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2024年8月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記12章23
ヨハネによる福音書6章52〜59
●説教 「キリストをいただく」
平和聖日
本日は8月第1主日で、日本キリスト教団では「平和聖日」と定めています。昭和20年8月6日の広島の原爆記念日、9日の長崎の原爆記念日、そして15日の終戦記念日を覚えて、戦争の悲惨さを記憶するために、そして悔い改めのために定められたものです。しかし今日も世界各地で戦争が起きています。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(いずれもマタイ5章)とおっしゃられたイエスのみことばに、人間が本当に従うならば、戦争など起こりようがないはずです。しかし、人間はいまだにイエスさまの教えには聞き従いません。いわゆるキリスト教国と言われる国の大統領も同じです。そこには、ただいま読み続けているヨハネによる福音書に登場している人々と同じものがあります。自分たちの願いを聞いてくれる限りにおいて信じる。けれどもイエスさまのおっしゃる言葉をまじめに聞かない。同じです。しかしこれは他人事ではなく、私たち自身の問題でもあります。
生々しい印象
前回の最後の所をもう一度お読みいたします。51節です。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
このイエスさまの言葉に対する人々の反応が本日の聖書箇所です。52節です。‥‥"それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。"
しかし、この人々の反応はもっともではないでしょうか。イエスさまは、ご自分のことを天から降ってきたパンであるとおっしゃり、「このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」とおっしゃいました。しかもそのパンとは、「わたしの肉のことである」とおっしゃったのです。イエスさまの肉を食べるという。ですから人々が、驚いたのは当然のことでしょう。もしかしたら、これはなにかの間違いではないか、聞き間違いではないかとさえ思います。
ところがイエスさまは、それが聞き間違えでも誤解でもないということをはっきりさせるかのように、さらに踏み込んだ発言をなさったのです。53節〜55節を読んでみます。
"「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。"
これはもう聞き間違いなどではないことがはっきり分かります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」とはっきりおっしゃっている。しかも繰り返しおっしゃっています。イエスさまの肉が真の食べ物であり、イエスさまの血が真の飲み物だと。
これは次回の箇所になりますが、60節でイエスさまの弟子たちのうちの多くが言っています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
それはそうだろうと思います。人の肉を食べる、血を飲む、ということは、ありえないことだからです。さらにユダヤ人にとっては、動物の血であっても飲むということはタブーです。それが今日読んだ旧約聖書の申命記12章23節に書かれています。そこでは、羊や牛、鹿やカモシカを食べてもよいことが言われたあと、ただしその血を口に入れてはならないという掟が書かれています。なぜなら「血は命」であるからだと。だからユダヤ人は、動物の肉を食べるときは完全に血を抜いてからしか食べません。ですから彼らにとっては、イエスさまのおっしゃったことがグロテスクに感じたばかりか、さらに神の掟に真っ向から反するものだと聞こえたことでしょう。
しかしこの言葉には、彼らユダヤ人だけではなく、私たちもまたとまどいます。今の言葉で言えば、ドン引きしてしまうでしょう。まさか、本当にイエスさまの肉を喰らい、血を飲むということをおっしゃったのではないだろうが、それにしても生々しい表現に、うろたえてしまいます。なぜイエスさまは、そのように誤解を招くような言い方をなさったのでしょうか?
単なる教えではない
そのわけですが、考えてみますと、このような言い方をされると、もう忘れられませんね。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言われますと、忘れようとしても忘れられません。そういうインパクトがあります。
ここで考えてみたいのですが、多くの人は、宗教というと、どういうものだと思うかということです。宗教というものは、ありがたい教えを拝聴し、それを教訓として生きる‥‥そのように考えている人は多いのではないでしょうか。
これは宗教ではありませんが、たとえば学校のPTA主催の講演会。有名な教育評論家のような先生を講師として呼ぶことになります。そしてその先生がまことにすばらしいお話をされる。聞いているお父さんやお母さんたちも深く感銘を受ける。そして、「よし、これからはそのように子育てをしよう」と決心する。しかししばらくすると、実際にはそのように行かない。うまく行かないので子どもに当たったりする。それで三日坊主で終わる。‥‥そういうようなことはよくあることです。
聖書に登場するユダヤ人のユダヤ教でいえば、ユダヤ教は旧約聖書の律法を基にした律法主義です。教えを忠実に守ろうとする。がんばって神のおきてを守ろうとする。そのことによって魂が救われ、おきてを守ったことに対する神の報酬として永遠の命をもらえる。‥‥そういうことだと言えるでしょう。
イエスさまの教えも同じようなことなのでしょうか? ありがたい教えを拝聴し、それを実行しようとして務める。そうしてごほうびとして救われる。イエスさまは、そういうことではないとおっしゃりたいに違いありません。そういうことではないということを強調するために、あえて「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というリアルな話をされた。踏み込んで語られたのです。
イエス、神との一体化
