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2024年9月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 歴代誌上29章10〜13 ヨハネによる福音書7章14〜24
●説教 「栄光は誰のもの」
聖歌「遠き国や」と震災
本日は9月1日です。大正12年9月1日の関東大震災から101年、そして今年の1月1日の能登半島地震から8か月。いずれも1日に起きた大地震です。
そして本日、聖歌397番をご一緒に歌いました。聖歌397番「遠き国や」。震災を覚える時にしばしば歌っていますが、この聖歌は、ジェームズ・マーチンという宣教師が作った曲です。関東大震災の日の夜、青山学院にも多くの人々が避難してきました。しかし校舎の大部分は壊れていたので、人々を体操場に泊めるほかはなかったそうです。その時人々は、たった1本のろうそくを真ん中にして、蚊帳(かや)の中にうずくまっていたそうです。そのろうそくの火の光が蚊帳の編み目を通して、マーチン宣教師には十字架のように見えたそうです。人々の重荷を負ってくださったイエスさまの十字架。そのイエスさまがこの震災の地をお見捨てにならないばかりか、そこにおられて慰めを与えてくださることを思って作られた曲です。
震災の中にあって、十字架の主が苦しみを共にし、慰めを与え、癒やしてくださる。そのことを私たちも信じてまいりました。そのことは同時に、主が私たちの苦しみも担い、癒やしてくださる方であるということでもあります。
聖書について
本日のヨハネによる福音書の聖書箇所では、1週間にわたっておこなわれる仮庵祭の半ばになったとき、イエスさまがエルサレムの神殿に現れて、人々を教え始められた時のことが書かれています。日本でもお祭りとなりますとあちらこちらから人々が集まってきますが、仮庵祭は秋の収穫感謝祭も兼ねていて、多くの人がエルサレムの神殿に集まる時でした。その多くの人々を前にして、イエスさまは教え始められたのです。
そうしますと、その中のある人々は驚いて(15節)「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言いました。ここで書かれている「聖書」とは、もちろん新約聖書は含んでいません。私たちがいう旧約聖書のことです。イエスさまの語ることを聞いて、「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と彼らは言った。驚かされたのです。イエスさまが聖書に精通していることに。
しかしこれは、このあとの展開を見ると、決してほめ言葉ではないようです。「この人は学問をしたわけでもないのに」という言葉。それは、実はほめて言っているのではない。言い換えれば、「先生について教わったわけでもないのに」とか「学歴もないのに」という言い方です。ユダヤ人の律法学者、これは今日流にいえば「聖書学者」ということになりますが、律法学者にとっては、どの先生のもとで学んだか、ということが大事でありました。
ある大学教授であった方が言われました。学問の世界がそうだ、と。学者が弟子を育てる。そうするとその弟子は「○○先生の弟子」と呼ばれ、認められていく。そしてその人の学者としての評価が与えられる。言わばお墨付きになるのだということでした。
ユダヤ人の世界も同じだったのです。このイエスという男は、誰か先生に教わったのでもない、学歴もない。ナザレの大工のこせがれではないか。なのにどうしてこんなに聖書をよく知っているのだろうか、と。不審に思っている。律法学者はイエスさまを自分たちよりも低く見ている。だから、そもそもその人たちは、イエスさまの言葉に真剣に聞く気がない。
するとイエスさまは、(16節)「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」とおっしゃいました。「私をお遣わしになった方」というのは、もちろん父なる神さまのことです。すなわち「わたしは自分の教えを語っているのではなく、神の教えられたことを語っているのだ」と言われたのです。このことは、これとは反対のことを教えている人がいることを暗に指摘しているのです。すなわち、自分の教えが神の教えであるかのように語る者がいるということです。それが18節で言われる「自分勝手に話す者」ということです。そしてその人は、自分の栄光を求めているというのです。
