2024年6月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記18章15
    ヨハネによる福音書5章41〜47
●説教 「愛を神に」 小宮山 剛牧師
 
   能登訪問
 
 先週は、逗子教会を代表して4名で能登半島地震被災教会をお訪ねする旅に行ってまいりました。この礼拝に続いて、少し時間をいただいて報告をいたします。テレビなどの報道で見るよりも、はるかに大きな被害であるという印象でした。私にとりまして、輪島は伝道者として最初に遣わされた地です。その輪島の町を歩いてみますと、あの人の家が失われ、あの人の家が倒壊している。そして教会が全壊となっている。6か月前の震災直後の映像と、ほとんど変わっていません。そして観光客はもちろんいませんし、町の人もほとんど表を歩いていない。閑散としていました。今も多くの人々が避難生活をしている。その震災の中で痛々しい姿を見せている町の光景に、胸が痛みました。
 そのような中、輪島教会の礼拝に出席しました。10畳ほどの小さなスペースは満員となりました。そして賛美が歌われ聖書が読まれ、説教がなされる。私はひどく感動いたしました。この痛々しい被災地で賛美が歌われ神を礼拝している。これは町にとっても希望であると思いました。もちろん輪島教会は小さな群れであり、輪島市全体から見たら無視できるような小さな存在です。しかし今、震災の中にあって、この小さな群れが日曜日の朝、神を賛美して礼拝している。ここに町の希望があると思いました。
 私たちも同じではないでしょうか。私たちも、決して何不自由なく暮らしているし、すべて順調に生活しているのではない。いろいろな不安を抱え、また厳しい現実の中に置かれ、中には苦しみや試練の中に置かれている人もいます。しかしそういう中で、共に神を礼拝し、賛美を歌っている。これは奇跡ではありませんか。ここにこそ希望がある。この礼拝こそがわたしたちを支えている。そのように言うことができます。
 
   神への愛
 
 本日の聖書箇所の中で、イエスさまがおっしゃっています。(42節)「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」
 「あなたたちのうちに神への愛がない」。これは、イエスさまを拒絶し、イエスさまを死刑にしようとたくらんでいる人々に対しておっしゃった言葉です。「神への愛がない」。「神への愛」、世の中の多くの人々は、この言葉を聞いてもピンとこないのではないでしょうか。神を愛する、ということは思いつきもしなかったのではないでしょうか。なぜなら、一般には、神というものは信じるもの、拝む対象であると考えられているからです。あるいは、ご利益をもたらしてくれる存在だと思われているからです。
 たとえば、商売繁盛を期待して、ある神社にお参りをする。しかし友だちから「あっちの神社の神さまのほうが御利益があるよ」などと言われると、簡単に神さまを乗り換える。そのように簡単に神さまを乗り換えるということになりますと、それはその神さまを愛しているということではないわけです。神は、単に願いをかなえてくれる存在であり、また穢れから清めてくれる存在であると多くの人は見ています。
 しかしイエスさまは、「神への愛」とおっしゃいました。神さまを愛する。つまり単にご利益をもたらせてくれる存在という関係ではなく、神さまとの人格的な関係を言っておられるのです。たしかに、私たちクリスチャンは、神を愛するという言葉は知っています。たとえばマタイによる福音書22章36〜40節に次のように書かれています。
(マタイ22:36〜40)"「(ある律法の専門家が)先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」"
 そのように、心を尽くして神を愛すること、それと同時に隣人を自分のように愛すること、この二つが聖書の説く掟であること。このことはクリスチャンならば誰でも知っていることです。しかし改めて今日の42節の言葉を読むと、ドキッとするところがあるのではないでしょうか。我々も「神への愛」が本当にあるだろうかと。もしかしたら、私たちも、神さまという方を、単にご利益をもたらせてくれ存在として信じるということになっていないだろうか。
 私は、戦後活躍した作家の椎名麟三が書いていたことを思い出します。
"もしあなたが、誰かから求愛されて、「ぼくがあなたを愛するのは、あなたの顔が美しいせいですよ。嘘だと思うならA子さんとくらべてごらんなさい。第二にぼくがあなたを愛するのは、あなたがそろばんがうまいせいですよ、何百人といるうちの会社で第五位なんですからね。ぼくのあなたを愛する第三の理由は、これはとてもすばらしいものなんだ。それはB君があなたのことを批評して、頭がいいと言ったせいなんだ。」といわれたらどうだろう。むろんどの理由もあなたをほめているのだから嬉しいという気がなさるだろう。しかしきっと心の奥の方では、この人は本当にはわたしを愛していないのだという空虚なものを感じられるに違いないことも確実なのである。愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものなのであるからだ。"(椎名麟三、『私の聖書物語』中公文庫)
 愛はどんな理由も必要としないもの。たしかにその通りだと思います。そうすると、「ご利益を期待して愛する」というのは愛ではないことがわかります。
 
