2024年7月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記8章2〜3 ヨハネによる福音書6章34〜40
●説教 「無条件の招き」
 
   天来のパン
 
 少年がささげた5つのパンと2匹の魚。それを受け取って多くの人々の空腹を満たすという奇跡をなさったイエスさま。人々は、そのイエスさまを王にしようとしました。そしてイエスさまとの対話が始まりました。ヨハネによる福音書の特徴は、そのようにイエスさまと人との対話をていねいに記しているところにあります。例えばマルコによる福音書のように、次から次へとイエスさまがなさったことの記録を書くというよりも、一つの奇跡を通して人々と会話をされたことについてくわしく書き留めています。
 そこに私たちの疑問や聞きたいことが重なってまいります。私たちがイエスさまと語り合っているような印象を与えてくれています。
 イエスさまがおおぜいの群衆の空腹を満たされたことによって、人々はなおもパンを、すなわち肉の糧を求めました。むかし出エジプトの時代に、荒れ野において毎日神さまが天からのマンナという食物を用意して、食べさせて下さったようにです。
 これは今日も同じではないでしょうか。多くの人は普通、神さまという方に、現世利益を求めます。この世の生活がうまくいくことを願います。人々がイエスさまに、毎日苦労しなくてもいいようにパンを求める。考えてみればそれは普通のことだと言えます。
 それに対してイエスさまは、そのような肉体のための食べ物、27節ではそれは「朽ちる食べ物」といわれていますが、それを求めるためではなく、永遠の命に至る食べ物、天からのパンのために働きなさいと言われました。
 そしてきょうの34節です。人々は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)とお願いします。そういたしますとイエスさまは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない」(35節)と言われました。人々は、このイエスさまの言葉が理解できなかったようです。イエスさまと人々の会話がかみ合わないんです。人々は肉体のおなかを満たす食物としてのパンのことを求めている。それは27節で言うところの「朽ちる食べ物」です。それに対して、イエスさまは朽ちることのない、永遠の命を与えるパンのことを話しておられる。イエスさまは次元の違う話をしているのですが、それが理解できない。それがこの会話です。
 
   肉の糧から命の糧へ
 
 人々が、肉の糧であるパンを求めるのも無理はありません。2千年前のこの時代、多くの庶民はその日暮らしのような生活をしていました。一度干ばつでも起きると、さらにきびしい状態に追い込まれました。旧約聖書のルツ記を見ましても、干ばつで飢饉が発生し、ナオミの一家は隣国のモアブの国へと移住しました。
 ですから、イエスさまが1万人にもなろうかというおおぜいの人々を食べさせたというできごとは、人々を熱狂させました。イエスさまを王に担ごうと。本当にそんなことをしたら、国家反逆罪となり、国は大混乱となります。しかしイエスさまのなさったことは、それほどのインパクトを与えたのです。それでイエスさまを王にしようとした。
 しかしイエスさまは、人々の要求を良しとはされませんでした。そして、肉の糧を求めることから、天からの糧を求めるようにうながされています。朽ちる食物から、真の命の食物を求めることへと導こうとされる。もちろん、イエスさまはこの世のことなどどうでもよいと言われるのではありません。どうでもよくないからこそ、少年のささげたパンを持って、多くの人々を養う奇跡をなさったのです。すなわち、肉体を養うパンを与えることのできる方が、天来のパンを求めるように諭しておられるのです。その天来のパンとは、朽ちる体のためのパンではなく、永遠の命を与えるパンです。
 そしてその天来のパンというのが、イエスさまご自身であると言われるのです。そしてそのイエスさまをこの世に遣わされたのが、天の父なる神であると言われる。そして父なる神の御心とは、子、すなわちイエスさまを見て信じる者が、みな永遠の命を得ることであり、終わりの日にその人たちを復活させることであるとおっしゃいます。
 
