2024年11月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教/終末主日
●聖書 エレミヤ書43章1〜3
    ヨハネによる福音書8章39〜47
●説教 「求める心」 小宮山 剛牧師
 
   終末主日
 
 きょうは教会の暦で「終末主日」です。つまり、世の終わりとキリストの再臨を心に留める日です。そして終末主日は同時に収穫感謝祭でもあります。その収穫とは単に農作物の収穫ということだけではなく、私たち人間の救いという神の収穫でもあります。
 教会の暦はキリストの到来を待ち望むアドベント(待降節)で始まり、クリスマス、イースター、ペンテコステを経て、キリストの再臨を待ち望む終末主日で終わるようになっています。ですから今週が一年の終わりということになり、来週のアドベントから新しい一年が始まることになります。
 さて、ただいまその終末主日を覚えて讃美歌1−174番をご一緒に歌いました。世の終わりとキリストの再臨を覚える曲です。讃美歌の本のこの曲の五線譜の上のほうに、小さい字で曲名と作詞・作曲者が書かれています。曲名はドイツ語ですが日本語にすると「目覚めよと呼ぶ声あり」となっています。この曲は、バッハのカンタータ140番にもアレンジして使われています。そしてまたオルガン用にこの曲がアレンジされています(作品番号645)。つまり、バッハはこの曲を気に入っていたようです。
 作詞・作曲者は、16世紀に生まれたドイツのフィリップ・ニコライというルター派の牧師です。ちょうど1597年〜1598年に、ニコライ牧師が在職した町でペストが流行しました。ペストはヨーロッパでは繰り返し流行したようです。そしてその町の数千人が死に、連日10回も葬式をすることになったそうです。その時に作った曲がこれだということです。感染症になすすべがない時代です。次々と人が死んでいく。悲惨で、恐怖が町を覆っている状況です。しかしこの讃美歌は、絶望するのではなく、前を向いています。前を向くというのは、再臨されるイエスさまのほうを見ているのです。
 歌詞を見てみましょう。1節は「起きよ夜は明けぬ、夜警(ものみ)らは叫べり」という歌詞で始まっています。「夜は明けぬ」というのは文語の完了形で、ちょうど世が明けたということです。だから起きなさいと、城壁から外を見張っている番兵たちが叫んでいる。「エルサレム」とは、ここでは神の都のことであり、主の民、キリスト者のことです。そして「おとめ」「新郎(はなむこ)」というのは、イエスさまのたとえ話に出てきますが、「新郎」がキリスト、「おとめ」が主の民にたとえられます。ですから、キリストが再臨された、約束通り来られた、さあ迎えよう!ハレルヤ、主をほめたたえよ!明かりを高く掲げて、再臨の主イエスを迎えよう!と歌っているわけです。
 2節は、再臨のキリストが来られたことの喜びが歌われています。光が差したと言います。「主よ、よくこそましましけれ」というのは「主よ、ようこそお出でくださいました」ですね。ハレルヤ!と主を賛美する言葉が繰り返し出てきます。「祝いのむしろ」は、再臨のキリストを祝う祝宴の席です。そこに着かせてくださいと歌っています。
 3節後半「待ちに待ちし、主は来ませり ハレルヤ! 栄えある勝ち歌 いざともに歌わん」。すなわち、「待ちに待った主イエス・キリストは来られた、ハレルヤ!栄光の勝利の歌を、さあ、ともに歌おう!」と爆発するような喜びと賛美で締めくくられています。これが、ペストによって死の恐怖に包まれていたときに、作られた曲です。
 私たちがキリストを信じて本当に良かったなあ!と思うときはいつでしょうか? もちろん、それは日々の生活の中でも見出すことができますが。究極的には、キリストの再臨の時でしょう。キリストが私たちを迎えに来てくださるときです。「主よ、よくこそましましけれ」。主よ、ようこそお出で下さいました、と。賛美の歌を共に歌う時が来る。私たちは、そこに向かっています。
 
