2024年8月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教/逗子教会創立記念礼拝
●聖書 箴言16章18
    ヨハネによる福音書6章60〜71
●説教 「信と不信の間」
 
   逗子教会創立76周年
 
 逗子教会は今週創立記念日を迎えます。1948年(昭和23年)8月15日、当教会はこの地において第1回目の主日礼拝を守りました。その日の列席者は5名。日本メソジスト教会の牧師であった宮崎繁一先生が鎌倉教会の牧師に着任されてまもなく、プロテスタント各教派は日本基督教団に合同しました。そして戦争中の困難な時代を乗り越え、戦後を迎えます。宮崎先生は、まもなくこの地を取得され、進駐軍のかまぼこ型の兵舎を譲り受け、会堂とされました。
 当時、多くの人々が飢えていました。その飢えは、一つには肉体の飢えでした。終戦後、たいへんな食糧難となったからです。しかしもう一つの飢えがありました。それは魂の飢えでした。戦争を経験した世代のうちの多くの方々が証言していますが、戦争中には「神国日本」が負けるはずがないと教えられました。しかし負けました。それまで教えられてきたことが崩壊しました。たいへんなショックを受けたわけです。それで何を頼りにして生きていったらよいのか分からなくなった。そうして、魂の救いを求める人々、特に若者が教会へ集ったのです。その時代に逗子教会は誕生しました。
 日本のキリスト教伝道を振り返りますと、日本では歴史上これまで2回、大きく伝道が前進した時代がありました。最初は戦国時代です。日本中が下剋上の戦乱の中に置かれた時代、人々は魂の救いを求めてイエス・キリストを受け入れていきました。そして次が、逗子教会が創立された時代、すなわち先の戦争の後です。そのときも、多くの人々が魂の飢え渇きを覚え、生ける水を求めて教会に集いました。
 現在は、人々が宗教心を失った時代です。しかし人々の魂が飢え渇いていないわけではありません。ただ、それらを紛らわすもの、この世の娯楽や様々な情報があふれている時代です。しかしそれらのものによって人間の魂が救われるわけではありません。
 
   去っていく弟子たち
 
 本日は当教会創立記念礼拝ですが、引き続きヨハネによる福音書を通して、神の言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。
 今わたしたちは、ヨハネによる福音書の6章を読んでいますが、実はこの6章は分岐点となっています。それまでは、イエスさまは多くの人々から支持され、この人こそ救世主キリストではないかと期待されてきました。しかしこの6章でイエスさまの話を聞いて、多くの人々がイエスさまのもとを去っていくということになります。その話というのは、イエスさまが御自分のことを天から降ってきたパンでり、それを食べるなら永遠に生きると言われたことです。イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲む。これはイエスさまの十字架のことをおっしゃったのですが、人々はそれが理解できませんでした。すなわち十字架に係わることが語られて、人々が困惑していくという流れです。
 前回の個所である53〜55節を読んでみます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」 それに対する人々の反応がきょうの箇所の最初の60節です。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」
 たしかに、聞いただけでは理解できないようなイエスさまの言葉です。ここで注意しておきたいのは、これまでイエスさまと会話していた相手は「ユダヤ人たち」と書かれていましたが、ここでは「弟子たち」となっている点です。イエスさまの弟子であった者たちが、イエスさまの言葉を聞いて「実にひどい話だ」と言って、イエスさまのもとを去っていく。すなわち、これまでイエスさまのことを救世主であると信じてついてきた弟子たちがつまずいたのです。
 どうして弟子たちはつまずいたのでしょうか?‥‥それはやはり、自分たちの理解できる範囲でイエスさまのことをとらえようとしていたからだ、と言えるでしょう。イエスさまが救世主であるということについて、救世主とはこういう人だと自分たちで勝手に決めつけていた。枠にはめて考えていた。しかしここでイエスさまの言葉を聞いて、自分たちの考えている救世主キリストとは違ったということです。
 これらの弟子たちが、どこでイエスさまの弟子となったかは分かりません。しかしこれまでのイエスさまのなさったことを見、またお話になったことを聞いて、イエスさまに従って来たのでしょう。そうすると、ヨハネによる福音書に書かれていることで言うと、2章では婚礼の席で、足りなくなったぶどう酒を補うために水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさいました。4章では、王の役人の息子の病気を癒やされました。5章では、38年間も病気で寝たきりだった人の病気を癒やされるということをなさいました。そしてこの6章の冒頭では、5つのパンと2匹の魚によっておおぜいの人々の空腹を満たすという奇跡をなさいました。もちろん、ヨハネ福音書が書いていない他の様々な奇跡もあったわけです。これらは十分人々を熱狂させるものです。
 さらにイエスさまは多くの教えを語られました。ヨハネ福音書はあまり載せてはいませんが、たとえばマタイによる福音書のいわゆる「山上の説教」。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」「明日のことまで思い悩むな」‥‥そういった数々の教えは多くの人を感動させたことでしょう。そしてイエスさまの弟子になっていったのでしょう。
 ところが、ここでイエスさまは、ご自分が天から降ったパンであり、その肉を食べ、血を飲みなさいと言われる。それは十字架で与えるイエスさまの命のことを言われたのですが、理解できない。それで「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と答えた。この「ひどい話だ」の「ひどい」という言葉のギリシャ語は「受け入れがたい」という意味です。イエスさまの言葉が受け入れられない。「イエスさまが、こんなことを言う人だとは思わなかった」ということです。そしてイエスさまのもとを去っていった。
 
