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2024年9月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記5章21〜24
ヨハネによる福音書7章25〜36
●説教 「行けない所」
エノク
はじめに、先ほど読んでいただいた旧約聖書のほうですが、そこにはエノクという人について書かれています。そして、エノクは365年生きたと書かれています。365歳まで!驚くべき長命ですが、その前後を読むともっと驚きます。
この創世記5章では、最初の人間であるアダムから、ノアの箱舟で有名なノアまでの系図が記されているんですが、みな長生きです。最初のアダムは935年生きている。今日のエノクのお父さんのイエレトという人は962年生きています。エノクの子のメトシェラという人は、969年生きています。千年近いですね。その系図に出てくる人は、だいたい800年から900年以上も生きています。これは実際に生きた年が書かれているのではなく、なにかのメッセージだろうと考えることもできます。
それはともかく、たいへんな長命ですが、よく見ると、たとえば最初のアダムの最後は「アダムは935年生き、そして死んだ」と書かれています。エノクの父のイエレトも「イエレトは962年生き、そして死んだ」と書かれている。そのように、みな「何百年生き、そして死んだ」と書かれているんです。
ところがエノクは違っています。他の人の八百何十年生きた、九百何十年生きた‥‥というのに比べると、エノクの365年というのはたいへん短い。しかしエノクだけは、「そして死んだ」とは書かれていません。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれているんです。これは大きな違いだと思います。九百年生きたとしても最後は「そして死んだ」のです。死んだのには違いないんです。それに対して、エノクは「神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」という。
他の人に比べたら短いかもしれないけれども、最後は神が取られたのでいなくなった。神さまの所に迎え入れられた。エノクは神と共に歩んだ。そこに意味があります。
イエスは何者か
本日のヨハネによる福音書。仮庵祭というユダヤ人が一番盛り上がる祭りのとき、イエスさまがエルサレムの神殿の境内で、おおぜいの人々に向かって教えを述べられた。その出来事の続きです。
今日のところでは、人々の反応が書かれています。すなわち「イエスとは何者か?」ということです。そしてイエスさまについての評価が、人々の間で分かれました。全部の人がイエスさまを受け入れたのではありません。それは今日も同じです。その評価のポイントは、「イエスは果たしてメシア(キリスト)なのか?違うのか?」という点です。メシアというのは、旧約聖書において、神さまが遣わすことを約束されていた救い主、救世主です。ユダヤ人にとっては、それは自分たち民族を救ってくれる人でした。イエスという人が、神の約束であるメシアなのか、そうではないのか。その点を巡ってイエスさまの評価が割れたのです。
まず、イエスはメシアなどでは無い、という人たちがいました。ユダヤ人の指導者たちです。ここでは、ファリサイ派や祭司長たちです。彼らにとっては、イエスはメシアではない。人々を惑わす者でした。イエスは神を冒涜(ぼうとく)するものであり、それゆえ死刑に相当する者でした。イエスは、ナザレという田舎の村の出身者であり、その出自も分かっている。本当のメシアならば、どこから来たのかも分からないはずだというのでした。
もう一方では、イエスはメシアかもしれないという人々がいました。こちらはおもに民衆の中に多くいました。それはイエスさまがなさっていたしるし、奇跡を見て、そう考えていました。そのように、イエスさまに対する評価は大きく分かれていました。
現在のユダヤ人はどうなのでしょうか?‥‥現在のユダヤ人の多くは、「メシアはまだ来ていない。これから来る」と思っているそうです。このことは、私がイスラエルに行った時に案内してくれたガイドさんが説明してくれました。エルサレムの東側にあるオリーブ山。その中腹にはユダヤ人の高級墓地があります。その墓は、みなエルサレムの神殿の丘に向って作られている。それはこれからメシアが来て、神殿の丘に降り立った時、復活してそちらに向かって立ち上がるためだそうです。ですから、イエスさまはメシアではないわけです。聖書の時代のファリサイ派の流れであることが分かります。