   信じることによって見えてくる
 
 30節に戻りますが、人々は「それでは私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と尋ねました。彼らにとっては、5つのパンと2匹の魚でおおぜいの群衆の空腹を満たしたことでは、まだ「しるし」ではないというわけです。彼らは毎日パンを与えてくれることを求めていたからです。自分たちの願うしるしを行ったら、見て信じると彼らは言っています。しかしイエスさまは、目の前にいる私こそ命のパンであり、神がお遣わしになったのであり、永遠の命を与える存在であると言われます。そのイエスさまが、今目の前に立っているのを見ているではないかと。
 戦後活躍した作家である椎名麟三が書いているエピソードですが、あるとき椎名は、ある雑誌社からグラビア写真を撮られるために故郷の神戸に行きました。ちょうどお金が無かったので、ほとんど無一文で出かけたそうです。切符や宿は雑誌社が用意してくれるからいいのですが、やはり現地では無一文というわけにはいかず、電報為替(古いですね)で現金を送ってもらうことにしたそうです。そして神戸の郵便局宛てに、電報為替を送ったという通知があったので取りに行きました。ところが郵便局員は、本人であることを証明する米穀通帳(これも古いですね)を持ってこいという。もっともな話だけれども、旅先にそんなものを持ってきていない。それで、名刺やら印鑑やら私が私であることを窓口でゴテゴテと並べだした。しかしやはりだめだった。それで椎名は途方に暮れて、局員に自分を指さしながら力をこめて言ったそうです。「ほんとうにこの私は本人なんですよ!椎名麟三に違いないんですよ!」しかし局員の人は、おかしな顔で椎名を見ただけだったと‥‥。(椎名麟三『私の聖書物語』)。
 椎名は、復活して弟子たちの前に現れたキリストを思い出したと書いています。しかしこの時のこの人々も、おかしな顔でイエスさまを見ていただろうと思います。人々は、イエスさまに対して、見てあなたを信じることができるように我々の願うしるしを見せてくれと言う。それに対してイエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃる。つまり今もうそのパンを見ているではないか、永遠の命を与える天来のパンを見ているではないかということです。
 彼らは見ているんですが、見えていない。自分たちの願い通りのしるしを見せてくれたら信じるという。しかし信仰とは、信じたら見えてくるという世界です。
 イエスさまを信じるという思いになったら洗礼を受けるわけですが、病床洗礼のような急を要する場合などを除いて、洗礼前には受洗準備会という学びの会をいたします。そしてそれが終わりますと、役員会に出席していただいて「受洗試問会」というものをいたします。「試問会」などと言いますと何か試験のようですが、うちの役員会の試問会はやさしいです。もっと厳しくしても良いかもしれないのですが。受洗志願者はかなり緊張されるようです。しかし最後に役員皆がその人のために順番に祈るんです。つまり神さまの助けと励ましを与えるわけです。
 私は今まで様々な方の受洗試問会をしてまいりましたが、忘れられない試問会があります。前任地の教会にいたとき、お母さんと3人のお子さんがいっしょに洗礼を受けるということがありました。そして、いつもの通り受洗試問会となりました。その中で、役員(幹事)の一人から「なぜ洗礼を受けようと思いましたか?」という質問がなされました。するとその子は満面の笑みを浮かべて「イエスさまのことが好きだから!」と、喜びあふれて言ったんです。これには幹事さんも皆ほんとうに笑顔になりました。これ以上に答えが必要でしょうか。彼女はイエスさまを見ていたんだと思います。もちろん、信仰の目によってです。
 
