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2024年9月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記上13章13〜14
ヨハネによる福音書7章45〜53
●説教 「権威なき権威」 小宮山 剛牧師
讃美歌第二編157番
ただいま歌いました讃美歌第二編の157番。この曲は、一般には「ロンドンデリー」と呼ばれ、広く知られています。このメロディーはアイルランド民謡であり、様々な人がいろいろな歌詞をつけてきました。『讃美歌第二編』の歌詞は、1955年に聖公会の松平惟太郎という司祭が作詞したものとなっています。
この歌詞ですが、1節の「いざないしげきときも」というのは、口語に直すと「誘惑がしばしばあるときも」ということですね。そのように、信仰の試練がある時も、神の御前に集い、祈るならば、悩みも去り憂いも消えていく。さあ、共に主をたたえて歌おう、恵み深い主の御名を、と歌っています。
また2節の「一つの望み」のは、キリスト・イエスさまが与える望みのことです。その望みに生きる私たちが共に集うことによって、天から来る喜びがあふれる。そのように、礼拝に集い、一人なる神さま、一人なるキリストの前で賛美を歌うことの恵みを歌っています。たいへん味わい深いものがあります。
今まで、あの人のように話した人はいません
さて、本日のヨハネによる福音書ですが、きょうの聖書箇所にはイエスさまが登場いたしません。そのかわりに、イエスさまを巡る、人々の会話が記されています。
最初に、イエスさまを捕らえに行った下役たちが戻ってきたところから始まっています。下役たちは、イエスさまを捕らえずに戻ってきました。それで下役たちを遣わした祭司長たちやファリサイ派の人たちが言いました。「どうしてあの男を連れてこなかったのか?」と。「あの男」というのはイエスさまのことです。下役というのは、役人です。役人というのは、上役の言うとおりにするものです。その役人が、上役の命令通りにしなかったことになります。これは勇気のいることです。上司が命令したのに、部下がその通りにしなかった。クビになってもいいような案件です。なぜ下役たちは、命令通りイエスさまを逮捕しなかったのか?
彼らは答えています。「今まで、あの人のように話した人はいません」。「あの人」というのはイエスさまのことです。これまでイエスさまのように話した人はいない。それはどういう意味でしょうか?‥‥聖書についての学問的知識が、誰よりもまさっていたということでしょうか? それとも、説得力ある雄弁な話し方だったということでしょうか?‥‥そういうことではなかったと思います。ではどういうことか。たとえば次のような聖書箇所が参考になります。
(マタイ7:28〜29)"イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。"
律法学者の多くはファリサイ派でした。イエスさまは、それらの人々のようにではなく、「権威ある者として」としてお教えになったと書かれています。この場合の権威とは人間社会の権威ではありません。人間社会の権威ならば、ファリサイ派や律法学者、祭司長たちのほうがあるからです。ですから、人々がイエスさまに権威を感じたというのは、人間の権威ではないことがわかります。
もう一箇所マタイ福音書から引用してみます。それは人々が、イエスさまの所に中風で寝たきりの人を運んできた時のことです。イエスさまが彼に向かって罪の赦しを宣言されました。すると、その場にいた律法学者の中に、イエスさまは神を冒涜していると思う人たちがいました。なぜそう思ったかと言えば、罪をゆるすことができるのは神さまだけだからです。それをイエスさまがするとは何ごとか、神を冒涜している、と思ったのです。その彼らの思いをイエスさまは見抜かれました。そしておっしゃいました。
(マタイ9:6〜8)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。するとその人は起き上がり、家に帰って行ったのです。それを見て人々は驚き、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した、と書かれています。そこに神がおられることを感じたのです。イエスさまの権威とは、そういう権威です。すなわち、神の権威、神の与えた権威です。
きょうの箇所に戻りますと、下役たちが言った「今まで、あの人のように話した人はいません」という言葉は、そのような神の権威をイエスさまの言葉の中に見たということです。あの人のように、神を身近に感じるように話した人はいません、と。