   ご存じだったイエス
 
 64節にはこう書かれています。「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」
 イエスさまは、一度はイエスさまの弟子となったけれども、実は信じない者がだれであるかをご存じであられたといいます。これはいったいどういうことでしょうか?
 教会を考えてみると、どうでしょうか。たしかに一度はイエスさまを信じたけれども、やがて去って行くという人がいます。その場合、たとえば他の教派の教会に移るという人もいます。それはまだイエスさまを信じているのですからいいのですが、信仰から離れる方もいます。そうすると、イエスさまは最初からそれらの人たちが離れることをご存じであったということになります。これはいったいどういうことでしょうか? ご存じであったのに、それまでなにも言われないというのはなにか無関心のようにも見えますが、どういうことでしょうか?
 しかしこれらのことは、この私のことを言っているように、私には思えるのです。私は1歳の時に病気で死にかけましたが、牧師先生の祈りによって命を助けられました。母はそのとき、一生礼拝を休まないことを神さまに約束したほどです。そして私は子どもの頃から教会に通っていました。中学、高校となると時々休むようになりましたが、高校3年生の時は熱心に通いました。希望する大学に行きたくて、神さまにお願いするために通っていたのです。そうして無事に合格し、大学に入学し親元を離れました。
 その岡山の地でも、しばらくの間は時々教会に行きましたが、あるとき、教会の人、それは私の大学の教授でしたが、その人につまずいて、それからは教会に行かなくなりました。「教会なんか行かない」と思いました。神さま、イエスさまを信じることもやめました。長い間私は、教会の人につまずいたと思っていました。しかしのちに牧師になってから、先輩の言葉によって、それは人間につまずいたのではなく、イエスさまにつまずいたのだということが分かりました。私をつまずかせた大学教授をも受け入れておられるイエスさまにつまずいたということが分かったのです。私は、イエスさまにつまずいて、キリストの体である教会を去ったのでした。
 いずれにしても今日の聖書の言葉で言えば、私がそのように学生時代に教会を去り、イエスさまのもとを去った。そのこともイエスさまはご存じであったということになります。ご存じであったのに、知らん顔をしておられたのか?と思ってしまいますが、その後の歩みを振りかえると、そうではなかったのです。会社に就職し、体を壊して喘息をこじらせて窒息しそうになり、救急車で病院に運ばれた私は、消えゆく意識の中で、心の中で叫んでいました。「神さま助けてください」と。なんとムシのよい話でしょう。一度教会を離れ、神さま、イエスさまのもとを去った私のまことご都合主義の叫びでした。その時死んでいてもなにも文句は言えません。しかし主は私をまたもや助けてくださいました。そればかりか、数々の不思議なわざをもって私を導いてくださり、キリストの体なる教会へ戻るようにしてくださいました。主は生きておられることが分かりました。
 そのように、あらかじめ私がイエスさまのもとを去ることをご存じであったイエスさまは、その私を見捨てることなく、時を経てふたたび導いてくださったのです。そのことを思い出します。ですから、イエスさまは去っていった人々のことを、どうでもよいと思われたのではないことはまちがいありません。
 63節でイエスさまは、「肉はなんの役にも立たない」と言われました。人間の知識や知恵ではとらえられないということです。神さまは無限のお方です。私たちは有限です。その私たちが、無限の神さまをとらえることはできないのです。聖霊によらなければ、知ることができないのです。
 65節でおっしゃっています。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」‥‥私は自分の知識、自分の知恵でイエスさまをとらえようとしていた。その結果つまずいた。しかし父なる神は、聖霊によってその私を再びイエスさまの所に来るようにしてくださったのです。完全に神の憐れみによるのです。
 