「自分勝手に話す」と日本語に訳されていますが、口語訳聖書はここを「自分から出たことを語る」と訳しています。つまり、神から出たことを語るのではなく、自分から出たことを語る。それは神から出た教えではありません。そのようなことを、ユダヤ人の律法学者、つまり聖書学者は語っている。
しかし同じことは、今日の聖書学の世界にもあります。聖書学にもいろいろなことをいう学者がいます。たとえば、新約聖書の4つの福音書には同じできごとを違う言葉で書いているところがありますね。そうしますと、「本当はイエスはそのように言わなかったのだ」とか「そのような奇跡を行わなかった」とか言う人がいる。ヨハネによる福音書で言えば、「本当はイエスはそう言わなかった。この福音書を書いたヨハネが、自分の考えをイエスの口を借りて語らせているのだ」というようなことまでいう聖書学者もいる。挙げ句の果てには、イエスは本当に復活したのではない、ということまで言う人もいる。しかも、そのようなことが書かれた本をキリスト教出版社が出したりする。
まあ、新しい説や珍しいことをいうと注目されるというのは、どこの世界も同じだと思いますが、それが有名大学の先生や、有名な先生の弟子となりますと、本になるということが起きる。今日で言えば、YouTubeの再生回数が増える。しかしそれらの学説は聖書の語っていることではありません。
先ほどのイエスさまの言葉。厳しい言葉ですが、(18節)「自分勝手に話す者(自分から出たことを語る者)は、自分の栄光を求める」ということになります。「栄光」というのは光が当たることです。スポットライトを浴びようとする。宗教者で言えば、神さまに光を当てるのではなく、自分がスポットライトを浴びようとするということです。
考えてみれば、カルト宗教はそうですね。キリスト教系と言われるカルトもそうです。それらも聖書を用いながら、「聖書にはこう書いてあるが、本当は違う」とか、 「本当の本当の意味は違う」と言って、教祖などの教えのほうを重んじる。教祖に栄光の光を当てようといたします。それは人を生かすのではなく、破滅に導きます。
神に栄光
イエスさまは言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(16節)
私たちクリスチャンは知っています。イエスさまの教えが、イエスさまが勝手に語っている教えではなく、イエスさまを遣わされた父なる神の教えであることを。それはイエスさまが神の御子であるから当然だということを知っています。
18節「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」
語る者が、誰の栄光を求めているかによって真実であるかどうかが分かるということです。父なる神さまに栄光を、スポットライトが当たることを求める者は真実です。
神の栄光を指し示した人
先ほど、聖書学の世界も同じだと申し上げましたが、私もそれによって迷いそうになった一人です。若い時に神さまと教会を離れていた私ですが、不思議な導きによって教会に戻りました。そうして聖書学者の書いたものを読んでも、混乱するばかりでした。もちろん、ちゃんとした敬虔なものもあるわけですが、先ほど述べたようなものもある。そうすると、「聖書というのは、何が本当にイエスさまの言ったことなのか、信用できない本なのか?」とさえ思われる。
しかしそういう中で、一つはチイロバ先生こと榎本保郎先生の説教に出会う。もうひとつは、これも時々ご紹介していますアメリカ人の宣教師ボストロム先生との出会いです。先生は、教会が少ない地域である掛川市の、さらに田舎のほうの教会がない地域でご家族と共に開拓伝道をしておられました。だいぶ苦労をなさったと思うのですが、そんなことは全く表に出さない。時には家族でパンの耳が食卓だということもあったようです。しかしいつも、平安な笑顔でキリストを宣べ伝えていました。私は、先生を通して、聖書というものが信頼すべき言葉であることを知ったんです。
そして私は、はじめて、自分に起こった出来事が、キリスト・イエスさまの働きと導きであったことが分かりました。神さまとイエスさまが、今も生きて働いておられること、そしてこの私のような者にも目を留め、導いてくださったことが分かりました。本当に聖書に書かれているとおりだ、本当にイエスさまがおっしゃったとおりだった、ということに目が開かれたのです。
