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2024年7月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記24章9〜11
ヨハネによる福音書6章41〜51
●説教 「天来のパン」 小宮山 剛牧師
先週は、私が新型コロナウイルスに感染して発熱しまして、礼拝説教の原稿を役員さんに代わって読んでいただきました。先週日曜日の朝、体がだるいので熱を測ったら37℃以上ありました。そのようなときのために新型コロナウイルス用の抗原検査キットを買ってありましたので、検査したところみごとに陽性でした。前の日の土曜日まではなんともなかったので、説教準備は終わっていました。それを礼拝で代読していただいたという次第です。私の症状ですが、さいわい火曜日の朝はまだ微熱だったのですが、夕方には平熱に戻り、軽症で終わりました。
コロナが流行っている上に、毎日逗子とは思えないような暑さが続いていますので、熱中症のほうも気をつけなくてはならないという事態ですが、主が共に歩んで下さるということを感謝したいと思います。
議論によって神にたどり着けるか
本日もヨハネによる福音書から恵みを得たいと思います。
41節〜42節。"ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」"
イエスさまを王に担ぎ上げようとした人々が、イエスさまの言葉を聞いてつぶやき始めたと書かれています。イエスさまがご自分のことを、天から降ってきたパンであるというようなことをおっしゃった。しかし我々は、このイエスの父も母も知っている。イエスさまのお父さまやお母さま、つまりマリアを知っているということは、イエスさまの郷里のナザレの村の人たちがこの中にいたということでしょう。
ただいまオリンピックが始まりまして、しばらくの間多くの人がそれに関心を寄せることでしょう。そしてメダル候補の選手の地元では、パブリックビューイングに多くの人が集まって歓声を送るというような光景が見られることとなります。地元出身の選手が活躍するということは、地元の人にとっては自慢であり喜ばしいことのようです。イエスさまの郷里のナザレの人にとっても同じようであったのではないかと思います。とくにナザレというのは当時小さな村だったようで、ヨハネ福音書の1章では、ナタナエルがフィリポに向かって「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っているぐらいですから。そのようなナザレの村から、王になるような人がでるとなれば、これは村人にとっても名誉なことである。そういうこともあったのでしょう。
ところがそのイエスさまが、「わたしは天から降ってきたパンである」「子を見て信じる者を終わりの日に復活させる」というようなことをおっしゃる。いったい何を言い出すのか、という思いになったのではないでしょうか。おとなしく我々に担がれていればよいものを、何をおかしなことを言い出すのか、と。それで互いにつぶやき合った。
するとイエスさまは、「つぶやき合うのはやめなさい」(43節)とおっしゃいました。「つぶやく」というのは、ここでは、ぶつぶつ言うとか、不平を鳴らすという意味です。つぶやき合ったということですから、お互いにつぶやいた。人間の議論ですね。神さまの方を向いていないんです。神を求めようとして真剣に問うているのではない。ナザレの村の大工のヨセフのせがれが、どうして天の神のところから来たということになるのか、どうして永遠の命を与えることができるというのか?‥‥互いにつぶやいた。
ユダヤだけではなく、日本でも、おそらく世界のどこでも、むかしは現代よりもずっと宗教的な世界でした。神仏を信じるということは当たり前であり、人々は神や仏を拝み、神殿や神社によくお参りしていた。そして祭りや神事を軸にして、人々の生活が営まれていた。それが昔の時代です。ユダヤでも、人々はモーセの律法を守り、宗教家たちの教えるおきてを守り、安息日を守り、神を礼拝することを中心の生活をしていました。
しかし、イエスさまが来られたとき、人々はすなおにイエスさまを受け入れ、信じたかというとそうではありませんでした。イエスさまに言わせれば、旧約聖書に従って、その預言者の書に従って、神を信じてきたのなら、当然イエスさまが来られたときにイエスさまを受け入れるはずであった。しかしそうではなかった。それは、神を信じている生活をしているように見えて、実はそれが形式的な信仰になってしまっていたということであると思います。その結果、旧約聖書で神さまが預言者たちを通して示されてきたキリスト・イエスさまが来られたのに、受け入れることができなかった。
これは同時に、今の私たちに対する問題であると言えるでしょう。すなわち、今イエスさまが私たちの間に来られたとしたら、私たちはそれがイエスさまであることが果たして分かるだろうか?ということでもあります。
神が引き寄せてくださらなければ
イエスさまの44節の言葉です。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」
「わたしをお遣わしになった父」というのは、神さまのことです。神が引き寄せて下さらなければ、誰もイエスさまのもとへ来ることができないと言われます。ここを読んで疑問に思うことは、父なる神さまは誰でも引き寄せるのではないのか?ということです。父なる神が引き寄せて下さらなければ、ということは、父なる神さまは、ある人はイエスさまのもとに引き寄せるけれども、ある人は引き寄せられない、と平等ではないということなのか?と。つまり父なる神さまは、特定の人だけを選んで救われるのか、ということです。
