2024年9月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編90編8
ヨハネによる福音書8章1〜11
●説教 「石のゆくえ」小宮山剛牧師
能登豪雨災害
一週間前に、輪島市を初めとした奥能登地方を豪雨が襲いました。今年の元日に発生した能登半島地震。その地震は、千年に一度という、大規模な地盤の隆起を伴う大地震でした。そしてその約9か月後、今度は千年に一度という豪雨に襲われました。大規模な被害が発生し、いまだに行方不明の方がいます。震災からの復興が振り出しに戻ったような状況です。
テレビの報道の中で、地元の人が「なぜわたしたちがこのような目に遭わなければならないのか?」ということをおっしゃっていました。この問いに答えることは、たいへん難しいことです。しかし私たちの神さま、主は、悲しむ者の慰め主であり、苦しむ者の助け主であることはまちがいありません。ですから、これらの大災害の中にある被災地の人々を、私たちの主が憐れんでくださっていることを私たちは確信することができます。
ヨハネによる福音書の8章12節でイエスさまはおっしゃっています。「わたしは世の光である」。輪島教会が、あの小さな小さな教会が、その暗闇を照らす光として用いられることを祈りたいと思います。
仕掛けられたワナ
本日のヨハネによる福音書の箇所に入ります。聖書を読んでいて、ここで目につくのは、前回の最後の箇所である7章53節の前から、きょうの聖書箇所である8章11節の末尾までが〔 〕でくくられているということです。ということで、この〔 〕はなんぞや?ということを最初に解説しておかなければならないでしょう。
なぜこの部分が〔 〕でくくられているかと申しますと、この部分が聖書の古い写本には無いということなどが理由です。それでこの部分は、もともとヨハネによる福音書が書かれた時には無かったのではないかと、多くの学者が考えているのです。しかし、ではこの〔 〕でくくられた部分は事実では無いことを誰かが創作したのか?といえば、そうではない。多くの学者は、これは実際にあった出来事であると考えています。それで、伝承として伝えられ来たこの部分を、ヨハネによる福音書の中に入れたのではないかと言われています。そういうことですので、この部分が実際にあったかどうか怪しい、ということではないということを、最初に申し上げておきたいと思います。それどころか、この個所は「罪と救い」について非常にたいせつなことを教えてくれています。
ここに記録されている出来事は、一読しただけでも共感できる美しいエピソードであると、多くの人が思うことでしょう。姦淫の罪を犯したひとりの女性が、皆から石を投げつけられるという死刑にされるところを、イエスさまの言葉によって救われたという出来事。「ああ、よかったな」と多くの人が思う。しかし、これはドラマ的に美しい話だからここに書かれているのでしょうか?‥‥実はそういうことではないのです。まずこの出来事を振り返ってみたいと思います。
仮庵祭が終わりましたが、イエスさまはふたたびエルサレムの神殿の境内で人々を教えておられました。するとそこに、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来て真ん中に立たせました。そしてイエスさまに言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
彼らは、純粋にイエスさまに質問したくてこう言ったのではありません。イエスさまを試みて、訴える口実を作るためにこう言ったのでした。
姦淫、今日で言うところの不倫にだいたい該当しますが、そのようなことをおこなった者は、皆から石を投げつけられて殺される、つまり石打の刑に処せられることとなっていました。旧約聖書の申命記22章などに定められている律法です。彼らはイエスさまを訴える口実を作るために、この女性を連れて来たというのですが、いったいどういうワナにはめようとしたのでしょうか?
まず、イエスさまが、石打の刑をやめよとおっしゃったとしたらどうなるか?‥‥それはイエスさまが公然とモーセの律法に違反することを言ったということになります。神の掟に反することをイエスさまが言ったということになり、人々はイエスさまを非難することになるでしょう。
逆に、律法通り石で打てとおっしゃったらどうなるか?‥‥そうすると、これまでイエスさまは罪の赦しを語ってきたのに、ここでは違うことを言ったことになり、多くの人々を失望させる結果となるでしょう。そうすると、どちらにしても、民衆をイエスさま引き離すことができる。そのように計算したのだと思います。「あなたはどうお考えになりますか?」という彼らの問いは、そういうワナであったのです。そしてこの女性の運命はいかに?‥‥と、手に汗握るような展開です。
石のゆくえ
さて、イエスさまはどうお答えになったのか?‥‥皆が注目いたします。するとイエスさまは、かがみ込んで、指で地面に何かを書き始められた。黙って何かを書き始められた。これはいったいどういうことでしょうか?