そのボストロム先生が、ある時おっしゃいました。「わたしはイエスさまの衣に隠れて歩んで行きたいんです」と。栄光はイエスさまのものである。スポットライトが当たるのはイエスさまであるということ意味でもあります。その先生の言葉は生きている言葉でした。単なる聖書の解説ではない。すべて生きておられるキリストと父なる神の言葉の真実を証ししていました。著名な聖書学者の書いていることよりも信頼できました。それは、彼自身がキリストによって生かされていたからです。
使徒パウロの場合はどうでしょうか。使徒パウロは、ガマリエルという有名な律法学者のもとで厳しい教育を受けたと、使徒言行録22章3節で自ら語っています。ガマリエルは、ファリサイ派の律法学者であり、民衆全体から尊敬されていました(使徒5:34)。そういう意味では、著名な先生の門下生であったわけですから、律法学者の世界でいえば聖書を教える資格があることになります。しかしそのパウロは、フィリピの信徒への手紙3章5節〜9節で次のように述べています。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」
そのパウロは、喜んで神とキリストの栄光を求める人でありました。
勘違いの信仰
今日登場している「ユダヤ人」とは、おもにファリサ派や律法学者といった宗教指導者たちのことと思います。そして、彼らが神さまという方を、神経質な存在に落とし込めてしまったのです。そのことの例として、イエスさまは安息日のことの例を挙げておられます。(19節)「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
すると彼らは、「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか」と答えています。しかし振り返りますと、この福音書の5章で、38年間病気で寝たきりだった人をイエスさまがお癒やしになったことがありましたが、それは安息日のことでした。安息日は仕事をしてはならないというのが律法の掟でしたから、彼らは、イエスは安息日に病気を治すという仕事をしたと言って怒りました。そのときにすでにイエスさまを殺そうとねらうようになったと、5章18節に書かれています。つまりイエスさまは、彼らのことを見透かしておられるのです。隠してもムダなのです。
そしてイエスさまは「割礼」の例を挙げておられる。割礼は、ユダヤ人に生まれた男の子は生まれて八日目に割礼を受ける決まりでした。それは律法の掟でした。割礼とは、男の子のシンボルの皮の一部を切り取るという儀式でした。それは神の民となったというしるしでした。赤ちゃんが生まれる日、それが安息日だったとしても、お産婆さんは一生懸命働くでしょう。そして生まれたのが安息日であったとしたら、8日目の割礼を受ける日も安息日ということになります。安息日に割礼という仕事をする。しかし、割礼は神の律法だから安息日は関係ないという。そのように彼らは教えている。
イエスさまのおっしゃりたいことは、安息日に病気の人を癒やすという仕事をしたと言ってイエスさまを殺そうとすることが、いかにおかしなことであるかということです。割礼のような赤ちゃんの皮膚の一部を切り取るというような小さなことがよくて、長年病気で苦しんでいた人を癒やすというすばらしいことがダメであるというのは、どう考えてもおかしいと思わないのか?‥‥イエスさまの嘆きが伝わってくるかのようです。
彼らは人々に聖書を教える者たちです。その彼らが、神さまという方を神経質で、四角四面の方で、短気で気難しい方にしてしまっている。神さまという方を、やたらと罰を与える方にしてしまっている。しかしイエスさまのなさっていること、教えておられることでは、神は38年間病気で寝たきりの人を顧みられる方、憐れみに満ちた方であり、結婚の婚礼の席で足りなくなったぶどう酒を、水をぶどう酒に変えるという奇跡までおこなって祝福してくださる方です。そして神の御心に従って、私たちを救うために十字架へと向かって行かれる方です。
しかし彼ら律法学者やファリサイ派の人たちの言動は、私にとっては他人事ではありません。私も聖書を教える立場の人間ですが、神の言葉のすばらしさを損ねないようにちゃんと伝えているかと問われると、自信がないんです。ただ、この私のような者でさえも、主は用いてくださることを信じて、たどたどしく語っているだけです。あとは聖霊なる神さまにゆだねます。そして、皆様ご自身が、イエスさまの言葉の真実を体験されることを願っております。
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