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2024年6月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上17章15〜16
ヨハネによる福音書6章1〜15
●説教 「少年の食事」小宮山剛牧師
4福音書に記されている奇跡
先週の月曜日から水曜日まで、「牧師のための献身修養会」に参加するため札幌に行ってきました。皆さんの中には、「小宮山牧師は何をしに札幌へ行ったんだろうか?ジンギスカンでも食べに行くんじゃないか?」と思った方もいるかどうか分かりませんが、たしかにジンギスカンも食べましたが、そちらが目的ではありません。聖書のみことばについて黙想して、その恵みを分かちあったり、日本の伝道について考えて祈ったりと、そういう時を過ごしました。その中で、同じ聖書箇所を皆がじっくりと読んで、与えられた恵みを分かちあう時間がありましたが、同じ聖書箇所を読んでも、牧師によって感じ方、または目の付け所が違うことがよく分かりました。その中で、自分には気がつかなかった恵みを与えられるという経験もいたしました。
このことは、聖書の福音書を書いた弟子たちについても言えることだと思います。本日の聖書箇所は、一般に「5千人の給食」あるいは「5つのパンと2匹の魚」と呼ばれる箇所です。5千人と言いますが、実は男が5千人ということであって、実際にはほかに女性や子どもがいたはずですので、もっと多くの人がこの場にいたと思います。では、なぜ男の数だけ書かれているかというと、旧約聖書を見ても分かるのですが、当時は女性や子どもの数は数えないことになっていたからです。
それはともかくとして、この「5千人の給食」の奇跡の出来事は、新約聖書の4つの福音書すべてに書き記されています。ヨハネによる福音書は、福音書の中でも最後に書かれた福音書です。基本的に他の福音書が記録していることは書かずに、それ以外のことを書いているということは前にも申し上げました。しかしこのいわゆる「5千人の給食」の出来事は、4つの福音書すべてに書かれています。珍しいことです。4つの福音書すべてにこの出来事が書かれているということは、この出来事がたいへん印象的であったということでしょう。同時に、「5千人の給食」の出来事でも、ヨハネによる福音書は、他の福音書に書かれていない事実も記録しています。ということは、そこにヨハネの伝えたいことがあったと言うこともできます。
注目点
それでは、ヨハネ福音書に書かれているが、他の3つの福音書に書かれていない事実は何か?
それはまず第一に、奇跡の前に、イエスさまが弟子のフィリポに質問をしていることです。第二に、弟子のひとりであるアンデレと共に、少年が登場している点です。第三に、人々がイエスさまを王に担ぎ上げようとしたという点です。このうち第三の点は次回につながることですので今日は取り上げません。最初の2つの点に注目したいと思います。
まず本日の出来事は、おおぜいの群衆がイエスさまの後を追ってきたというところから始まります。それは「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(2節)と書かれています。イエスさまが病気の人たちをお癒やしになった。そのしるし、つまり奇跡を見て、人々がイエスさまのところに押し寄せてきた。この気持ちはよくわかります。2千年前、医学が未発達の時代です。人々は病気の前にほとんどなすすべがありませんでした。平均寿命が40歳ほどと言われる時代です。多くの人々は高齢になる前に、病気で死んでいきました。ですから、イエスさまが病気を癒やされると聞いて、人々がイエスさまを求めてきたという切実な思いはよく分かります。
この出来事のルカによる福音書のほうを見ると、こう書かれています。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」ルカという人は医者でした。ですから、イエスさまが治療の必要な病人を癒されたということに注目して書いています。そして人々に神の国のことを教えられた。そうするとだいぶ時間が経ってしまったようです。マタイによる福音書には、次のように書かれています。
(マタイ 14:15〜16)"夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」"
つまり、弟子たちは群衆を解散させようとしたのですね。夕方になってお腹も空いた。解散させれば、めいめい食べ物を買いに行くでしょうと。それに対してイエスさまは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とおっしゃる。弟子たちの驚いた顔が目に浮かびます。そしてヨハネ福音書につながります。それがフィリポへの問いです。イエスさまはフィリポに問いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」
これはフィリポを試みるためであったと書かれています。試みる、すなわちテストするためであった。テストというと、あまり良い印象をお持ちではない方が多いでしょう。学校の試験を思い出します。イエスさまがフィリポをテストするためにこのように質問なさった。イエスさまがテストするって、なんだかなあ〜、と思われる方もいるでしょう。しかしイエスさまのテストと、この世のテストの違いがあります。それはこの世のテストは、合格するか落ちるかを決めるためにテストされることが多いわけですが、イエスさまのテストは、たいせつなことを教えるためになさるという点です。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」と、イエスさまはフィリポに尋ねました。するとフィリポは答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。彼はまじめに計算したんです。最初のほうで申し上げたように、女性や子どもを含めて実際には約1万人として、1デナリオンは労働者の1日の賃金の額。およそ1万円といたしましょう。200デナリオンなら200万円です。200万円÷1万人は200円。一人あたま200円のパンでは確かに足りない。しかしイエスさまの質問は、「どこでパンを買えばよいか」でした。「いくらあればパンが買えるか」ではありませんでした。しかしフィリポは、200デナリオン分のパンでも足りないと答えて、金額のことを言っています。つまり、どこでパンを買うということ以前に、もうそれは絶対無理と言っているんです。「どこで」買うという以前に、そんなお金持っていませんよと。あきれているとも言えます。