これは、彼らの上役である祭司長、ファリサイ派の律法学者に対する痛烈な批判にもなっています。ファリサイ派の人たちは、律法と呼ばれる戒律を教えるばかり。神の戒律だと言って、それを教えている。彼ら下役たちも、ファリサイ派の人たちの教えを聞いてきたことでしょう。しかしそれは知識として教わるだけだったでしょう。しかし、イエスさまのお話しを聞いた時に、それは神さまについての単なる知識ではない。生きておられる神さまが見えてくる。前回イエスさまがおっしゃった「生きた水」です。それは、ファリサイ派の人たちが、どうやって井戸を掘れば水が湧き出るのかということ学問的に教えるのだとすれば、イエスさまは実際に水を飲ませてくるような‥‥そういうものであったに違いありません。そのように言えるのは、私が経験したこともそうであったからです。
聖書の初めの創世記の最初、天地創造の時、神さまが「光あれ」と言われると、光ができた。そういう言葉の力、実際に出来事が起きるような言葉、それをイエスさまに見たのだと思います。
権威なき権威
祭司長たちとファリサイ派の人たちというのは、先ほど申し上げましたように、ユダヤ人議会(最高法院)の構成メンバーです。ユダヤは、このころローマ帝国の支配下にありましたが、その中にあって、宗教上のことはユダヤ人に任せられていました。それでユダヤ人議会は、ユダヤ人の中では最も権威ある所でした。祭司長たちは、神殿の礼拝や祭りを取り仕切る人たちであり、いっぽうファリサイ派は一般庶民に神の掟を教える人たちで、この両者は対立することも多かったのです。その、仲のよくない祭司長たちとファリサイ派の人たちが、イエスさまを抹殺するということで手を組んでいる。イエスさまを取り除くという点で利害が一致しているわけです。
彼らは、自分たちに権威があると思っていました。権威と権力があるから、イエスさまを抹殺することができると思っていました。彼らは名誉ある議会の議員であり、宗教者であり、人々を教える立場の人たちでした。ですから、自分たちが権威であると思っていました。そういう高慢な思いがありました。それで、自分たちの権威を振りかざしています。それが彼らの放った次の言葉です。「律法を知らないこの群衆は呪われている。」
自分たちこそが律法をしている。聖書のことを知っている。自分たちこそが専門家だと思っていました。その高慢から出た言葉これです。民衆を下に見ているのです。
なるほど、この世における専門家というのはたいしたものです。一般の人が知らないことを専門家は知っています。しかし、こと信仰の世界ではどうでしょうか? いくら聖書や律法の知識があったとしても、神さまが共におられないのであるならば、それはなんにもなりません。イエスさまが神から来られた方であることが分からなければ、なんのための聖書の知識であるのか分かりません。その点でいえば、下役たちのほうがずっと神に近いといわなければなりません。
ニコデモ
するとそこにニコデモが登場いたします。ヨハネによる福音書の3章で登場して以来、久しぶりの登場です。あのときニコデモは、イエスさまに教えを乞いに行きました。彼はイエスさまに、「神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、誰もできません」と言いました。彼もファリサイ派であり議会の議員でしたが、彼には偏見がありませんでした。ものごとを公平に見ることができる人でした。
その彼が、同僚のファリサイ派の人たちに向かって言いました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」‥‥君たちは律法を根拠にしてイエスを死刑にしようとしているが、その我々の律法によれば、本人から事情をくわしく聞くことになっているではないかと言いました。これは他でもない、旧約聖書の申命記1:16などに、ちゃんと書かれていることです。
すると彼らは、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と答えました。これはニコデモの指摘に対して、ちゃんと答えていません。ニコデモは律法を根拠に言ったのに、彼らは話をそらせて、預言者はガリラヤから出ていないと答えたのです。旧約聖書に登場する預言者には、ガリラヤから出た人はいないと。これはまともな答ではありません。私は静岡県榛原郡金谷町の出身ですが、他に金谷の町から牧師になった人がいるのがどうか知りませんが、牧師にしても預言者にしても、神さまが呼び出すわけですから、今までどうだったかなどということは関係ないはずです。つまり、彼らには正当な理由もなく、ただイエスさま憎しで処罰しようとしていることが明らかとなっています。その根底には罪があります。とにかくイエスさまを取り除こうとしている。そのために、自分たちの権威を振りかざしているというのが実態です。