   悪魔
 
 本日のヨハネによる福音書に入ります。44節でイエスさまは、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と言っておられます。あなたたちの父は悪魔である、すなわちあなたたちは悪魔の子であると。もちろんそれは実際に悪魔の子であるということではないでしょう。悪魔を父のようにして従っている、ということでしょう。しかしそれにしてもかなりきつい言い方であるに違いありません。ですから人々が反発しています。
 しかし、イエスさまのこの言葉は、人々を糾弾している言葉なのでしょうか?‥‥そういうことではないと思います。これは人々に悔い改めを求めている言葉です。つまり、「あなたたちが悪魔に従っているということに気づきなさい」ということです。本当の自分の姿に気づきなさい。神ではなく、悪魔の手に乗っかってしまっていることに気づきなさい。そういうことをおっしゃっています。
 それにしても「悪魔」という言葉には、独特な響きがあります。考えてみますと、おそらく多くの人は、「神」よりも「悪魔」という言葉に強い興味を持つだろうと思います。たとえば、「イエスさまを信じればイエスさまが共にいて下さるよ」というのと、「そんなことをしたら、悪魔に呪われるよ」というのとでは、どちらのほうが聞くでしょうか。おそらく後者でしょう。だから世の中に「タブー」というものが存在するのです。「そんなことをしたら悪魔に取り憑かれるよ」「そんなことをしたら、幽霊が出て来るよ」‥‥という脅しのような言葉が力を持つのは、人間の心理を巧みに突いていると言えます。ファリサイ派らの律法主義が力を持つのもそういうところにあると言えるでしょう。
 きょうの箇所では、イエスさまの口から悪魔という言葉が出てきているわけですが、そもそも悪魔は本当に存在するのでしょうか?
 イギリス人の作家に、C.S.ルイスという人がいました。「ナルニア国物語」の作者です。前にもご紹介しましたが、ルイスの書いた本に『悪魔の手紙』というものがあります。これは、老練な悪魔が、かけ出しの甥っ子の悪魔を指導するために手紙を書いたという設定です。いかにしたら、甥っ子の悪魔が担当する人間を、神への信仰から離れさせることができるか、アドバイスをする。ルイス独特のユーモアによって、人間の罪の本質を描いている作品です。
 その中に、こう書き送っている箇所があります。‥‥「患者(甥っ子が担当する人間のこと)に君自身の存在を知らせずにおくのが必要欠くべからざることがどうかと、君は私に尋ねるのだね。その質問は、少なくとも闘争の現段階では最高司令部によって答が出されている。我々の方策は、さしあたって自分たちを隠しておくことである。」‥‥人間に対してわれわれ悪魔の存在を、当面は隠しておくべきだと。しかし続けて、次のようなことを書き足します。人間どもが我々の存在を信じなければそれはそれで困る。しかし逆に、人間が我々悪魔の存在を信じるなら、人間を唯物主義者や懐疑主義者にすることができない。そういうジレンマがある、と。そのへんをうまく考えて「人間どもの心が敵(イエス)ヘの信仰に対しては閉ざされたままであることを大いに期待している」と書き送ります。
 すなわち、悪魔の存在を前面に出すのでもなく、また悪魔は存在しないというのでもなく、そのあたりはうまくやりながら、目的を見失うなと。すなわち目的は、人間が神を信じないように誘導するところにあるのだというのです。そういうことをユーモアたっぷりに書いています。
 ところで、聖書はまさにそのような悪魔を書いています。そして、たしかに悪魔は存在することも書いています。ただし安心してください。その悪魔は、イエスさまによって必ず駆逐されるものであるからです。
 
