2024年11月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書3章16〜18
ヨハネによる福音書8章31〜38
●説教 「本当の自由」小宮山剛牧師
真理は自由にする
「真理はあなたたちを自由にする」とイエスさまがおっしゃっています。国立国会図書館のホールには、「真理は我らを自由にする」という言葉が刻まれているそうです。国立国会図書館法という法律の前文に「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」とあるそうです。この言葉が入れられることになったのは、初代参議院図書館運営委員長の羽仁五郎さんーー羽仁五郎さんといえば歴史学者であり参議院議員を務めた人ですーーが、ドイツ留学中にフライブルグ大学図書館で見た銘文を引用したそうです。
そしてその出典は、本日の32節のイエスさまの言葉にあるとのことです。イエスさまは「真理はあなたたちを自由にする」と言われ、国立国会図書館の銘文は「真理は我らを自由にする」と書かれている。まさにイエスさまの言葉に対して、ちゃんと応答したような言葉です。日本の国がそうあってほしい。真理を探究するものであってほしいと思います。
自由を求める人間
私たち人間は「自由」という言葉にあこがれるのではないでしょうか。なぜなら私たちは、さまざまな束縛のもとに生きているからです。仕事に束縛され、時間に束縛される。家事に束縛され、家族に束縛され、お金に束縛され、規則や決まりに束縛され、人間関係に束縛され、年齢に束縛されます。年齢に束縛されるというのは、「歳には勝てない」ということですね。また病気に束縛されます。‥‥そのように私たちはさまざまなものに束縛されています。ですから、自由になりたいと願う。
年齢や病気などは別といたしますと、それらの束縛から自由になる方法の一つが「お金」であると考えられています。大金持ちになれば、ほとんど自由になれると多くの人は思っています。仕事もしなくてよい。面倒なことは、人を雇ってやってもらう。好きな物を食べ、世界中の好きな所に行くことができる。自由だ。‥‥そのように思います。
しかし、まず、大金持ちになることなどはふつうは無理な話です。そしてたとえ大金持ちになったとしても、それで自由になれるかというと、本当にそうでしょうか。また仮にそうでなかったとしても、人間は最後に死を迎えます。そこから逃れることはできません。
そのようなことを考えて、あらためてイエスさまの言葉を聞きたいと思います。「真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、自由というものは真理によってもたらされるものであるということです。お金によってではない。権力によってでもない。「真理」によってもたらされると言われているのです。
真理とは
では「真理」とはなにか?‥‥そのように申しますと、何かたいへん難しく頭を使って考えないとならない、ちょっと敬遠したくなるような命題であるように感じられます。「そんな小難しいこと考えるのは苦手だ」と言いたくなる。しかしそんな難しいことを考えよ、とイエスさまはおっしゃっているのではありません。そこは安心して下さい。
ここで「真理」と日本語に訳されている言葉は、ギリシャ語では「アレセイア」という言葉です。既にこのヨハネによる福音書では何度も出てきました。ですからくわしく説明する必要はないと思いますが、「アレセイア」という言葉は、「真理」とも「真実」とも訳すことができます。ですからここは、「真実はあなたたちを自由にする」と言ってもいいわけです。
しかしそう言われると、「私たちを自由にしてくれるような真実というものなどあるのか?」という疑問が浮かんできます。神を信じない人は思います。宇宙というものは勝手に誕生したのであり、したがって我々も偶然、勝手に発生したのであって、時間と共に消えていくだけである。全ては偶然の産物なのであって、そこに真実などというものはない。全ては相対的なもの、過ぎゆくものであって、絶対的な真実などあるはずもない。‥‥神を信じない人には、そのように思われるでしょう。
しかしイエスさまはハッキリとおっしゃっています。「真理はあなたたちを自由にする。」真理がある。真実がある。それが私たちを自由にする。そのように言われます。