   「‥‥」について
 
 さて、イエスさまの言葉を聞いて、多くの弟子たちがつまずき、つぶやいているのを見て、イエスさまはおっしゃいました。61〜62節です。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば‥‥。」 この「‥‥」のところ。イエスさまは何をおっしゃろうとされたのか? 少なくとも、この時点ではおっしゃっておられない。何を言おうとされたのか。
 「人の子(イエス)がもといた所」とは、父なる神さまの所、すなわち天の国です。そこに上るということは、イエスさまが復活のあと昇天されることを言っていると考えられます。するとここは、「あなたがたは今つまずいている。しかし、人の子である私が天に上るのを見たならば、すべてが分かるだろう」ということをおっしゃっていることになるでしょう。
 またもう一つの「上る」があります。ヨハネによる福音書では、「上る」とか「上げられる」という言葉がよく出てまいります。それは今言いましたように、父なる神のもとに帰られる、すなわち天に上げられることが一つです。しかしもう一つその前に上げられるということが起きる。それが十字架です。十字架にはりつけにされるために上げられる。そうするとこの「‥‥」は、「この程度のことでつまずくとしたら、私が十字架に上るのを見たならば、完全につまずくだろう」ということになります。
 このように「上る」というのは、十字架に上られることと、復活を経て天の父なる神のもとに上られること。この二つを指していると言うこともできます。まず十字架でつまずく。これはこのとき残った12人の弟子、つまり使徒たちもつまずきました。しかし使徒たちは、そのあと復活のイエスさまに出会い、天に上られるイエスさまを見ました。そこまでイエスさまについていくならば、イエスさまがどなたであるか、何のためにこの世に来られたのかが分かる。そういう予告のような「‥‥」であるのです。
 多くの弟子たちがイエスさまのもとを去りました。そして残ったのは、12人と、その他に少数の者がいたでしょう。彼らもこのときは、イエスさまの言葉の意味がよく分かっていませんでした。よく分かっていないけれども、とにかくついていったのです。分からないけれども、イエスさまが永遠の命をもっておられ、神の聖者、すなわちキリストであることを信じて従って行く。ここに意味があるということです。彼らもイエスさまが十字架にかけられていく時につまずく。しかしそのあと、その彼らの所に復活されたイエスさまが来てくださる。永遠の命そのものを見せてくださる。そして天に昇って行かれるのを見る。神の憐れみを体験することになります。
 
   悪魔
 
 イエスさまがお選びになった12使徒。しかしイエスさまは、70節で「その中の一人は悪魔だ」とおっしゃいました。驚きです。そしてこれは、イスカリオテのユダの裏切りを知っておられたのであると福音書は書いています。「悪魔のようだ」と言われているのではなく、「悪魔だ」と言われています。きつい言葉です。しかし少し解説しておくと、悪魔と日本語に訳される言葉は聖書でいくつかありますが、ここで使われている「悪魔」という言葉は、「中傷する者」「訴える者」という意味の言葉です。イエスさまを誹謗中傷する者、訴える者だと。
 実は、「悪魔」と言われたのはイスカリオテのユダだけではありません。きょう「あなたは永遠の命をもっておられる」と言い、「あなたこそ神の聖者」とイエスさまに言ったペトロも、イエスさまから「サタン」すなわち悪魔と言われたことがあります。それは、マタイ福音書とマルコ福音書に書かれていることです。その前にペトロは、イエスさまについて「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と言いました。それに対してイエスさまは、ペトロに天国の鍵を授けるとおっしゃいました。そしてイエスさまは、続けてご自分の受難と復活のことを話されました。するとペトロは、「そんなことがあってはなりません」と言ってイエスさまをいさめました。するとイエスさまは「サタン、引き下がれ」とおっしゃったのです。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。
 イエスさまの十字架の死と復活なくしては、救いはないのです。それなしに救われるというのは、サタンの言うことであり、悪魔の誘惑であるのです。神の子であり人の子であるイエスさまが、その命を十字架上に献げられることなしには、私たちは救われない。私たちの罪というものはそれなしに救われるほど軽いものではないのです。
 しかし、イエスさまはすべてを投げ打って、十字架へと向かわれる。ご自分の命と引き換えに私たちを救うためにです。ご自分の肉の体、そして血をささげて下さるんです。そしてユダのことも見捨てられない。引き続きユダを弟子の一人に抱えたまま、十字架へ向かって歩んで行かれる。悔い改めを待っておられるのです。
 イエスさまの十字架の愛。復活による永遠の命。教会はこのキリスト・イエスさまを宣べ伝え続けます。創立記念日のきょう、その思いを新たにしたいと思います。


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