本当の権威とは神の権威
考えてみれば、本当の権威とはなんでしょうか? 偉い人に権威があるのでしょうか? たとえば独裁者に権威があるでしょうか?‥‥たしかに独裁国家の独裁者は、国民を意のままに死刑にする権力があります。しかしそれらの独裁者も、いずれ自分にも死が訪れることを知らなければなりません。どうすることもできないのです。
宗教的権威はどうでしょうか? きょうのファリサイ派や祭司長たちは、神さまを背景にして権威を振りかざしています。しかしその神さまが、彼らと共にいないとしたらどうでしょうか? それはまったく権威なき権威、張り子の虎としか言いようがありません。そうすると、人間の権威は本当の権威ではなく、神さまが良しされるのが本当の権威であるということができます。
私は、以前経験したことを思い出します。私が輪島教会にいたときに、能登圏の大伝道集会の講師として、青山学院院長の深町正信先生をお招きしました。羽咋教会、七尾教会、輪島教会の3つの教会で毎日伝道集会を持ってもらうのです。輪島教会では日曜日の礼拝で説教をしていただきました。そして、その日のうちに深町先生は東京へ帰ることになっていました。輪島教会での伝道礼拝が終わり、先生を囲んで愛餐会を行い、私が運転する車で先生を富山空港まで送りに行きました。私の家族も一緒にいきました。その日はあいにくの悪天候でした。富山市が近づいても雨は降り続け、雲は低くたれ込んでいました。私はちょっと心配になりました。富山空港は天候が悪いと飛行機が飛ばないことがある、と聞いていたからです。
空港に着くともう夕方になっていましたが、案の定、当日のその時までの飛行機はすべて欠航したとの表示が出ていました。またこれからの便も早々と欠航の表示が出ているものがありました。ただ、深町先生が乗る予定の羽田行きの便は、まだ飛行機が富山空港に来ていませんでした。羽田空港を発った飛行機が、そのまま折り返し羽田便になるのでした。しかし、その飛行機が悪天候のため遅れていて、まだ羽田を発っていませんでした。だからどうなるのかも分かりません。
私たちは仕方がないので、空港の食堂で先生と共に夕食をいただきながら飛行機の到着を待つことにしました。やがてアナウンスが空港内に流れました。飛行機が東京を発って富山空港に向かっていると。しかし着陸できるかどうかはまだ分からないというのです。飛行機というのは、着陸のほうが難しいのだそうです。もし着陸できれば、その飛行機は羽田へ行くことができるとのことでした。しかし着陸できそうもなければ、飛行機は富山空港に降りずに引き返してしまうというのです。そうなると深町先生は、その日は東京へ帰ることができなくなります。先生は、「その時はホテルにでも泊まるからいいよ」と言って下さいましたが、先生には明日の予定もあるようでした。
我々は「最後の手段」として、祈ることにしました。まず私が祈りました。「神さま、どうか東京を発った飛行機が無事にこの富山に着陸して、深町先生が帰ることができるようにして下さい」。しかし、なんだかこの祈りが聞かれるという確信がありません。困りました。そこで私は、イエスさまが幼子を愛しておられることを思い出しました。「そうだ、子どもたちに祈ってもらおう。」当時、私の子どもたちはまだ保育所に通う幼な子でした。そこで子どもたちに、「深町先生が帰ることができるように祈りなさい」と頼みました。幼な子は素直です。すぐに祈ってくれました。
そうしてまたしばらく、食堂で待っていると、「羽田行きの便が無地着陸した」とのアナウンスが流れました。私は目を丸くしました。外を見ると依然雨が降り続き、しかも雲もさっきと同じように低く垂れこめていて、何も変わったようには見えません。しかし飛行機は確かに着陸したのです。結局この日飛んだのは、後にも先にもこの1便だけでした。深町先生は、これに乗って東京へ帰って行くことができたのです。驚きでした。
私は幼な子の祈りの威力をまざまざと見せつけられたように思いました。そして神さまが、幼な子の素直で真摯な祈りを喜んで耳を傾けて下さることを知りました。そこに神さまの権威を見ました。この世の目で見れば、幼子には何の権威もありません。幼子に権威があると言えば、みんな笑うでしょう。しかし、神さまが、イエスさまがその祈りに答えられた時、それは神の権威を帯びた者となることを知りました。
私たちの主は、へりくだった者に祝福を与えてくださる方であります。
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