とどまる
イエスさまは「真理はあなたたちを自由にする」という言葉の前に、こうおっしゃっています。31節からです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
「わたしの言葉にとどまる」ならば、「わたしの弟子である」。そうすれば「真理を知る」ことになる。そして「真理はあなたたちを自由にする」。そういう順序です。
そうすると「わたしの言葉にとどまる」、イエスさまの言葉にとどまることから始まっていることが分かります。「とどまる」というところがたいせつになってきます。そうするとこの「とどまる」という言葉もまたヨハネ福音書では何度も出てきて、ヨハネ福音書では「真理」とともに一つのキーワードになっています。「真理」「とどまる」という言葉が繰り返し出てきます。それでもうすでに説明しているのですが、この「とどまる」という言葉は、「泊まる」とも訳され、さらに「つながる」とも訳されています。
そうしますと、「わたしの言葉にとどまる」というのは、イエスさまの言葉にしっかりとつながるということであり、またイエスさまの言葉に泊まる、宿泊するというふうにも言える。言葉を変えて言えば、「イエスさまの御言葉の中に住む」というふうにも言えるでしょう。
10月31日は、世間ではハロウィンですが、プロテスタント教会にとっては宗教改革記念日でした。ルターやカルヴァンらの宗教改革者は、御言葉の権威を取り戻しました。その御言葉というのは、もちろん聖書と、聖書に基づいて正しく語られる説教です。そしてもう一つ、「見える御言葉」と呼ばれるものがあります。それが聖礼典、すなわち洗礼と聖餐です。それらは儀式として見える形で行われるため、見える御言葉と呼ばれます。本日もこのあと聖餐式があります。
先週私は、教団総会に出席してまいりました。そして教団総会の二日目の朝は、聖餐礼拝が行われました。司式者は、岡山の蕃山町教会の牧師、服部先生でした。服部先生が説教の中で、初代教会の聖餐式について語られました。ローマ帝国による迫害の時代、キリスト教徒は人肉を食べているとのウワサが広がりました。当時の礼拝は信徒の家で持たれていたのですが、聖餐式になると「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26:26)というキリストの言葉が朗読される。また、「これはわたしの血である」という言葉が告げられ、それが外に漏れ聞こえてくる。そうすると、「キリスト教徒は人肉を食べている」との誤解となっていったわけです。
そして服部先生はこんなエピソードを話されました。教会に、ある人が大学生の友人を連れて来た。するとたまたまその日の礼拝では聖餐式が行われたそうです。するとパンを配る時になって「これは、私たちのために裂かれた主イエス・キリストの体です」と牧師が告げる。するとその学生は友人に「あれは人の肉ですか?」と尋ねたそうです。もちろん、実際にキリストの肉であるわけではないと説明したそうですが、あとで「なんか不気味」と言ったそうです。
たしかに最後の晩餐で、イエスさまはパンを配り、それがご自分の体であり、取って食べよと言われ、杯のぶどう酒について、これは罪が赦されるために流されるわたしの血であると言って飲むように言われました。もちろんそれはパンであり、ぶどう酒であるわけですが、それをご自分の体と血になぞらえられたのは、単に気持ちの問題としてキリストにつながるというのではなく、キリストとしっかりつながる、一体となる、そういうことを表しています。そうしてキリスト・イエスさまの御言葉の中に生きる。
そうすると、イエスさまの言葉にとどまり、その中に生き、イエスさまにしっかりとつながっているならば、「真理」を知ることになる。自分で頭の中で考えて真理を探究するというのではありません。イエスさまにつながることによって自然に分かる真理です。そして、その真理が私たちを自由にする。そのように主イエスは言われます。
反発
さて、「真理はあなたたちを自由にする」というイエスさまの言葉に対して、人々が反発したことが書かれています。しかしその人々というのは、冒頭にありますように「ご自分を信じたユダヤ人たち」です。この場合の「信じた」というのは、きょうの箇所の前の所までのイエスさまのお話しを聞いて信じたということであって、まだイエスさまの弟子となっていない人々です。言わば、入り口に立っている人たちです。それでイエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」といわれました。
