2024年10月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編51編7
    ヨハネによる福音書8章21〜30
●説 教  「現れた神」 小宮山剛牧師
 
   去っていく
 
 ヨハネによる福音書には、他の3つの福音書にはあまり見られない特徴があります。たとえば、奇跡(ヨハネ福音書では「しるし」と呼ばれる)の記録が少ない。また、その奇跡についての記録が、人々とのやりとりまで丁寧に書かれています。それから「たとえ話」と言われるものがあまり書かれていません。その代わりに、イエスさまご自身の本質に関わることが、ストレートに語られています。
 きょうの聖書箇所の冒頭では、(21節)「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とおっしゃっています。
 「わたしは去っていく」。これは、その場を去って行くということではなく、この世を去って行くということです。そう言われますと、イエスさまばかりではなく、みんなこの世を去って行く、つまり死んでいくではないかと思います。しかしここではそのように皆死ぬという意味でおっしゃっているのではなさそうです。つまり「去り方」に注目させているように読めます。どのようにして去っていくのか、ということです。
 26節に「わたしをお遣わしになった方」という言い方が出てきます。これは答を言ってしまうと、父なる神さまのことを指しています。天の父なる神さまの元から来られたイエスさまが、去っていく。去って行くということは、この世に来られたわけです。去っていくならば、いったい何のためにこの世に来られたのか?ということが問題となります。つまり、イエスさまは何のためにこの世に来られて、どうやって去って行かれるのか。そのことが語られているのがきょうの聖書箇所です。それはまた、私たちは何のために生まれ、どこへ行くのかということも考えさせます。
 
   自分の罪のうちに死ぬ
 
 きょうの聖書箇所では、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が3回出てきます。3回出てくるということは、やはり強調されていると言えます。この言葉は、裁きの言葉ではないでしょうか?この世の人間に対する断罪の言葉ではないでしょうか?‥‥この前の聖書箇所、15節でイエスさまは「わたしは誰をも裁かない」とおっしゃったではありませんか。それはどうなったのでしょうか? イエスさまは、私たち人間を裁くためではなく、救うために来られたのではなかったのではないでしょうか?
 「あなたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。しかしこの言葉は、私たちに対する裁きの言葉ではありません。そのままでは、「自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉です。今のままでは罪のうちに死ぬことになるという、人々の自覚を促す言葉です。このままでは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる、そのことに気づきなさい。そういう言葉です。そしてイエスさまは、そういう私たちを救うためにこの世に来られた。それがイエスさまが来られた目的であったことが見えてきます。
 たとえば、私たち人間が海で溺れている。そのままでは助からない。そこに舟に乗ってイエスさまが来られて、私たちに手を差し伸べている。そういうことです。
 
   罪
 
 「あなたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。この言葉はまた、すべての人が罪人であるということを言っている言葉でもあります。だからそのままではみな「自分の罪のうちに死ぬ」。
 しかしこの言葉をここで聞いている人々は、それを理解することができませんでした。自分が罪人であるとは思っていなかったんです。なぜなら、彼らは「罪」というものは律法、つまり神の戒律に違反することであると考えていたからです。それはユダヤ人だけではなく、日本人も同じように考える人が多いでしょう。罪というのは法律に違反することであると。私は以前言われたことがあります。「キリスト教はすぐに人を罪人扱いするから嫌いだ」と。しかしこれは、私たちも主を知る前は、同じように思っていたのではないでしょうか。多くの人は、自分が罪人であるということなど、全然思っていなかったと思います。
 しかしイエスさまは、「あなたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われます。みな罪人であるから、その罪のうちに死ぬことになる。だから、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とおっしゃいました。この言葉を聞いて、その場にいるファリサイ派の人々は、「自殺でもするつもりか」と言いました。これはイエスさまの言うことを、あざ笑っている言葉です。
 なぜ彼らはイエスさまの言葉を聞いて「自殺でもするつもりか」と言ったのでしょうか?‥‥それは彼らファリサイ派の人々は、自分たちは罪人ではないから天国へ行くと思っていたからです。しかしイエスさまは「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言った。ということは、イエスは地獄に行くのだと彼らは考えたのです。なぜなら、自殺は大きな罪であり、それゆえ自殺をする者は地獄に行くと考えていたからです。イエスが自分たちとは違うところに行くということは、イエスは地獄に行くのだと、あざ笑ったのです。
 そのように、彼らは自分たちは罪人ではないと思っていました。罪というものを、律法に違反したかどうかということで見ていた。たいへん軽いですね。マニュアル人間です。マニュアル通り生きていればよいという考え方です。しかし人間の罪というものは、そのようなものではありません。
 このヨハネ福音書8章の最初の所では、姦通の現場で捕らえられた女性の話が出てきました。神殿の境内でイエスさまが人々に教えておられた時、律法学者やファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえた女性を連れてきて、真ん中に立たせました。そしてイエスさまに言いました。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか?」。これはイエスさまを捕らえる口実を作るための質問でした。するとイエスさまは、かがみ込んでしばらく地面に何かを書き続けられ、なおも訴える人々に向かっておっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」。すると人々は、年長者から始まって、一人また一人とその場を立ち去っていき、ついには誰も石を投げる者はいなくなりました。
 この出来事。この時イエスさまがおっしゃった「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が」の「罪」とは、もちろん直接律法に違反したという意味ではありません。イエスさまの言葉を聞いた時、その人々は、「本当に自分には罪がないと言えるのか?」と自分自身に問うたことでしょう。「自分には、この女に石を投げる資格があるのか?」と。そういう意味での罪です。そのとき彼らは、自分の罪というものを自覚したのです。
 ウィリアム・バークレーという聖書学者が、本の中で、こういう話を紹介しています。ある老人が死を前にして非常に苦しんでいる様子だった。それで最後にその理由を聞くと、こう答えたそうです。「私がまだ子供の頃、ある日、友だちと遊んでいて、十字路に立っている道路標識を逆にして間違った方向を指し示すようにしたことがあった。あれ以来、自分のしたことでどれだけ多くの人々が道に迷っただろうかと、いつもそのことが頭を離れない」と言ったそうです。(バークレー、『信仰のことば辞典』)
 その人のしたことは法律上の罪には問われないかもしれない。ましてや子供の時にふざけてしたことです。しかしそのが高齢になって、死ぬ前にもその人を苦しめるものだった。すなわち、罪であったのです。罪というものはそういうものです。
 誰がこのような罪を取り除くことができるのでしょうか? 私たちの罪を代わりに負ってくださるイエスさましかいません。
 
