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2024年7月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記3章22〜24
ヨハネによる福音書6章22〜33
●説教 「神業の信仰」 小宮山 剛
イエスさまを捜し回る人々
本日もヨハネによる福音書の続きの箇所から、主の恵みを分かち合いたいと思います。イエスさまのところに集まって来た、男だけでも5千人、女性と子どもを入れるとおそらく1万人以上にもなろうかという群衆。イエスさまは、たった5つのパンと2匹の魚によって、その人々の空腹を満たすという奇跡をなさいました。すると人々はイエスさまを王にしようとしました。このようにおおぜいの人々を食べさせることができるならば、ぜひ王になってほしいと思った。しかしイエスさまは、それを知ってひとり山に退かれました。彼らのしようとしたことはイエスさまの御心ではなかったのです。
夜が明けて、人々はイエスさまを捜しました。舟が一そうしかなく、その舟にイエスさまの弟子たちが乗っていったことを知りましたが、しかしこちら側にはいない。それであちこち捜しまして、ガリラヤ湖の対岸のカファルナウムの町で、ようやくイエスさまを見つけました。イエスさまはカファルナウムの会堂におられたのでした(59節)。彼らはイエスさまが、湖の上を歩いて弟子たちの舟まで行かれたことを知りませんでした。
パンを求める人々
彼らがイエスさまに、「いつ、ここにおいでになったのですか?」と尋ねると、イエスさまが答えられました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
ここで「しるしを見たからではなく」とおっしゃっていますが、パン5つと魚2匹で大群衆を満腹にさせたというのは「しるし」、つまり奇跡ではなかったのでしょうか?彼らは「しるし」を見たからイエスさまを捜したのではないでしょうか?
このことについていいますと、ここで言われている「しるし」というのは、単なる不思議な現象ということではありません。イエスさまが神から遣わされたキリストであることを示す奇跡が「しるし」です。ですから、ここでイエスさまがおっしゃりたいことは「あなたがたは、あのしるしを理解したからわたしを捜しているのではなく、単にパンを食べて満腹したからだ」ということです。
昨日、イエスさまが1万人ほどの人々を満腹にさせたというできごとが、たった5つのパンと2匹の魚からなさった奇跡であるということを、群衆みんなが知っていたかどうかは分かりません。しかしとにかく、イエスさまはそんなにおおぜいの人々を十分食べさせることのできる方だということで、イエスさまを王にしようと捜していたことは事実です。しかしいずれにしろ、イエスさまのなさったことの真実の意味を理解しようとしない。彼らは、ただおなかを満たすパンを求めるだけです。
それでイエスさまはおっしゃいました。(27節)「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」
ことわっておきますと、イエスさまはおなかを満たす「朽ちる食べ物」、つまりパンのことなどどうでもよい、とおっしゃったのではありません。どうでもよくないからこそ、パンと魚の奇跡をなさったのです。イエスさまは人の子として来られました。そして庶民の一員として育ちました。庶民の生活をよくご存じでした。貧しいということはどういうことかをご存じでした。お金もなくなり、明日のパンに困るということもご存じであったでしょう。だからこそ、わずかのパンと魚で大勢の人のおなかを満たすという奇跡をなさったのです。言わば「朽ちる食べ物」の大切さをよくご存じだったのです。
しかし、そのように地上の朽ちる食べ物を与えることのできる方イエスさまは、なによりもまず天からのパン、すなわち「永遠の命に至る食べ物」のために働きなさいと言われました。「永遠の命に至る食べ物」とは、イエスさまが与える命のことです。この世で生きていくこと、すなわち食べ物や着る物を心配してくださるイエスさまは、神の国の永遠の命を求めるように招かれるのです。この世は過ぎていくからです。
イエスを信じることへと招く
27節の後半で「父である神が、人の子を認証されたからである」とおっしゃっています。この「認証する」という言葉のギリシャ語は「封印する」「印を押す」という意味の言葉です。皇帝や王様は指輪をはめていましたが、それが印鑑になっています。皇帝や王様がその印を押したならば、誰もその内容を変えることはできませんでした。ここでは、父である神が人の子であるイエスさまに全権を与えたという意味になります。
人々は(28節)「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか?」と尋ねました。するとイエスさまは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。
細かいことを申し上げますと、人々が言った「神の業」は複数形です。それに対してイエスさまが答えられた「神の業」という言葉は単数形になっています。すなわち人々は、どれほど多くの神の業をしたらよいかと尋ねている。それに対してイエスさまは、必要なのはただ一つの神の業だと答えておられる。そのただ一つの神の業が、「神がお遣わしになったものを信じること」だとおっしゃったのです。つまり、救われるためには、あれもこれもしなくてはならないのではなく、ただイエスさまを信じることだと。
そうしますと人々は、イエスさまを信じるために「しるし」を求めました。イスラエルの先祖が荒れ野でマンナを食べたようなしるしを求めたのです。ちなみに新約聖書ではギリシャ語風に「マンナ」となっていますが、旧約聖書では「マナ」です。むかしモーセの時代、奴隷とされていたエジプトの国を出て行ったイスラエルの民の先祖は、なにもない荒れ野でマナを食べて生きることができました。マナは、安息日を除く毎日、神さまが与えた食べ物です。人々はそれを拾って調理して食べました。そうして荒れ野の旅をしていくことができました。人々はそれを例に挙げて、そのようにいつも私たちにパンを食べさせてくれたら信じると言ったのです。