イエスの大声
さて、人々がイエスさまについて評価をしていると、イエスさまが大声で言われたと書かれています。大声で言われた。たいへん印象的です。
イエスさまが大声を出されたということは、このヨハネによる福音書では3回出てきます。一つはこの個所です。2回目は同じ7章の37節ですから、きょうの続きです。もう一つは、11章のラザロのよみがえりのところです。イエスさまは、死んで墓に葬られたラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。するとラザロが生き返って墓から出てきました。このことは、イエスさまによる復活の預言として書かれています。命を与えるイエスさまです。
そうしますと、やはりイエスさまが大声を出されたというのは、単に大きな声を出されたということをいっているだけではなく、重要なことを言われるということです。もちろん、イエスさまがお語りになったことは、どれも重要だから福音書に書かれているわけですが。ここでは、人々のイエスさまとは何者であるかということについて評価が分かれている時に、イエスさまは声を大にして答をおっしゃっているんです。
その答とは、イエスさまは勝手に来たのではなく、わたしを遣わされた方のもとから来た、ということです。イエスさまを遣わされた方とは、もちろん父なる神さまのことです。しかしここでイエスさまご自身は、「父が」とか「神が」とは言っておられません。「わたしをお遣わしになった方」「真実」である方と言っておられます。それが神であることを悟れということでしょう。そして「あなたたちはその方をしらない」と言っておられます。あなたたちは神を知らない、と。そうすると人々は、「いや、我々だって神は知っているよ」というでしょう。
しかしどうでしょうか?本当に神を知っていると言えるのでしょうか? 神という方が、どのようなお方であることを知っているでしょうか? 神はどのような方でしょうか?‥‥ここでイエスさまは、神は「わたしをお遣わしになった方」だと言っておられるのです。イエスさまを遣わされた方こそ、真実なる神であると言われるのです。そのことを悟れ、ということです。そのイエスを見よということです。
この時は仮庵祭。それから半年少しでイエスさまは十字架を迎えることになります。きょうのこの言葉を語られた方が十字架にかけられる。そして命を献げられる。私たちを救うために。その十字架に結晶した愛、私たちをゆるし、救う方。私たちを罪から救い、滅びから救い、永遠の神の国へと導いてくださる方。そのようなイエスさまを遣わされた方、真の神を信じなさい。‥‥そのように、イエスさまは熱く、力を込めておっしゃった。あなたがたが信じようが信じまいが、このことだけは言っておくと。大声で言われたのです。
神を知る
「わたしはその方(神)を知っている」とイエスさまは言われました。これはイエスさまを死刑台に送ろうとしているユダヤ人の宗教指導者たちは、当然「我々こそ神を知っている」と思ったでしょう。しかし、彼らはイエスさまを抹殺しようとしている。イエスさまが重い病気の人を癒やされたのが安息日であった。安息日は仕事をしてはならない日である。しかしイエスは安息日に、病を癒やすという仕事をした。それでイエスさまを抹殺しようとしている。イエスさまの言葉には、「あなたがたは、神という方をそのような方だと思っているのか?」という問いが含まれていると思います。「あなたがたは、神という方をそのような気難しい、短気な方だと思っているのか?」と。彼らファリサイ派は、神さまに対して熱心なようで、はなはだしい勘違いをしているんです。
先週、聖書の他の箇所を読んでいて、目がとまった箇所がありました。それはテサロニケの信徒への手紙一の2章13〜14節です。こう書かれていました。
"このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。"
使徒パウロが、テサロニケでキリストの福音を宣べ伝えた時、彼らはパウロの語るキリストの福音の言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。「あ〜、きょうの聖書に出てきたファリサイ派ら宗教指導者とたいへんな違いだなあ」と思いました。きょうのヨハネ福音書のほうでは、イエスさまが直接語っておられるのに、拒絶した。しかしこのテサロニケの手紙のほうでは、パウロという人がキリストのことを語ったのに、それを神の言葉として受け入れた。
そのテサロニケの手紙では、5章16〜18節に、クリスチャンの指針となる教えが書かれています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
