2024年8月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨハネによる福音書7:1〜13
申命記16:13〜17
●説教 「時と場所のさだめ」
休暇
先週は休暇をいただきました。休暇中は、ふたたび能登訪問の旅を計画していました。しかしその数日前に、台風7号が関東直撃のコースを取る予想が出ましたので、教会を空けるわけにもいきませんから、早めに旅行をキャンセルいたしました。人間の予定など、台風一つで成り立たなくなるわけです。もう少し遅く、あるいは早く台風が接近するのであれば旅にも行けたのでしょうけれども、人間にはどうすることもできません。そのように「時」というものについて、改めて認識させられたという次第です。
本日の聖書箇所で、イエスさまが「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃっています。この「時」とはどういう意味なのでしょうか。
ユダヤ人問題
イエスさまは、おもにガリラヤ地方で神の国の福音を宣べ伝えておられました。1節を見ると「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤをめぐろうとは思われなかった」と書かれています。ユダヤ人がイエスさまを殺そうと狙っていた。
ここで少し注意が必要であるということを、申し上げておかなければなりません。それは「ユダヤ人」という言葉についてです。とくにこのヨハネによる福音書では「ユダヤ人」という言い方を多く使っています。そして、それは民族としてのユダヤ人を指しているのではありません。それはユダヤ教指導者、つまりユダヤ人当局とそれに扇動された人たちという意味で使っているのです。ですからヨハネ福音書で言う「ユダヤ人」とは、他の福音書における「ファリサイ派と律法学者」という言い方、あるいは「ユダヤ人の長老」とか「祭司長たち」といった言い方とほぼ同じなのです。
ですから、ヨハネ福音書が言う「ユダヤ人」というのはそういう意味であって、決して民族全体を指しているのではないということに注意が必要なのです。だいたい、この福音書を書いたヨハネも民族で言えばユダヤ人ですし、他の弟子たちも皆ユダヤ人です。そもそも人の子として来られたイエスさまがユダヤ人として来られました。ですから、この福音書を書いたヨハネ自身にも、ここで言う「ユダヤ人」という言葉が、民族としてのユダヤ人全体のことを言うつもりは全くなかったのです。このことをわきまえないと、今日の1節に書かれている、ユダヤ人がイエスさまを殺そうと狙っていたという言葉の意味を、とり違えてしまうことになりかねないでしょう。
私がこのように「ユダヤ人」という言葉を慎重に扱うのは理由があります。それは、私たち日本人にはなかなか理解できないのですが、おもにヨーロッパにおける「ユダヤ人問題」というのがあるからです。とくにヨーロッパのほぼ全域がキリスト教に帰依した中世以降、ユダヤ人はひどく迫害されてきました。ユダヤ人への迫害と言えば、かつてのナチス・ドイツによる迫害のことかと多くの日本人は思いますが、そのずっと前からユダヤ人は迫害されてきたのです。ユダヤ人であるというだけで迫害されてきた。そういう重い歴史がヨーロッパにはあったのです。とくに、ペストの流行のような困難なことがあるたびに、ユダヤ人はひどく迫害されました。民衆の間には「キリストを殺したユダヤ人」というような言い方まであった。もちろん、ユダヤ人がキリストを殺したということを聖書は言いたいのではありません。人間の「罪」を問題にしているわけです。しかしなかなか自分の中の罪を見ようとしないのは、古今東西いずれも同じで、安易な形でユダヤ人を迫害してきた。そういう負の歴史、負い目がヨーロッパにある。そのことをわきまえていると、今日のガザのハマスとイスラエルの戦争に対する欧米諸国の態度が、少しは理解できるということになります。
いずれにしても、私たちは決して民族の優劣を見てはいけません。見なくてはならないのは、誰の中にもあるし、私たちの中にもある「罪」が問題なのです。そういうわけで、ヨハネ福音書で「ユダヤ人」という言葉が出てきたら、それは「ユダヤ教の指導者たち」、あるいは「ユダヤ人当局」という意味だと思って読んでいただければと思います。
イエスの「時」
さて1節に戻りまして、「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」。
何か単純に読みますと、イエスさまは殺されることを恐れているから、エルサレムのあるユダヤ地方に行こうとなさらなかったのか?と思ってしまいます。しかし、イエスさまはやがてご自分が十字架という死刑台にかけられることをご存じであるわけです。ですから、殺されるのを恐れてユダヤに行かなかったのではありません。ではなぜこのときユダヤに行こうとされなかったのか?