   無条件の招き
 
 イエスさまは、彼らを「信じる」という世界へ招いておられるんです。(35節)「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。」
 ここで言われる飢え渇きとは、肉体のための食べ物というよりも、むしろ魂の飢え渇きでしょう。もちろんイエスさまは、肉体のためのパンを食べさせることもおできになるのですが、ここでは永遠の命に至る食べ物(27節)ということですから、私たちの霊的な飢え渇き、魂の飢え渇きのことだと言えます。そうするとこれは、この福音書の4章に出てきたサマリアの女との対話に似ています。みなから後ろ指を指され、ウワサの対象にされ、人目を避けるように生きていたサマリアの女。つらく苦しい日々でしたでしょうが、生きなければならない。それで人目を避けて、昼間の郊外の井戸に水をくみに来た。そこでイエスさまとの対話が始まった。そして彼女は変えられました。町に帰って人々に「もしかしたらこの方がメシアかも知れません」(4:29)と触れて回るに至りました。そして町の多くの人がイエスさまを信じるに至りました。
 本日の37節で、イエスさまは「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」とおっしゃっています。イエスさまのところに来る人を決して追い出さない。救いを求めてくる人、イエスさまを求めて来る人を、イエスさまはすべて受け入れて下さると言われます。この私のような者でも、と感謝に思います。
 
   増田将平牧師
 
 先週、東京の青山教会の増田牧師が天の父なる神のもとに召されました。私よりも一回り以上若い後輩で、伝道の情熱に満ちた牧師でした。若い伝道者が私より先に神のみもとに行くというのは、とても寂しいことです。増田牧師は癌で闘病しておられました。入院して手術をし、それを繰り返す中、4月に退院し、青山教会の礼拝説教を務めておられました。そして去る6月30日の礼拝説教が最後となりました。それはYouTubeで配信されていて、私も視聴いたしました。
 増田牧師は車イスに乗って、講壇の上に上がることは難しいのでしょう、フロアに置かれた聖餐卓で説教をしておられました。その彼の最後の礼拝説教の聖書箇所は、ルカによる福音書10章の「善いサマリア人」と呼ばれるイエスさまのたとえ話の箇所でした。善いサマリア人のたとえ話は、ある律法の専門家がイエスさまを試そうとして「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねたことから始まっています。増田牧師の最後の礼拝説教箇所は、「永遠の命」について書かれている箇所であったのです。神は一人の伝道者をお召しになる前に、永遠の命の箇所を語らせた。感慨深く思います。
 律法の専門家は「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねました。そしてイエスさまの答えを聞いて、この律法の専門家はさらに質問しました。「では、私の隣人とはだれですか?」と。そこでイエスさまがたとえ話をお話しになったのが、「善いサマリア人」というたとえ話です。
 或る人が追いはぎに襲われて半殺しの状態となり道端に倒れていました。そこに3人の人が通りかかります。最初に神に仕える祭司。彼はその人を見ると道の向こう側を通って行きました。次にレビ人。これも神に仕える人です。彼も道の向こう側を通って行きました。関わりたくないということでしょう。最後に、あるサマリア人が通りかかった。サマリア人はユダヤ人と仲の悪い民族でした。しかしそのサマリア人は倒れている人を見て「憐れに思い」近寄って介抱し、自分のロバに乗せて宿屋まで運んでいきました‥‥。
 増田牧師は、ここで祭司とレビ人が倒れている人を避けて道の向こう側を通って行ったという、その「向こう側」に着目していました。「向こう側」というのは、人間が勝手に引いた線ではないか、と。私たちの世の中でも「あの人は川向こうの人だ」などと言って目に見えない線を引いたりする。しかしここに出てくる或るサマリア人にとっては、そのような線はない。ただ「憐れに思って」来てくださる。このサマリア人は、イエスさまのことだと。これは私もそう思います。
 人間は、勝手に他人との間に線を引こうとする。向こう側と区別しようとする。しかしイエスさまにはそのようなものはない。「憐れに思い」というギリシャ語は、内臓という言葉です。ご自分も苦しまれる。そのイエスさまが、私たちのことも憐れに思い、永遠の命、神の国へと招いてくださっている。そのことがあざやかに読み取ることができました。ありがとう、増田牧師と言わしてもらいます。


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