   的外れ
 
 罪ということでもう少し申し上げますと、「罪」を表すギリシャ語には5つあります。きょうの箇所の「罪」は「ハマルティア」という言葉になっています。これはもともと、「的外れ」という意味の言葉です。的外れ。的をねらって弓矢を射たけれども、的に当たらずそれてしまったということです。
 このことから、私たちが、神さまが意図して願ったとおりになっていないことを表します。それが「罪」です。神さまは愛をもって私たちを造られた。ところが、その私たちが神さまの願ったとおりになっていないのです。それが的外れであり、罪というものです。私も的外れな者でした。だから私も石を投げる資格がありません。ただ、その罪を代わりに負って下さるイエス・キリストを指し示すだけです。
 
   私はある
 
 24節で「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃっています。きょうの聖書箇所では、「わたしはある」という言葉が2回出てきています。
 「わたしはある」という言い方は、ちょっと不自由な日本語ですね。「わたしはいる」とか、西日本でしたら「わたしはおる」というのなら分かります。しかし「わたしはある」というのは、日本語としては不自由な印象です。しかしこれはわざとそう訳しているんです。というのは、ユダヤ人にとっては「わたしはある」という言葉は、神さまの名前を指すものともなるからです。
 それは、旧約聖書の出エジプト記の3章です。羊を飼っていたモーセに、ある日、神が語りかけました。そして、エジプトで奴隷とされているイスラエルの民を導き出す使命をお与えになりました。そのときモーセは、神の名を尋ねました。すると神は次のように答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。つまり、「存在」ということです。主である神こそが、唯一、永遠で在り無限の存在であるということです。まさに圧倒されるような名前です。ですからイエスさまが、「わたしはある」と言われた時、その神の名前を語られたのだと気がついた人もいたことでしょう。
 しかしこのイエスさまがおっしゃった「わたしはある」という言葉は、単に「わたしだ」と訳すこともできます。
 たとえば、6章ではイエスさまがガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗っている舟に近づいて来られたという出来事がありました。真夜中、弟子たちの乗っている舟が強風で悩まされていました。そこにイエスさまが、湖の上を歩いて近づいて来られたので、弟子たちは恐れおののきました。するとイエスさまはおっしゃいました。「わたしだ。恐れることはない。」‥‥この「わたしだ」が、きょうの「わたしはある」と同じ言葉になっています。
 「わたしだ」「わたしはある」わたしがここにいる。恐れることはないのだと。
 
   上げられる
 
 また、28節ではこのようにおっしゃっています。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」
 「人の子を上げた時に」の「上げた」は、十字架のことを指しています。人の子とはイエスさまのことです。あなたたちが、人の子であるわたしを十字架に張りつけにしたときに、ということです。そのとき、イエスさまが誰であるかということが分かる。その予告です。それは今は分からないかもしれない、ということでもあります。しかし十字架に上げたときに分かる。
 ここに、今日の説教の最初に、イエスさまが何のためにこの世に来て、どのようにして去っていくのか?の答えが暗示されています。すなわち、的外れで罪の中で死ぬことになる私たちの所に来られたイエスさま。それは私たちを救うためであった。それが十字架です。この世の強風、嵐の中でこぎ悩んでいる私たちの舟に、誰も近づいてくることのできない湖の上を歩いて近づいてくることのできる方。そして「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃられるイエスさま。
 「わたしだ」「わたしはある」‥‥主が共におられるのなら、他に何が必要でしょうか。何もいらないほどです。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われたイエスさまの言葉は、「あなたはもっと生き生きと感謝と喜びのうちに生きる者として造られたのではなかったか」と私たちに語りかける言葉にも聞こえます。「あなたは、いつも神を喜んで、そしていつも感謝して生きることができるはずではなかったか」と。そして私たちに手を差し伸べてくださる。その手をつかむ者でありたいと思います。


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