その答は6節に書かれています。「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃっている。まだその時ではないということです。ではその「時」とは何の時のことなのか?‥‥そのことについてイエスさまは何も言っておられません。しかしその「わたしの時」というのは、イエスさまが十字架にかけられる時のことだということは、聖書をよくお読みになっている方はお分かりかと思います。すなわち、「わたしの時はまだ来ていない」というのは、イエスさまが十字架にかかられる時は今ではない、ということです。
このとき、季節は仮庵祭の時。それは今日の私たちの暦で言うと10月であり、秋です。そして実際にイエスさまが十字架にかかられるのは、過越祭の時。3月から4月であり、春です。イエスさまが十字架にかかられるのはそのように過越祭の時です。だからもう少し先の事になります。
その仮庵祭が近づいて、イエスさまの兄弟たちが、イエスさまにユダヤに行くようにと勧めました。イエスさまの兄弟というのは、イエスさまが最初に生まれたわけですから、弟たちのことでしょう。その弟たちが、イエスさまにユダヤに行くように、具体的にはエルサレムの都に行くように促す。兄弟たちが言っている「弟子たち」というのは、イエスさまを信じる人たちのことです。エルサレムにもイエスさまを信じる人たちがいる。そこに行って、もっと奇跡を見せてやりなさいと言う。
ちょうど仮庵祭の時。むかし、モーセを指導者としてイスラエル人はエジプトから脱出し、約束の地を目指して旅をいたしました。なにもない荒れ野の中を旅しました。そこで人々は、木の枝や布によって仮の住まいを作って移動しながら旅をしました。主なる神のお守りと導きのうちに旅をしました。そのことを記憶するために、木や木の葉で作った仮の住まいを作って過ごすのがこの祭りです。そしてそれはまた秋の収穫感謝祭でもありました。それでもっとも盛り上がるのがこの仮庵祭だと言われます。
それで多くの人々がエルサレムに集まる。そこに行きなさいと、イエスさまの弟たちは言う。このことについてヨハネ福音書は、「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と書いています。この「信じていなかった」という言葉の意味は、イエスさまが十字架にかかって世の人々を救うということを信じていなかった、ということでしょう。先にていねいに6章を学びましたが、そのときイエスさまの言葉につまずいた多くの弟子たちと同じように、イエスさまという方がどういう方であるかよく分かっていなかったのです。イエスさまが多くの奇跡を行うヒーローであり、ヘロデ王に取って代わる新しい王になれるかもしれないと思った。そうすれば、イエスさまの身内である自分たちも良い身分にありつける‥‥そんなふうに思っていたのかもしれません。
そのためには、このガリラヤのような田舎にいてはダメだ。エルサレムの都のあるユダヤに行って、一旗揚げなくてはならない。そのように弟たちは考えたのでしょう。それで、イエスさまにユダヤに行くように促した。
あなたがたの「時」
するとイエスさまはおっしゃいました。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」(6節)
「わたしの時」というのは、先ほど述べましたように、イエスさまが十字架にかけられる時です。このことは兄弟たちは全く知らない。では「あなたがたの時」というのは何でしょうか?
これについてはいくつか解釈がありますが、イエス・キリストを信じる時、ということだと思います。「あなたがたの時」とは「イエスさまを信じる時」。いつでもイエスさまを信じて良いということです。イエスさまを信じるために、何か特別な勉強が必要なわけではありません。あるいは、修行をしなければならないのでもありません。今、この時、信じてよいものです。日が浅いとか、長いとかいうことではない。これは決して未信者の問題ではありません。私たちはどうでしょうか? イエスさまの言葉を思い出してください。それを今信じているでしょうか? あるいは聖書の言葉、約束を信じているでしょうか? 「あなたがたの時はいつも備えられている」のです。
ですからこれはすでにイエスさまを信じている人についても言えることです。そしてイエスさまは、いつも、信じるように招いておられます。
時ということ
さて、あらためて「時」ということを考えてみたいと思います。最初に述べましたように、私たち人間には「時」をどうすることもできません。私は戦国時代に生まれたかった、と思ったことがあります。何かワクワク感がありますね。もっとも弓矢に当たって死んでいるのが落ちかもしれませんが。しかし戦国時代に生まれたいと思っても無理なわけです。今という時代が、どんなに残念な時代だと思われたとしても、どうすることもできません。自分の生まれる時、場所、そして死ぬ時というものを私たちは選ぶことができません。
しかしここに道があります。それは、神とキリストを信じることです。そうすると、「神は私という人間を、私にふさわしい時に生まれさせてくださった」と信じることができます。そのように、キリストによって前向きにとらえることができるようになります。
