2024年9月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教/敬老祝福
●聖書 出エジプト記17章5〜6
ヨハネによる福音書7章37〜44
●説教 「激変の水」
敬老の日
本日は、礼拝後に敬老祝福の時を持ちます。旧約聖書の箴言16:31に、このように記されています。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」白髪は輝く冠であると。
私は小さい子どもの頃から教会に通っていました。私は、郷里を離れて大学生の時に、行った先の教会で、教会の人につまずいて教会を離れたということをすでに申し上げましたが、子どもの頃の教会の思い出といえば、だいたい良い思い出しかありません。それは、教会の人たちが優しかったという思い出です。とくにお年寄りにかわいがられました。いつもニコニコとあたたかく接してくれた。それが、いったん信仰も捨てて教会を離れた私が、教会に戻ってくることができた理由の一つかもしれません。言葉を変えて言えば、それらのお年寄りの方が、神さまによって用いられたということができると思います。
仮庵祭の最終日
本日のヨハネによる福音書、前回の続きです。エルサレムの神殿における、仮庵祭という祭りの時が舞台です。
話が飛びますが、みなさんは「マイムマイム」というフォークダンスをご存じだと思います。あのマイムマイムは、イスラエルで作られた曲と踊りなんですね。ヘブライ語では「ウシャブテム・マイム」と言うそうです。これは日本語で「あなたがたは水を汲む」という意味です。その歌詞は、イザヤ書12章3節だそうです。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」乾燥した土地が多いイスラエルでは、水は大切なものです。その喜びが表されています。
一週間にわたって行われる仮庵祭。その最終日、もっとも盛大に祝われる日。それが今日の聖書箇所です。舞台はエルサレムの神殿。仮庵祭の間、毎朝、泉が湧き出ているシロアムの池に祭司が水を汲みに行く。そこで祭司は黄金の桶で水を汲む。神殿では音楽が奏でられ、聖歌隊が先ほど紹介しましたイザヤ書12章を合唱する。祭司は神殿に戻ってきて、汲んできた水を祭壇に注ぐ。それを見て喜び歓声を上げる群衆の声‥‥。最終日にそれが最高潮に達する。そのように伝えられています。
この絵が、当時のエルサレム神殿の境内です。『イエス時代の日常生活』という本に載っているものです。神殿の建物の前にあるのが祭壇です。これは動物のいけにえを献げて焼く祭壇です。イエスさまは、この神殿の境内で人々にお話しになっています。
大声で語るイエス
多くの人々が集まっている神殿の境内。おそらく先ほど、祭司らが祭壇に水を注いだというタイミングでしょう。イエスさまは立ち上がって、再び大声で言われたと書かれています。ラビたちは、椅子に腰かけて教えを語ったそうです。イエスさまもおそらく、ここまでは椅子に腰かけてお話しになっていたのでしょう。しかしここで立ち上がって大声で教えられた。大声でとわざわざ書かれているのは、ここが大切な教えであることを示しているのでしょう。
先ほど、祭壇に水が注がれた。その水は祭壇から流れ出ている。それは神の恵みが流れ出ることを示しているけれども、それと同じことがあなたがたに起きるのだと言われたのです。あなたがたは今、喜んで見ていたけれども、それは本当の意味であなたがたに起きることなのだ。この祭りが指し示しているのはそのことなのだと、そのようにおっしゃっているのだと思います。
イエスさまは大声で言われました。(37〜38節)「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
「生きた水」については、すでにこのヨハネ福音書の4章で出てまいりました。サマリアの女にイエスさまがおっしゃっいました。きょうのところでは、よりはっきりとおっしゃっています。「渇いている人は誰でも、わたしの所に来て飲みなさい」と、渇いている者に対して招いておられます。この渇きというのは、のどが渇いたという渇きではなく、魂の渇きです。喉の渇きならば水を飲めば潤います。しかし、魂の渇きはどうしたらよいのでしょうか。イエスさまは「わたしの所に来て飲みなさい」と言われます。その「飲みなさい」というのは、続けてイエスさまが言われているように、イエスさまを信じるということです。
聖霊
「わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」‥‥すなわち、その人の渇きを満たすばかりではなく、その人から生きた水が流れ出る。水が流れ出るということは、他の人をも潤すことになるということです。その人だけにとどまらないんです。そしてヨハネはこう書いています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」‥‥それは聖霊のことであると。すなわち、イエスさまを信じることによって聖霊を受け、その聖霊がさらに他の人の渇きを癒やすようになるのだと。
先ほど、私は子供の頃教会で、特にお年寄りの良い印象を持っていたと申し上げました。それは、私が就職して体を壊して会社を辞め、挫折して戻ってきた時も同じように感じました。教会の皆さんは、あたたかく迎えてくれました。何も聞かずに迎えてくれました。そして皆が十字架のほうに向かって礼拝を献げている。イエスさま、神さまの方を向いて礼拝をしている。人間同士、面と向き合うと、何か居心地が悪い感じがします。しかし、みんな十字架の方を向いている。それが何か癒やされるように思いました。
どこから来てどこへ行くのか
きょうの聖書箇所の後半では、ふたたびイエスさまに対する評価が、人々の間で分かれたことが書かれています。イエスさまは、メシア=キリスト=救い主であるのか?そうではないのか?