今日の聖書箇所を読むと、イエス・キリストを信じる、ということは、単にその教えに従うということではないことが分かります。このヨハネによる福音書の15章5節にこのようなイエスさまの言葉が出てきます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」‥‥イエスさまがぶどうの木に、私たちがその枝にたとえられている。そして枝である私たちは、幹であるイエスさまにつながる。これは単にイエスさまの教えをありがたく拝聴する、ということとは違います。イエスさまという方が生きておられる方であり、そのイエスさまにつながるということが言われているのです。
今日の箇所でいうと、57節でイエスさまは「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」とおっしゃっています。イエスさまが父なる神によって生きていると。これは言い換えれば、イエスさまと父なる神さまが一つであるというほどにつながっているということでもあります。言葉を変えて言えば「三位一体」です。父なる神、イエスさま、そして聖霊なる神さまが、一つとなっている。それぞれ別人格であるけれども、愛によってひとつになっている。それが三位一体です。
そして私たちも、神への愛によって、イエスさまにつながり、その交わりに入れられ、一つのぶどうの木となるように招かれている。そういうことであると言えるでしょう。
聖餐式と十字架
本日はこのあと聖餐式があります。この聖餐式では、私がパンを手にして「これは私たちのために裂かれた主イエス・キリストの体です」と聖別の言葉を言い、信徒の皆さんに配ります。そしてそれを受け取って食べる。キリストの体であるパンを食べます。また杯に入ったぶどう酒(ジュース)を手にして「これは私たちのために流された主イエス・キリストの血潮です」と言って聖別し、信徒の皆さんに配ります。キリストの血を飲んでいるわけです。もちろんそれは実際にキリストの肉、そしてキリストの血であるわけではありませんが、それと等しい恵みをいただいているわけです。
しかしこのことは、パンと杯の中のぶどうジュース自体に、何か魔法のような力があるということではありません。つまり、聖餐式のパンを食べ杯を飲むならば、自動的に永遠の命を得られるということではありません。たとえば、聖餐式に使うパンをネズミがかじって食べたとしたら、そのネズミは永遠の命を得るのか?といえば、そうではありません。そこに信仰がなかったら、なんでもありません。
聖餐式が、イエスさまの十字架と復活を指し示すものであることは、キリスト者であれば誰でも知っていることです。聖餐のパンが、十字架にかかられたイエスさまの体を指し示し、聖餐の杯のぶどう酒が、十字架で流されたイエスさまの血潮を指し示す。そして先ほどの申命記12:23に書かれていたように、血は命です。つまりイエスさまが十字架にかかって、その命を私たちに与えてくださった。それによって私たちが生きること。そのことを聖餐式は指し示しています。そしてそれが今日の聖書箇所に重なっています。
イエスさまの教えが、単なる教えであったとしたら、イエスさまが十字架にかかる必要はなかったのです。イエスさまのありがたい教えを拝聴し、それを教訓として生きるというようなことで私たちが救われるのなら、イエスさまは十字架にかかる必要がなかった。しかし私たちには、神さまの教えを聞いて実行する力が無い。罪人なんです。その罪人である私たちを救うには、もはやイエスさま自身がその命を私たちに与えてくださるほかはない。そのことを今日の聖書は物語っています。
私たち罪人を救うために十字架にかかられるイエスさま。その命を受け取れ、とおっしゃるのです。
イエスによって生きる
食べるということに関係しますが、私たちの体は、生まれてからゆっくり年を取っていくように見えます。しかし、実は私たちの体を構成している細胞は、毎日死んでは新しく置き換えられているそうです。たとえば、皮膚は10歳代で約20日で新しく入れ替わる。20歳代で約28日周期、30歳代で約40日周期、40歳代で約55日周期、50歳代で約75日周期、60歳代で約100日周期で入れ替わるのだそうです。筋肉も、早い細胞は1ヶ月で約60%が入れ替わり、遅い細胞は約200日で入れ替わるのだそうです。血液は、100〜120日間で入れ替わる。骨は、幼児期は約1年半、成長期は約2年未満、成人は約2年半、70歳以上は約3年で入れ替わるそうです。脳・肝臓・腎臓なとは約1年で入れ替わるそうです。ですから、見た目は同じでも、1年もしたら私たちは全く新しい細胞に入れ替わっていることになります。それらの新しい細胞は、私たちが食べるものを材料にして、日々、新しく作られていることになります。そして古い細胞と置き換わる。
これは私たちの肉体の体のことですが、私たちの命、霊魂のほうはどうでしょうか。やはり私たちが取り込むものによって少しずつ新しく置き換わっているのではないか。たとえば、私たちが悪い言葉ばかり聞いていると悪くなり、良い言葉を聞いていると良くなる、ということがあるのではないでしょうか。それがイエスさまと付き合い、聖霊を受け、交わり、イエスさまと共に歩んで行くならば、それは今日の聖書のイエスさまを食べる、いただくということになるでしょう。それによって、私たちは中身が新しい人へと置き換わっていくのです。
使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙で書いています。(ガラテヤ2:20)"生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。"
わたしが若き日に大きな影響を受けた、アメリカ人宣教師のボストロム先生。先生はあるとき、おっしゃいました。またクリスチャンが迫害される時代が来るかも知れない。そのとき聖書を取り上げられてもいいように、新約聖書の暗記に取り組んでいると。そのとき先生は60歳ほどでした。それでも聖書の丸暗記に取り組んでいる。それはまるでみことばを読むというよりは、食べると言った方がよいものでした。つまりみことばを自分のものにする。先生のあの平安と謙遜は、そのようなところから生まれていると思った次第です。
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