「時」ということについて述べている有名な箇所が聖書にあります。それはコヘレトの言葉(伝道の書)の3章です。その1節に次のように書かれています。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
すべてのことには時が定められているという。これは一見、運命論のように聞こえます。どうせ運命なんだから、どうすることもできない、あきらめるしかないと。しかし聖書は運命論ではありません。
私は大学5回生の時、ようやく就職を考えました。5回生というのは関西から西の方の言い方ですが、便利な言い方なんですね。たとえば大学2年生で留年すると、次の年も2年生ですが、西のほうではこの場合「3回生の2年生」という言い方になります。つまり何年大学に在学しているかというのが「何回生」という言い方なんです。ということで私が5回生の時、というと、1年留年したことがばれるわけですが。それはともかく、5回生の秋になって就職活動を始めました。会社訪問や会社説明会に行きました。そして郷里の静岡の会社にも行ってみようということで、静岡の実家に戻った時のことです。父親が私に「牧師にならんか?」と言ったんです。
私はそれは、たわごとのように聞こえました。親には申し訳なかったんですが。なぜなら、前にもお話ししましたように、大学1回生の時にすでに教会を離れ、神もキリストも信じなくなっていたからです。しかし父はそのようなことを知らない。だから私に「牧師にならんか?」と言った。思えば両親は、そのことのために祈っていたに違いありません。しかし私には全然その気がないどころか、神さまさえも信じるのをやめて久しかった。だから当然、父の言葉は無視しました。
そして結局、某製薬会社に就職しました。今その会社は、例の紅麹問題で大揺れに揺れていますけれども、そこに就職しました。では、両親の祈りは無駄だったのでしょうか?‥‥そうではなかったんです。これもお話ししましたが、その後私は体を壊して会社を辞めることとなり、郷里に戻りました。そこから神さまの不思議な導きが始まりました。そして私は教会へ戻り、神さま、イエスさまが本当に生きておられる方であることを知り、献身して伝道者への道を歩み始めることとなったんです。
父親が私に「牧師にならんか?」と言った時は、まだその時ではなかった。しかし両親の祈りは無駄にはならなかった。結局かなえられたんです。祈りがかなえられる時、というものがあるんです。ですから聖書のいう「時」というものは、運命論ではありません。生きておられる神の働きを物語る言葉なんです。私のことで言えば、両親の祈りを聞かれた神が、私の回心の時を備えてくださったのです。
行かないと言って行くイエス
さて、10節を読みますと、こう書かれています。「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」
先ほどイエスさまは弟たちに対して、「わたしはこの祭りには上っていかない」と言われたではありませんか。それなのに結局エルサレムに上って行かれたという。これはどういうことでしょうか? イエスさまはあまのじゃくなのでしょうか? あるいは、弟たちの言いなりにはならないということでしょうか?‥‥
この理由については、おもに二つ考えられます。一つは、弟たちの言うような目的では行かないということです。つまり、新しい王として担ぎ上げられるために行くことはしないと意味であると。それで、人目を避けるようにして行かれたのだという説明になります。人目を避けるようにというのは、イエスさまがエルサレムに向かっていくということが広くガリラヤにいる弟子たちに知られると、多くの弟子たちが熱狂してイエスさまと共にエルサレムに向かうことになる。そうすると、イエスさまを新しい王にしようという運動が騒動となり、暴動となる。そういうことを避けるために、人目を避けて隠れるようにして行かれたという説明です。
しかしもう一つの理由が考えられます。それは、弟たちが仮庵祭を守るためにユダヤに出かけた、この時、父なる神さまがイエスさまに行くようにおっしゃったと言うことです。先ほど、弟たちがエルサレムに行くように促した時には、行かないことが父なる神の御心だった。しかしその後、父なる神は行くように言われた。その間は、数日から数十日のことかも知れません。しかし、弟たちが促した時には、エルサレムに行くことは神さまの御心はガリラヤにとどまることだった。しかし今や、騒動になることを避けながら身を隠してでも、エルサレムへ行くように父なる神がイエスさまにおっしゃった。だから出かけたということです。
このようなことは、いつも神さまのおっしゃることに耳を傾けていなければ、分からないことです。神さまが「行くな」とおっしゃれば行かない。「行きなさい」とおっしゃれば行く。イエスさまは常に父なる神に祈り、耳を傾けておられたことが分かります。
そのことは、私たちにも、常に神さまに心を向けていることの大切さを教えてくれます。日々、聖書を通してみことばに触れる。そして祈る。そうしてキリストに従っていくことの尊さを教えています。
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