イエスさまは何を書き始められたのか? 文字なのか? それともなにかの絵を描かれたのか?‥‥気になります。私たちもイエスさまが何を書かれたのかと、その指先に注目いたします。のぞき込んで見たくなります。おそらくこのとき周りにいた人々もそうだったでしょう。ここに一つの答えがあります。それまで、この場にいた人々の視線はどこに向けられていたでしょうか?‥‥姦通の現場で捕らえられた女性に目が向けられていました。姦通の現場で捕らえられたのですから、あられもない格好をしていたかもしれません。みな好奇の目でその女性を見ていたことでしょう。しかし、イエスさまがかがみ込んで地面に指で何かを書き始められた時、皆の視線は、その女性からイエスさまの指先にと移ったことでしょう。そのことによって、彼女に向けられていた好奇の目から、視線をそらさせたと言えます。ここにイエスさまの配慮が感じられます。
もう一つは、イエスさまは、地面に指で何かを書きながら、考えていたのかもしれないと思うのです。私もときどき、考え事をしながら手に持った鉛筆で何かの線や絵を無意識のうちに書いているということがあります。女性を捕らえて、イエスさまに問い続ける人々。この人たちに、なんと答えれば分かってくれるだろうかと、考えておられたのかもしれないなあ、と思ったりします。
さて、そうして、ようやくイエスさまは身を起こして言葉をおっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまたかがみ込んで、地面に何かを書き続けられた。今度のイエスさまの沈黙は、彼らに自分で考える時間を与えるためだったでしょう。すると彼ら訴える者たちは、年長者から始まって一人また一人と立ち去っていき、ついには女とイエスさまだけが残されたという。
「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が」とイエスさまはおっしゃいました。そして年長者から、だんだん去っていったと。「年長者から」。人生、長く生きていますと、さまざまな失敗や過ちを犯します。あるいは、若い頃はそれが間違いだと気づかなかったことも、歳を重ねていくと、「ああ、若気の至りで、過ちを犯してしまった」というふうに気がつくということがあります。そういうことを思い起こしたのでしょう。そして、それ以上その女性とイエスさまを追求することができなくなり、去っていった。年長者がその場を立ち去ったことによって、その年下の者たちも、感化されたといいますか、自分にも思い当たることがあったと気がつく。そして皆去っていった。
罪と罰
そして残された女性に向かって、イエスさまはおっしゃいました。「私もあなたを罪に定めない」。ここは口語訳聖書では、「私もあなたを罰しない」と訳しています。
ポイントはここです。みんながあなたに向かって石を投げなかった。だから私もあなたを罰しない‥‥ということではないのです。みんな実は何かしら罪を犯しているのだから、お互い様だから、もういいよ、ということではないのです。
考えてみると分かることですが、皆が罰しなかったということは、罪が赦された、ということとは違います。単にみんながこの人を罰することができなかった、ということであって、罪が消えてなくなったのではありません。この人の罪は残るんです。罰せられなかったから、逆に罪は残る。しかし逆に、罰せられたら罪は消える。
このことで思い出すことがあります。もう亡くなりましたが、根津教会の牧師を務めておられた鍋谷憲一先生の『もしキリストがサラリーマンだったら』という本に書かれていたことです。鍋谷先生は牧師になる前は、商社マンだったのですが、初めての海外勤務はサウジアラビアだったそうです。イスラム教の戒律の厳しい国です。駐在生活をしていて驚いたことがたくさんあったそうですが、その一つが、指のない男がやたら目立つということだったそうです。小指の第一関節から下だけがない人もいれば、小指と薬指が二本ともまるまるない人もいる。取引先の番頭格の人がそうだったので、先生が「どうしたの?」と質問すると、彼は「いやあ、これは子供の頃に小さな盗みを働いてしまったからさ」と答えたそうです。指を使って盗みをしたから、指を切り落とす刑罰を受けたわけです。実にアッケラカンとしている。彼等は、罰を受けたら罪は完全に消えたと考える。「彼は盗みを働いたのだから、またやるかも知れない」とは考えないのだそうです。