   悪魔の働き
 
 きょうのところでイエスさまは、悪魔に気をつけなさい、とおっしゃりたいのでしょうか? そもそも悪魔の働きとはなんでしょうか?
 そのことについては、旧約聖書の創世記第3章のエデンの園の物語が劇的に描いています。そこでは悪魔は蛇として描かれています。そして、人間の罪をそそのかす形で働きかけています。そこからは取って食べてはならないと神さまがおっしゃった「善悪の知識の木」。悪魔は、それを食べるようにそそのかします。そしてウソを言って神さまの言葉を疑わせます。そうしてエバがその善悪の知識の木の実を見ると「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と書かれています。「おいしそう」だったのですね。神さまが食べてはダメだといったけれども、おいしそうだった。そして食べてしまった。人間の欲望の判断が優先しています。
 本日の旧約聖書は、エレミヤ書43章1〜3節を読みました。この個所に至るいきさつはこうです。‥‥ユダ王国が、バビロン王国によって滅亡しました。エレサレムの都は破壊され、多くの人が死にました。そして生き残った多くの人々が、捕囚としてバビロンへ連れて行かれました。そして、捕囚とならずに残った人々は、エジプトへ逃れようとしました。それでエレミヤに主の言葉を求めました。彼らは言いました。「主があなたに告げられる言葉の通り実行することを誓います」と。主なる神さまがおっしゃったことに従うと言ったのです。それでエレミヤは主の言葉を求めて祈りました。そして10日目に主の預言が与えられました。それは、バビロンの王に従って、ユダの地にとどまれというものでした。
 すると本日の箇所に書かれているように、彼らは言ったのです。「あなたの言っていることは偽りだ」と。主はあなたを遣わしていない、それは主の言葉ではないと。10日前には、エレミヤを通して語られる主の言葉に従うといって誓ったのに、いざ主の言葉が語られると、それは主の言葉ではないと言って背く。彼らはもともとエジプトへ逃げたかったのです。そういう思いが、この人々の心の中にあったんです。そしてエレミヤが、もし彼らの思いと同じ言葉を語ったとしたら、それは主の言葉だと言って従ったでしょう。つまり、自分の思いと同じ言葉が語られる限りにおいて信じるということです。しかしそうではない場合は、信じない。自分中心なんです。自分が神さまに従うのではなく、神さまを自分に従わせようとしている。
 悪魔というのは、そういう人間の罪をそそのかす働きをします。つまり聖書は、悪魔が主要な問題だと言っているのではありません。私たちのうちにある罪を問題にしているのです。その罪こそが、今日の聖書の言葉で言えば、神から遣わされたイエスを殺すことになる。すなわち十字架につける。それは神を拒絶することです。
 
   悔い改めない人々
 
 きょう読んだ箇所の前の箇所から続いているわけですが、前回の所でイエスさまは「真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいました。それは、キリストによる本当の自由です。それは罪からの自由であり、悪魔からの自由です。そのキリストによる自由によって、平安が与えられ、和解が生じ、喜びが生まれ、感謝が生まれる。罪に束縛されているとそれがありません。
 イエスさまに反発する人々は、自分たちの父はアブラハムであり、罪や悪魔の奴隷になったことはないと言いました。自分たちの父はアブラハムであり、自分たちはアブラハムの子孫であると。だから自由だ、大丈夫だ、救われているという。またそれだけではなく、わたしたちの父は神だと言っています。
 アブラハムの子孫だから救われている。それは単に祖先のアブラハムと血がつながっていると言うだけの話です。それでは「信仰」というものがいらなくなってしまいます。そもそもアブラハムという人はどうだったでしょうか?‥‥アブラハムは新約聖書では「信仰の父」と呼ばれます。アブラハムは今のイラクに住んでいました。町に住んでいたんです。しかしあるとき主なる神さまから「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と語りかけられました。そしてその神さまの約束の言葉を信じて、75歳にして旅立ったんです。町を捨て、家を後にして、一族を連れて神さまの導きに従って、見知らぬ外国の地に行きました。神さまを信じたからです。神さまの祝福の約束の言葉を信じたからです。だから、アブラハムの子孫というのならば、そのアブラハムの信仰に見ならっていると言わなければなりません。
 ガラテヤの信徒への手紙3章に次のように書かれています。「”霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
 そのように、神を信じる信仰こそ、アブラハムの子であるのです。信仰がなければなんにもなりません。
 
   イエスを信じる
 
 42節でイエスさまはおっしゃっています。「イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。』」 神を信じるならば、イエスさまを愛するはずだと。それは何よりも、まずイエスさまが私たち一人一人を愛しておられるという事実があります。
 終末主日。私たちの信仰を新たにしたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]