そのように、メシアであるのかないのかを巡って論争が起きるということの背景には、ユダヤ人のメシア待望というものがあるのです。神さまの約束であるメシア、救い主を待ち望んでいるのがユダヤ人なのです。ユダヤ人の歴史では、歴史上何度も、にせメシアによる事件が起きました。たとえば、このイエスさまの時代のあとの西暦132年には「バルコクバの乱」という、ローマ帝国に対する反乱が起きました。これは、シメオンという人が自らをメシアであると称し、これを有名なユダヤ人のラビが支持し、ローマ帝国に対する反乱を起こしました。これは3年後にローマ帝国によって鎮圧され、58万人という多くの人が死にました。そしてローマ帝国は、エルサレムを完全に破壊し、以後エルサレムへのユダヤ人の立ち入りを禁止しました。つまり、イエスさまを信じず、逆に武力を持って戦う人物をメシアとして担いだわけです。その背景にはユダヤ人の味わった苦しみがあったのですが。
そのようにユダヤ人には、メシア待望がありました。それで、イエスはメシアか、そうではないのかという論争が人々の間に起こったのです。そして41節42節に書かれているように、メシアはガリラヤからは出ない、ベツレヘムの町から出るはずだと言う人々がいました。これには根拠がありまして、旧約聖書のミカ書5:1に書かれていることから、メシアはベツレヘムの町から出ると言われていたのです。このことで思い出す方もおられると思いますが、マタイによる福音書の2章に書かれている、イエスさまの誕生の時のできごとです。東の国からやってきた博士たち。彼らは救い主の誕生を、星によって知り、エルサレムのヘロデ王の所に訪ねて来ました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか?」と。するとヘロデ王は、祭司や律法学者に問い、彼らはミカ書を引用して、それはベツレヘムですと答えています。そして博士たちは実際にベツレヘムに行き、そこでお生まれになったイエスさまにお目にかかっています。また、ルカによる福音書でも、イエスさまがエツレヘムの馬小屋でお生まれになったことを記録しています。
しかしこの人たちは、イエスさまがベツレヘムでお生まれになったことを知りません。だったら、イエスさまご自身が、「いやいや、わたしはベツレヘムで生まれたのだよ」とおっしゃればいいではないかと思いますが、これについては何もおっしゃっていません。なぜでしょう?