しかしイエスさまが「真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃって、彼らは、自分たちがアブラハムの子孫であって、奴隷になったことはないと答えました。先祖がアブラハムであり、そのアブラハムは神によって選ばれた人である。だから既に救われているのであると考えている。
それに対してイエスさまは、あなたがたは「罪の奴隷」であるとおっしゃいました。罪の奴隷とは、罪を犯さずにはいられないということです。神にそむかずにはいられないということです。そしてさらに、38節の言葉をおっしゃいました。ここはふしぎな言葉に読めます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
なにか、「見たこと」と「聞いたこと」が対立しているように聞こえます。何かよく分かりません。実は、「あなたたちは父から聞いたことを行っている」の「父」とは、神さまのことではないのです。このあとのほうの44節を読むと分かります。彼らの父とは、悪魔のことなんです。あなたがたの父は悪魔であり、あなたがたは罪の奴隷であると言われている。
しかし、これは彼らを非難したり、断罪している言葉ではありません。自分自身が実は罪の奴隷であり、悪魔に従っている者であることに気づきなさい、という招きの言葉です。「あなたたちはわたしを殺そうとしている」(37節)という言葉も、この人たちが今イエスさまを殺そうとたくらんでいる、という話ではありません。イエスさまを十字架に追いやっていくことになる、ということです。今、あなたがたはわたしを信じたというかもしれないけれども、自分自身が罪の奴隷であることに気づきなさい、悪魔を父として従っている、そういう罪人であることに気がつきなさい、という言葉です。神から遣わされたイエスを、十字架に追いやっていく。そういう罪があることに気がつきなさい、と。
実際にこれらのことに気づいたのは、イエスさまが十字架にかかって死なれ、そして復活されてからのこととなります。
キリストによる自由
本日のイエスさまの言葉を読んで、私は自分自身の歩みを思い起こさずにはおれません。静岡で高校まで育った私は、大学はできるだけ遠くの大学に行きたいと思いました。とくに厳格だった父親から遠く離れたかったというのも一つの理由でした。それで岡山に行きました。そしてこれも何度も申し上げているように、大学に行ってしばらくして教会へ通うのをやめました。神を信じなくなりました。キリストというぶどうの木から完全に離れたのです。すると私は「自由になった」と思いました。日曜日も自分の自由に過ごせると思いました。
教会に行かないから、日曜日の昼頃まで寝ていられる。しかしでは、なにを代わりにしていたかというと、前の日に夜遅くまで酒を飲み、徹夜マージャンをし、起きればパチンコに行く‥‥という具合でした。そんなことをしていたに過ぎません。それは自由と言えば自由ですが、自分を満たすものではありませんでした。それどころか、不平不満や怒りに縛られていました。
ある時は、友人の言動に腹を立てて絶交しました。しばらくして彼のほうから電話をかけてきましたが、それを冷たい言葉で切り捨てて、電話を切りました。しかしのちにイエスさまのもとにふたたび導かれて、イエスさまを信じた時、彼にあやまろうと思うようになりました。ところが彼は、病気で亡くなっていました。そのような形で、何人もの人を傷つけてきたと思います。
神を捨てた私は、罪人の頭でした。罪の奴隷でした。知らない間に悪魔の言いなりとなる、悪魔の子でした。しかしそういう者であったことは、イエスさまを信じるようになって初めて分かりました。教えていただいて感謝でした。イエスさまを十字架につけたのは、この私であるということが分かって感謝でした。なぜ自分が罪人であることを知らされて感謝かというと、そんな私のような者を救うためにイエスさまがかかられたのが十字架であるからです。
このような者でも愛してくださる。救ってくださる。その十字架と復活のイエスさまが、今日のイエスさまの言葉の背後に見えるのであります。
|