しかしこのフィリポの答えは、普通の答えのように思われます。ふつう考えて、そういうことになるに決まっています。
アンデレと少年
するとヨハネ福音書では、そこに弟子のアンデレが登場いたします。しかも少年を連れて来ます。そして言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」他の福音書では、5つのパンと2匹の魚を持っていた人がだれなのかは書かれていませんでしたが、ヨハネ福音書を読むと、それは少年が持っていたことが分かります。
少年が持っていたこの5つのパンと2匹の魚は、なぜ持っていたのでしょうか?推測するに、おそらくお弁当だと思います。しかもヨハネ福音書は、そのパンが大麦のパンであったことを明らかにしています。大麦で作ったパン、とくに昔の品種のものは、小麦で作ったパンに比べておいしくないそうです。だから安い。少年の家は貧しかったのかもしれません。つまり有り余る中から持ってきたのではないということが推測されます。たいせつなお弁当なんです。
それから魚。これは生魚であるはずがありません。腐ってしまうからです。ですから、焼いた魚か、あるいはもっとありそうなのは干物の魚です。魚をおいしく食べるというと、刺身のように生で食べることと思っている人は多いですが、干物もおいしいです。私どもが輪島におりました時に、毎日漁師町からおばちゃんがリヤカーで魚を売りに来るんです。そのリヤカーには、生の魚だけではなく、干物もたくさんぶら下がっているんです。これがおばちゃんによって味が違うんですね。塩の付け方、醤油や調味料の付け方が違っていました。そしてそれがまことにうまいんです。魚の種類で言うと、はちめ、それからフグやカレイなどが実においしいです。話はそれましたが、この少年が持っていた干物の魚は、もっと完全に乾燥させた干物であったかもしれません。
余分な心配をするんですが、パンと魚は書かれているけれども、水はどうしたのか?と思う人もいるかもしれません。水はですね、たぶんみんな持っていたんだと思います。私がイスラエルに行った時、夏でしたが、現地のガイドさんが、のどが渇かなくても1時間おきに水を飲めと言いました。イスラエルの多くの場所は乾燥地帯ですから、自然に水分が蒸発してしまうんですね。だから気がつかないうちに脱水症状となる。だから意識的に水を飲めというわけです。ところがエルサレムの町の中を歩いている途中に、うかつにもペットボトルの水がなくなってしまった。それでどこかで買おうかと相談していたら、道端にたむろしていた、あれはおそらくアラブ人だと思いますが、男の人がさっとペットボトルの水を差し出したんですね。くれたんです。全然見ず知らずの外国人の私たちに対して。本当に親切だなと思いました。日本でそんな親切な人、現代ではあまりいないと思います。自分は他にも持っているから、持って行けということでしょう。お礼を言ってありがたく受け取りました。そんな具合ですから、イエスさまの時代も多くの人は水を持っていたのだと思います。
さて、アンデレはその少年をイエスさまの前に連れて来て言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
この翻訳で言うと、「なんの役にも立たないでしょう」となっています。焼け石に水ですね、と言っているように聞こえますが、他の聖書の訳も同じように日本語に訳しています。私は、ちょっと違うと思っています。直訳するとこうなります。「けれども、こんなに大勢の人に対して、それは何でしょうか?」。これは「何かできるでしょうか?」と、イエスさまにまじめに尋ねている問いとしても訳すことができるんです。そうするとつじつまが合います。また、アンデレは5つのパンと2匹の魚を持っている少年を見つけて無理に連れてきて言っているのではないでしょう。おそらくこの少年が、自分のお弁当であるその5つのパンと2匹の魚を、もしかしたら役に立つかもと思って、近くにいたアンデレに差し出したのでしょう。そしてアンデレは、イエスさまに「何かできるでしょうか?」と、イエスさまに期待して言った。そのように考えることもできるのです。アンデレはイエスさまにちょっと期待している。
感謝の祈りと奇跡
するとイエスさまは、群衆を座らせて、少年の提供した5つのパンと2匹の魚を受け取って、父なる神さまに感謝の祈りをささげました。約1万人の人々に対して、大麦のパンが5つと魚が2匹だけ。まさに焼け石に水どころの騒ぎではない。なんの役にも立たないように見える。しかしイエスさまは、それを受け取って、神に感謝をささげられた。人間の目から見たら、とても感謝できるような量ではありません。しかしイエスさまは感謝をささげられた。たいへん印象的です。
イエスさまは、ものの量を見たのではないんです。パンがたったの5つ、というふうに見られたのではない。少年が、自分のお弁当全部をイエスさまにささげた。その心を見られたんです。言い換えれば、少年の愛と信仰を見られたんです。その愛と信仰を感謝して受け取られたのです。そして奇跡をなさったのです。人間の計算では、焼け石に水です。しかしイエスさまから見たら、それは尊い、かけがえのない行為であったのです。そしてそれをもとにイエスさまは奇跡をなさるのです。
パンはイエスさまの手の中で、尽きることなく増えていきました。魚も同じです。奇跡です。パンと魚は、イエスさまから弟子たちに、そして弟子たちから人々へ、さらに人々から人々へと手渡されていったことでしょう。喜びの食事が始まりました。しかも残ったパンくずを集めると、12の籠がいっぱいになったと書かれています。みんな満腹したんです。もっと食べたいけれどもがまんしたのではありません。有り余ったのです。食べきれないほどに。なんとも喜ばしいことです。お弁当をささげた少年も食べたでしょう。自分がささげたものが、1万倍にもなって用いられたんです。喜びがあふれたでしょう。
イエスさまは、一人芝居をなさろうとはしません。もちろんイエスさまなら、ささげられた物がなくても、もしかしたら石ころからでもパンに変えることがおできになったかもしれません。しかし一人芝居をなさろうとはしません。私たち小さなものと共になさろうとします。神さまのすばらしさ、信仰のすばらしさを教えるためです。イエスさまのなさる奇跡を共に体験し、喜びに満たされるためです。
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