私はこれを読んで、「なるほど、律法主義というのはそういうことか」と思いました。ファリサイ派の人たちも律法主義でした。当時のユダヤ教も律法主義。だから、罪に対して罰が与えられたら、もうその罪は赦されて消えたと考える。
そうすると、きょうの聖書に戻りますと、姦通の現場で捕らえられたこの彼女は、結局、罰を受けなかった。つまり罰が与えれなかったので、罪が残ることになります。このままだと、彼女は一生罪を負って生きなければならない。かといって、罰を受けるとすれば、ユダヤ人の律法では石打の死刑です。つまり殺される。どうにもなりません。どっちにしても、このままでは救いがない。
キリストの赦し
しかしこの時、イエスさまが「わたしもあなたを罪に定めない(罰しない/口語)」とおっしゃった。他のみんながあなたを罰しなかったから、私も罰しないことにする、ということではないのです。この世で唯一、人の罪を赦すことのできる方として、「あなたを罪に定めない」と言われたのです。イエスさまは罪を犯したことがない唯一の方です。神の子だからです。そのイエスさまが「私もあなたを罰しない」と言われた時、それは言い換えれば「あなたの罪は私が代わりに負った。あなたの罪に対する罰は、代わりに私が受ける」ということです。「あなたの罪は代わりに私が受ける」、そうして十字架へ向かって行かれる。それが十字架による罪の赦しです。イエスさまの犠牲です。愛です。
私たちはみな、誰でも罪を負っています。それはもちろん、法律的な意味ではありません。そのことで、以前にもご紹介しましたが、ノンフィクションライターの最相葉月さんが編集した『証し』という本の最初に出てくる方の証しをもう一度振り返ってみたいと思います。
ある年輩の女性の証しです。その方が10歳の時のある日、生後3か月の弟をおんぶし、両手には6歳と3歳の弟と手をつないで海辺に遊びに行きました。海辺に行くと両親が働いている様子が見える。しばらくして帰ろうと思ったら、6歳の弟が、両親を見ていたいのでもう少しここにいるという。6歳だから一人で帰れるだろうと思って、そこに置いて家に帰りました。ところが、その後、弟が海ですべって頭を打って死んでしまった。そういう悲劇を経験しました。お母さんは、「お前のせいじゃない。神さまが命を取ったんだから気にするな」と言ったそうです。その神さまとはキリスト教の神さまのことではありませんが。そのことが彼女の心にずーっと引っかかっていました。その彼女が、やがてラジオのキリスト教の番組を聞くようになる。内容は難しくてよく分からなかったけれども、ある日「罪」という言葉が出てきたそうです。それで飛びついた。ずーっと引っかかっていたあの事件のことを思った。そして、ああ、これが私の罪なんだと思った。「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ、われ汝を休ません」(マタイ11:28)という言葉も聞いた。3回ぐらい聴いたそうです。そうして彼女はやがて、大阪に出てから、救世軍の教会に行き、伝道者となりました。
10代の少女が罪に苦しみ、ラジオを通してキリストに出会って救われる。たしかに、弟が死んだことは10歳の少女にとって、何の罪もないと言えるかも知れません。しかし彼女自身には、それが重くのしかかっていたのです。人の罪というのは、その本人でなければ分からないものがあると思います。その罪は消えないのです。罰せられないからこそ、逆に消えない。
しかしイエスさまだけは、それをご存じの上で、その罪を代わりに負って下さる。そして十字架にもっていってくださる。「私もあなたを罰しない」。その罰はイエスさまが代わりに受けて下さったのです。だから罪は消えたのです。そこに救いがあります。
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