イエスさまは、そのような議論をなさらない。そのような議論によって、イエスさまが救い主であるかどうかが分かるのではないということでしょう。イエスさまは、すでに前回の29節で「わたしはその方のもとから来た」とおっしゃっています。「その方」というのが天の父なる神であることは、神を信じる人であれば分かるはずです。すなわち、イエスさまは天の父なる神さまから遣わされてきた。神が遣わされたということを、信じるのかどうか、そういう問題なのです。
どこからではなく、どこへ
イエスさまに反対する人たちは、いえすさまが「どこから」出た者であるかということを問題にしました。「ガリラヤのような田舎から出るはずがない。」「ミカ書にあるように、ダビデの町ベツレヘムから出るはずだ。」というようにです。
私たちも、初対面の人との会話で、どこの出身であるかということを聞いたり聞かれたりします。私などは生まれたのは東京ですが、幼くして静岡に引っ越し、そこで育ったので東京の記憶はありません。ですから、東京であるとも言えるけれども、自分では静岡出身だと思っている。イエスさまと同じですね。
初対面の人とのそのような会話はあいさつ代わりですが、国会議員の選挙や、ただ今行われている政党の代表者の選挙などでは、どこの生まれで、どこの大学を出たかというようなことが必ず書かれています。そうして人物を評価する参考にする。
しかしどうでしょうか。「どこから」ということなど、本当はどうでもよいことなのではないでしょうか。「どこから」ではなく、「どこへ」ということの方が、比べものにならないほど大切なことのはずです。国会議員でいえば、国民をどこに連れて行こうとしているのか、ということです。
ユダヤ人の仮庵祭というのは、昔モーセの時代、人々が荒れ野で旅をしていたときのことを記憶するために、神さまが定めた祭りです。荒れ野は砂漠と同じような場所であり、人も住んでいなければ水も食料もないところです。ですから家はありません。木の枝や布を用いて、仮の家、すなわち仮庵を作って移動していったのです。それは同時に、荒れ野での神の恵みを記憶することでもありました。きょう読みました旧約聖書の出エジプト記17章の所は、神さまが岩から水を出してくださるという箇所です。殺伐とした乾燥地の岩から水が出るはずがない。しかし神さまは、モーセの叫びを聞かれて、岩から水を出して、人々の渇きを癒やしてくださいました。そういう出来事です。そのように、神さまによって養われ、守られて、荒れ野の中を旅して行きました。
どこに向かって旅を続けたのか?‥‥ちゃんと目的地があったのです。それが「約束の地」です。約束の地に向かっている。そして神さまが守って、導いてくださっている。だから人々は、荒れ野の旅を続けることができたのです。そのことを記念し、神を賛美するのが仮庵祭です。
私たちの人生の旅はどうでしょうか。私たちのこの世の人生も、仮庵です。永久の住み家ではありません。この世の旅は、皆やがて終わりを迎えます。では私たちの人生の旅は、「どこへ」向かっているのか?「どこへ」という目的のない旅なのか?‥‥そうではありません。私たちは、キリストであるイエスさまによって、天国という目的地を与えられています。それが私たちの約束の地です。ですから「どこから」が大切なのではなく、「どこへ」ということこそが大切なのです。それがイエスさまによって与えられているのです。
聖霊
しかも、この世の旅路は単なる荒れ野なのではない。モーセの叫びを聞いて、神さまが岩から水を出してくださったように、イエスさまによって生ける水が与えられて、渇きが癒やされる。そしてその水が、さらに自分から流れ出て、人々にも生ける水を提供するものとなると言われます。
ヨハネ福音書は、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである」と書いています。聖霊です。「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というこの「栄光」とは、十字架を指しています。イエスさまが十字架という死刑台で、ご自分の命を献げられる。私たちの罪をゆるし、救うために。それが栄光だというのです。恥辱ではなく栄光。それは十字架で愛が光り輝くゆえに、栄光なのです。そして十字架で死なれたイエスさまを、神が復活させなさる。それも栄光です。神の愛の栄光です。そうしてイエス・キリストを信じる者に聖霊が与えられることになります。
聖霊は神の霊です。そして私たちが満たされ、さらにそれが生ける水として、流れ出ていく。人々にも神の潤いを提供するものとなるという。私たちが他人に生ける水を提供するのではありません。私たちを通して、イエスさまが他人に生ける水を与えるために用いられるということです。言わば私たちは水道管のようなものです。そのようにイエスさまが私たちを用いてくださるという。神さま、イエスさまのお役に立てるんです。
そしてそれは、自分でも気がつかないうちに、聖霊が私たちを通して他人にも神の導きを与えるものとなる。知らないうちに、聖霊によって用いられるということです。私が先ほど申し上げましたように、私が挫折して郷里に戻り、教会に戻ってきた時に、みなが十字架に向かって主を礼拝している姿。そこに感じるものがあったのもその一つです。それも聖霊の働きだということができます。
その聖霊が、キリストを信じる者と共にいて下さる。そしてこの世の旅路を共に歩んでくださる。生ける水を与えられながら。そして、約束の地に向かって歩んでいるのです。
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