりそれは父なる神なのですが。)アーメン、アーメン(はっきり言っておく)、私の言葉を守るなら、その人は絶対に死ぬことがないのだ。」
 ちなみに、この「守る」という言葉は「見張る、保存する、固く守る、持ち続ける、従う」という意味があります。
 「わたしが悪魔に取り憑かれているならば、高慢になって自分がほめたたえようとするだろうが、私は自分がほめたたえられようとは思っていない。私は神を重んじている。私を通して、神があがめられるように働いている。その神がわたしを遣わし言葉を授けているのだから、私の言った言葉を保ち続けるならば、その人は絶対に死ぬことがない。」そのように言われました。
(52〜53節)すると人々はこう言います。「やっぱりあんたは悪霊に取りつかれている。あんたの言っていることは誇大妄想だ。私の言葉を守るなら死なないって?バカも休み休み言え。我々の父である先祖アブラハムでさえも死んだじゃないか。あんたは何様のつもりか。」
(54〜56節)それに対してイエスさまが答えます。「もし私が自分の栄光を求めているのならば、たしかにおかしいだろう。しかし神が栄光を私に与えてくださるだろう。あなたたちは神を知らないが、私は知っている。逆に私が神を知らないというならば、それはウソになってしまう。私は神を知っているし、その言葉を持っている。そもそも、あなたがたはアブラハムが自分たちの父だと言うが、そのアブラハムは私が来る日を楽しみにしていた。そしてそれを信仰によって見て、喜んだのだ。」
(57節)すると人々が答える。「何をおかしなことを言っているのか。あんたは50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たというのか?!アブラハムは2千年前の人だぞ。」
(58節)それに対してイエスさまが答えます。「アーメン、アーメン、アブラハムが生まれる前から『わたしは存在している。』」
(59節)それを聞いて人々は激しく怒ります。「イエスよ、それは自分を神と等しいものとすることだ。神への冒とくだ。死刑だ」と言って石を投げつけようとする。しかしイエスは身を隠して神殿の境内から出て行かれた。‥‥こういう流れです。
 すなわち彼らは、イエスさまが神のもとから来れたこと、イエスが永遠の存在者であること、イエスが命を与える方であることを認めない。そればかりか、神を冒涜する者であるとして、石打の死刑にしようとした。イエスさまに対する完全な拒絶であり、排除です。
 さて、最後のところの、イエスが「身を隠して」とありますが、これは逃げて行ったのではありません。受け身形の言葉ですから、神がイエスを隠されたということでしょう。神がイエスさまを石打刑の場から隠された。守られたんです。今は、イエスさまが処刑される時ではないということです。もう少し先の十字架まで、神がイエスさまを守る。このことは、逆にイエスさまが十字架につけられることが神の御心であるということが暗示されています。つまり、十字架で命を与えるイエスさまにクライマックスを持って行かれるのです。
 
   アブラハムの信仰
 
 ここにでてくるユダヤ人たちが、しきりにアブラハムという人を持ち出しています。アブラハムはユダヤ人(イスラエル人)の先祖であり、始まりの人です。それは同時に、聖書における救いの物語の始まりであります。そのことは旧約聖書の創世記12章に書かれています。文明の地に住んでいたアブラハムが、主なる神さまの声を聞いて、住み慣れた町を後にして、75歳にして神さまの指し示すところに向かって旅立っていくところから救いの物語は始まります。
 きょうはその12章2節を読みました。主なる神さまがアブラハムに語られた約束の言葉です。「あなたを大いなる国民にする」、これは子孫を増やすということです。この時アブラハム夫妻にはまだ子供が生まれていなかったのに、神の言葉を信じたんです。自分の子どもが与えられるとの約束だけではありません。「祝福の源となるように」と主なる神がおっしゃっています。次の3節には、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という約束が語られています。
 すなわち、アブラハムは、自分の子孫が増えることだけを信じたのではありません。自分の子孫を通して世界の人々が祝福される、すなわち救われるという希望、喜びです。自分も神のお役に立てると。それで見知らぬ土地へと向かっていった。アブラハムの子孫によって世界の民が救われるという約束が、イエスを指しているということ。それをアブラハムは信仰によって見たのです。
 
   死ぬことがない
 
 51節のイエスさまの言葉、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」‥‥この言葉の大きさをよくかみしめる必要があると思います。この「死」はこの肉体の死のことではなく、神によって与えられる永遠の命に移されるということです。
 今年も12月となりました。今年も多くの兄弟姉妹たちが亡くなりました。それらの兄弟姉妹たちのことを思う時、このイエスさまの言葉が大きく力をもって迫ってくるように思います。そして慰めと希望を与えてくれます。私たちの亡くなった家族のことを思う時、やはり死の力というものを思わざるをえません。キリストを信じないまま亡くなった家族もいるでしょう。そのことを思う時、その分まで信仰生活に励み、祈り続けようと思います。
 
   キリストが結ばせてくださる実
 
 イエスさまに反発する人々は、イエスさまのことを「悪霊に取りつかれている」と言いました。しかしイエスさまが悪霊に取りつかれているのではなく、彼らこそが悪霊に取りつかれているのであることは、彼らがイエスさまに石を投げつけようとしたことで分かります。そしてイエスさまが神のもとから来られた方であることは、私たち自身がその証人です。
 月刊誌『百万人の福音』12月号に、ある女の人の証しが載っていました。この人は、小学校2年生のときに、自分が捨て子であったことを育ての親から聞いたそうです。しかしこう述べておられます。「嘘だと思われるかもしれないけれど、本当にショックじゃなかった。だって、私は育ての親の愛を疑ったことはなかったですし、何よりも私は神さまの子供だという確信があったから!」と。
 彼女さんは、生後1か月ほどの真冬の早朝、ある駅の近くの道端に裸で風呂敷にくるまれ泣いているところを、駅長さんの家族が発見し、保護されたそうです。そのことについても「育ての本当の親が晴れた日に駅の近くに置いてくれたからすぐに発見された。きっと神さまのお守りがあったのでしょうね」と述べておられます。自分が捨て子であったことを知った時、友だちにも何の気になしに話したそうです。そのようにすることができたのは、いつも父母が愛を語ってくれたからだそうです。育ての父母は、お父さんがベルギー出身、お母さんがオランダ出身の宣教師だそうです。そして彼女は、「きっと本当の親には、よほどの事情があったのだと思う」と述べ、「自分の罪がどれほど深いのかを少しずつ神さまから教えられたから。またそのおかげでクリスチャンの少ない日本において、クリスチャンの家庭につながることができた。宣教師だった父母は、毎日の家庭礼拝で、繰り返し、あなたは神さまに愛されている、神さまの子なのだと語ってくれた。みんな神さまの養子なのだと。そのように導かれたのは、奇跡であり恵みだと思う」と述べておられます。
 自分が実の親に捨てられたということは、本来ならばどんなにショックであり、一生の傷となることに違いありません。しかし、自分が生かされたことを感謝し、イエスさまによって神の子であることを感謝し、自分を捨てた親を思いやる。これは奇跡でありませんか。イエスさまから始まっている奇跡です。イエスさまが悪霊に取りつかれているのではなく、神の御子であるしるしです。神は愛であるからです。
 アドベントの時、主から与えられた恵みを数えつつ、歩みたいと願っております。


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