するとイエスさまは、天からのパンは、わたしの父、すなわち父なる神さまがお与えになるとおっしゃいました。それは命を与えるパンです。その命のパンとはイエスさまのことを指しています。これは次回の箇所となります。
第一に大切なことを見失うな
繰り返しますが、イエスさまは、この世のことなどどうでもよいとおっしゃったのではありません。マタイによる福音書でイエスさまが教えられたことを思い出してみましょう。
(マタイ6:31〜34)「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
食べる物、着る物、それが必要であることは父なる神がご存じである。しかしまず第一に、神の国と神の義を求めなさいと言われました。そうすれば、あなたに必要なものもすべて与えられるのだと。まず神の国と神の義を求めよ!と言われたのです。
人類史上、かつて食べること、生きることに心配のない時がありました。それは創世記2章に書かれている楽園、エデンの園に生きている間です。ではなぜそれを失ったのでしょうか?‥‥それは創世記第3章の物語が描いているように、人間が罪を犯したからです。神への愛、隣人への愛を失ったからです。そして、本日読んだ旧約聖書の創世記3章22〜24節に至ります。神は人間をエデンの園から追放し、命の木に至る道を閉ざされたのです。ケルビムという天使と、きらめく剣の炎がそれを表しています。
その閉ざされた命への道をふたたび開くために、イエスさまは来られたのです。罪人となった私たち人間は、もはや自力では命に至ることができないのです。ではどうしたらよいのか?‥‥それがイエスさまがおっしゃった言葉です。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
しかし彼らは、この世のパンを荒野で降ったマナのように毎日食べさせてくれるならば、信じるという。あいかわらず、彼らの納得する「しるし」を見せろと言っています。なかなかイエスさまを信じない。自分たちの求めることを行えというわけです。
少年のお弁当
しかし、実は6章から始まったこれら一連のできごとの中で、イエスさまを信じた人がいます。それは誰なのかお分かりになりますか?‥‥少年です。この男の子は、自分のたいせつなお弁当をイエスさまに差し出しました。大麦のパンとあることから、貧しい庶民の一員であったようです。5つのパンと2匹の魚のお弁当。兄弟か、友だちの分も含まれていたのかも知れません。けれどもこの子は、イエスさまと弟子たちの会話を聞いて、困っている様子が分かったのでしょう。子どもにとってお弁当は楽しみであり、大切なものです。自分の大切な、大切なお弁当を提供した。自分は食べなくてもいい。またこんな少しでは、焼け石に水かも知れない。しかしこの子は、みんなのために差し出した。イエスさまにささげたら、なんとかしてくださると信じたに違いありません。
今日の聖書箇所の23節に、イエスさまが奇跡をなさった場所について、「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と書かれています。「5つのパンと2匹の魚で奇跡をなさった場所」と書くのではなく、感謝の祈りを強調しています。なぜでしょうか? ちょっと変にも見えます。しかし、ここにヒントがあると思うのです。主イエスが、少年の提供したパンと魚を感謝したことを強調している。この男の子は、しるしを見ないで信じているんです。イエスさまを信じてささげています。大群衆の中で、この子だけです。一人この子がいたんです。イエスさまは、それをたいへん喜ばれ、感謝をされた。それで23節では「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と、感謝」を強調している。
お弁当を持っていたのは、この少年だけではなかったと思います。ほかにもお弁当を持っている大人もいたと思います。しかしそれらの大人たちは、誰もイエスさまに差し出さなかった。そう考えると、この少年の信仰が際立っています。
三浦綾子さんの本より
三浦綾子さんの『丘の上の邂逅』という本の中に、こういうエピソードが書かれていました。あるとき、三浦綾子さんの弟の小学校一年生の娘、つまり姪が学校から帰ってきて話をしました。直子という名前です。「きょう学校でお金のことを話した」と。それは先生が「みんなが幸せになるのに、お金が大事だと言われていますが、本当に大事かどうか、よく考えてみましょう」と言った。そして班ごとに分かれて話しあったのだそうです。そして直子ちゃん「幸せになるのにお金よりももっと大事なものがあるのではないですかって、みんなに言ったの。それはね、やさしい心のほうが幸せになるのに大事だと思ったからね。そしたら班の人みんなが、そうだ、そうだと賛成してくれたの」と言ったそうです。直子ちゃんの班ではそのように決まった。それでそのことをみんなに言った。そしたら、直子ちゃんのよきライバルである女の子が次のように言ったというのです。「あのね、直子ちゃんのいうことは本当です。いつか、お友だちが絵の具のふたをなくして困っていたら、直子ちゃんが自分のふたをそのお友だちにやりました。そしたら、きっと直子ちゃんは困ったと思います。でも直子ちゃんは、作文が佳作に入って、市長さんから立派な絵の具やパレットをもらいました。やっぱりやさしい心は幸せになるのにお金より大事です」と言ったのだそうです。それでクラスの人がみんな、お金より、やさしい心が大切だということに賛成したと。
小学校一年生ですよ。すばらしいですね。三浦綾子さんはそれを聞いて、絵の具のふたを友だちにあげたとき、お母さんに叱られると思わなかったの?と聞くと、直子ちゃんはこう答えたそうです。「うちのお母さんは、困った人に親切にしてあげたのだから叱らないと思ったもの」と。
その直子ちゃんのお母さん、つまり三浦綾子さんの弟の奥さんもクリスチャンだそうです。
神さまを信じる、イエスさまを信じるというのはこういうことだと思いました。5つのパンと2匹の魚のお弁当をイエスさまに託した少年。1万人もの群衆の中に、ひとりいたんです。イエスさまを信じた人が。それはこの少年です。その少年の提供した大切なお弁当。それをイエスさまはどれほど喜ばれたか。それが23節の「主が感謝の祈りをとなえられた」場所という記述にあらわれています。
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