話しは変わりますが、教団出版局からでている『信徒の友』8月号に、或る人の紹介が載っていました。それは静岡県の羊の舎(いえ)教会員のMさんという方です。このMさんのご両親は共にその教会の教会員であったそうです。しかし自分は教会に通うでもなく、洗礼を受けることもなかった。そしてお父さんが高齢になったとき、2度脳梗塞に見舞われたそうです。しかも2回目では重度の障害が残った。さらに認知症も加わったそうです。そのお父さんの介護で、礼拝の送迎をすることになったそうですが、お父さんが礼拝で献金のお祈りをした時、牧師の説教の内容をきちんと理解しての祈りだったそうです。認知症のお父さんが。それで衝撃を受けたのがきっかけで、親の介護というよりも自分の求道のために礼拝に通うようになり、洗礼を受けたということです。
先のイエスさまの言葉、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」このMさんの場合、いかがでしょうか。本人は神さまから引き寄せられたとは、当初思わなかったでしょう。それは私たちも同じだと思います。しかし後から振り返ってみて、やはり神さまの導きであったのだと思われる。
みんな神さまに招かれているんです。特定の人だけが選ばれて招かれているというのではない。しかし神の招きにあとになって気がつく。それが、イエスさまの父なる神さまが引き寄せて下さった、ということであろうと思います。ですから、44節の「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」という言葉は、「あなたがたは今、神を信じる世界へと招かれている。その招きに応えなさい」という意味であると言えます。そして45節では、神を信じた者はイエスさまのもとに来るということです。
父を見た者は一人もいない
46節でイエスさまは、「神を見た者は一人もいない」とおっしゃいます。神を見た者は一人もいない。
旧約聖書を読んでいますと、神を見たという人が時々出てきます。例えば、イスラエル民族のルーツであるヤコブ(イスラエル)。この人が、ある晩、何者かとすもうをとったというできごとがあります。創世記32章です。ヤコブはその人が神だと思ったんです。そしてこう言っています。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(創世記32:31)。しかし実は、ヤコブが神だと思った人は、神さまご自身ではなく御使い、天使だったのです。そのように、旧約聖書では、御使いを見たのに、それを神さまご自身であると勘違いしている箇所がいくつかあります。だから結局神を見た者は一人もいない。
もっとも神さまご自身に近づいたのは、アダムとエバを除けば、モーセであると言えるでしょう。出エジプト記24章では、神さまがモーセとアロン、ナダブとアビフ、そしてイスラエルの70人の長老たちをシナイ山にお招きになった時のことが書かれています。それは主なる神さまと、イスラエルの民との契約を締結するときのことでした。そうしてモーセをはじめとした人々が招かれてシナイ山に登って行って、神にお目にかかり、その前で食事をしました。そのときのことが今日もう一箇所読んだ聖書に書かれています。
「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされたので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」(出エジプト24:10〜11)
いかがでしょうか。神さまそのものの姿が書かれていません。やはり見ることができない。しかしたしかにそこにおられる。それが「御足の下」のサファイアの敷物のようなものです。見ることはできないが、たしかにそこにおられた。それを「神を見た」と言っている。神とお会いしたんです。
十戒の第2戒にこう書かれています。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」これは偶像礼拝の禁止と言われる条項です。真の神は、人間の肉眼の目に治まるような方ではない。あまりにも偉大すぎて、人間の理解できるような形にすることができない方である。だから、その神さまを形にして造ってはならないということでもあります。
では神さまは人間にはどうにもよく分からないかということになってしまいますが、そこでイエスさまがおっしゃった46節の言葉です。「神のもとから来たものだけが父を見たのである。」ここに神のもとから来られた方がいる。それがイエスさまであると言われます。イエスさまによって神さまが分かる。
その神さまが永遠の存在であることは、誰も疑問に思わないでしょう。というよりも、神さまだけが永遠であるということも誰もが思うでしょう。永遠なる方が神であるからです。したがって、永遠の命とは、その神さまにつながるということにほかなりません。
この世のことから神のことへ
私たちはこの世の中で生きているので、この世のことに思い煩うのは仕方がないことではあります。この世のものを得るために生きなくてはならないからです。ですから、この世のことばかりに目が行くというのも、ある意味仕方がないことです。そのことが、荒れ野で食べたマンナという食べ物にあらわれています。
神さまのこと、永遠の命というようなこと、それらのことよりも、とりあえず目のまえのパンのことである。それがこの時のイエスさまを王に担ぎ上げようとする人々の姿でした。そしてそれは、この人々に限らず、この世の多くの人々の姿でもあるでしょう。
神さまのことよりもとりあえず目のまえの現実と思うのは無理もない。しかし逆に、この世のことばかり考えていたら問題が解決するかと言えば、そうでもない。イエスさまはまず神の国と神の義を求めるように招いておられるのです。言ってみれば、そちらのほうが近道であるということです。天からのパンによって私たちが養われてこそ、この世を生きる道も見えてくる。そういう世界への招きです。
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