キリストであるイエスさまにおいては、神を信じるということは喜ばしいことです。どんなことにも感謝できるし、絶えず祈って神さまに頼ることができる。
逮捕されないイエス
ユダヤ人当局である祭司長たちとファリサイ派の人たちは、イエスさまを捕らえるために下役たちを遣わしました。下役というのは役人ですから、上司の命令どおりにいたします。役人というのはそういうものです。ところが、その下役たちがイエスさまを捕らえずに、戻ってきてしまった。イエスさまの言葉を聞いて、戻ってきてしまったんです。戻ってきたことは、少し先の46節に書かれています。彼らは上司である祭司長たちとファリサイ派の人たちに答えました。「今まであの人のように話した人はいません。」
下役たちは、イエスさまは本当にメシア(キリスト)ではないかと思ったのでしょう。30節では理由として、「イエスの時はまだ来ていなかった」からであると書かれています。イエスさまが捕らえられる時がまだ来ていなかった。イエスさまが捕らえられる時というのは、神がお許しになった時です。その時まで、人間がどんなことを企てようとも、神のお許しがなければ行われない。神の大きな手が、人間の営みを包んでいるようです。
私たちにゆるされた時間の中で
33節の言葉に注目したいと思います。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」
この「今しばらく」という言葉は、直訳すると「わずかの時間」という意味です。ギリシャ語だと「クリノン・ミクロン」という言葉です。ミクロン。ミクロの世界のミクロです。本当にわずかです。イエスさまはいつまでもそこにおられるわけではない。
「いつかは教会に行こう。そして神を信じよう」という人がいました。しかしその「いつか」という日は本当に来るのでしょうか? 人生は短いんです。
私も昨年秋、心筋梗塞にかかった時、そのことを痛切に思いました。そこで死ぬところを助けられた。もちろん、そこで死んで天国に行ってもよかったんですが、助けられた。死というものは突然来るんだなあ、と思いました。しかし生かされました。これから残された時間は、今まで生きてきた時間と比べて圧倒的に短いでしょう。「わずかの時間」です。それが残された。私は思いました。主がなぜ私を生かしたのか?‥‥「あなたは、もう少し神と深く交わり、本気で福音を語りなさい」と、そのようにイエスさまに言われているような気がしました。もちろん、今までも本気で語ってきたつもりでしたが、また一つイエスさまの愛の深さを知ったように思いました。
私たちに与えられているのは、わずかな時間なんです。私たちはそれをキリストと神を知る喜びの時としたいものです。
イエスの行くところ
34節でイエスさまはおっしゃいました。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
この言葉を聞いていた人たちはさっぱり理解できなかったようです。しかしこの言葉は、イエスさまが天の父なる神さまのところに帰られることです。イエスさまが十字架で死なれた後、よみがえられ、天に昇られる。それが「わたしのいる所」です。そして「あなたたちはそこに来ることができない」。すなわち、天の国、神の国にあなたたちは来ることができないと言われています。
これは、誰も天国に来ることができないということではありません。この時イエスさまの言葉を聞いている人々のように、人間の発想で考えている限りは、ということです。人間の力では天国に行くことができない。イエスさまに連れて行っていただくしかないということです。
初代教会最初の殉教者、ステファノの場合を思い出してみましょう。教会の伝道者であるステファノは、イエスさまを十字架に追いやったのと同じ人たちによって、石を投げつけられて死にました。しかしその死ぬ前、人々が石を投げつけている時、天が開けてイエスさまが立ち上がったのを見ました。そして彼は言いました、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。そうして彼は眠りに就きました。
本来、罪人である私たちが行くことができない天の国。父なる神さまの所。しかしその私たちが行けるようにするために、イエスさまは十字架にかかられました。そしてイエスさまは、そこに招き続けられます。その招きに応えるものでありたいと思います。
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