   まず神の愛
 
 ではなぜ私たちが、目に見えない神を愛するということが可能なのか。たとえば、子どもが親を愛するという場合、なぜ愛するのでしょうか?親の死を看取る時、せつない思いがするのはなぜでしょうか?‥‥それは、まず親が子を愛したからではないでしょうか。もちろん、そのような親ばかりではないことは知っております。中には子どもを虐待したりする親もいます。それはたいへん不幸なことです。しかし、子どもが親を愛せるとしたら、それは親がまず子どもを愛したからに違いありません。
 神さまと私たちの関係ではどうでしょうか?この福音書を書いたのと同じ使徒ヨハネが、次のように書いています。
(1ヨハネ 4:10〜11)"わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。"
 「御子」というのはイエスさまのことです。そして「罪を償ういけにえとして」というのは、神の御子であるイエスさまが、十字架で私たちの罪を償ってくださったことを指しています。私たちの罪を償うために、神の子イエスさまがご自分の命を献げてくださった。それが十字架です。この私たちを救うために。ご自分の命を投げ打たれた。これは真実の愛です。
 まず先に、神の私たちに対する愛がある。イエスさまの私たちに対する愛がある。私たちは、神に愛されて造られました。そしてこの世に生まれました。そのように、神の愛がまず私たちに注がれているということです。これらのことを知るんです。ですから、親がひどい親であったという人も、神を知ってほしいと思います。神の愛があったことを知ってほしい。あなたも私も、神に愛されて生まれてきたことをです。そして、神の御子イエスさまが、あなたを、私を救うために十字架で命を捨ててくださった。その愛があるのだということをです。
 本日のイエスさまの言葉から、本当の信仰というものは、神への愛であることを教えられます。ご利益を期待しての取り引きではありません。ヨハネ福音書では、次のように書かれています。
(ヨハネ 17:3)"永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。"
 神を知る。神の愛を知る。知るというのは交わりのことです。そこに永遠の命があると言われています。
 
   誉れ
 
 イエスさまは、きょうの言葉を、ユダヤ人の指導者たちに言っておられます。彼らはファリサイ派であり、律法の専門家たちです。人々にモーセの律法、すなわち神の掟を教え、指導している人たちです。いわば、もっとも神さまに近いと思われていた人たちです。しかしその人たちについて、イエスさまは「あなたたちの内には神への愛がない」とおっしゃる。
 ではどういう動機で彼らは神を信じているかということについて、イエスさまは44節でおっしゃっておられます。‥‥「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
 彼らは人間の誉れを受けようとしていると。「誉れ」という言葉は、ギリシャ語では他に「栄光」とか「評価」とか「賞賛」という意味があります。彼らは神からの誉れを求めているのではなく、人間からの誉れや賞賛を受けようとして宗教活動をしているということを見抜いておられるのです。
 こんにち、インターネットの「フェスブック」とか「X」などのSNSサイトによって、誹謗中傷を受けるということが問題となっています。たとえば、交通事故で妻と子どもを亡くした被害者が、どういうわけか誹謗中傷を受ける、汚い言葉でののしられるということが問題となりました。加害者ではなく、被害者が誹謗中傷をネットに書き込まれる。匿名の人によって。どうして被害者が中傷されるかというと、その被害者の言葉が、一部の人の気に入らなかったのでしょう。そしてその被害者の人の悪口をネットに書き込む。するとそれを見た人が、「いいね」のマークを付ける。つまり同意を表す人が現れる。すると書き込んだ人は気分を良くして、さらに被害者を中傷することを書き込む。するとさらに「いいね」の数が増える‥‥。そうしてエスカレートしていく。さらに、被害者を中傷をする人が増えていく‥‥。そういうことだそうです。つまり「いいね」と、同調してくれることが快感になっていくわけです。こういうのを「承認欲求」というのだそうです。つまり、他人から認められたいという欲求を満たすために、ある人を中傷する書き込みをするわけです。
 書き込まれた方は、書き込んだ人がだれかも分からない。そしてそれが増殖していく。それで非常に苦しむことになります。中には自殺をする人もいるのです。これが今、社会問題となっています。
 聖書に戻りまして、彼ら宗教指導者たちも同じです。モーセの律法をきびしく解釈して、戒律をきびしくする。そして人々を取り締まる。するとそれを賞賛する人々が現れる。評価されるわけです。するといい気になって、さらに戒律を厳格にする。そして取り締まる。ますます過激化する。人から誉れを受けようと、エスカレートしていく。そしてついには、神の子であるイエスさまが来られたのに、自分たちの基準に合わないからといって、排除しようとする。それもエスカレートしていく。神を忠実に信じているという者たちが、神の御子を迫害する。本質が見えなくなるのです。本末転倒です。
 彼らの拠り所であるモーセの律法。モーセは旧約聖書第一の預言者であり、神さまから律法という神の掟を授かりました。しかし彼らは、まさにそのモーセの意図から外れていってしまったのです。そのことをイエスさまはおっしゃっているのです。
 (46節)「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」
 あのモーセは、イエスさまを指し示していたとおっしゃっています。今日読んだ旧約聖書は、申命記18章15節です。こう書いてありました。モーセの言葉です。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」‥‥この「わたしのような預言者」というのが、やがて来たりたもうイエスさまのことを予言していると言われています。
 
   神からの誉れ
 
 いっぽう、神からの誉れを求める。幼い子どもは、親からほめられるとうれしいものです。そして元気になります。親の愛の中で、そのように思います。私たちは、まず神さまから愛されている。その神の愛の中で、私たちも神を愛する。神を愛することを喜んでくださる方がいる。そのことを心に留めつつ、歩んで行きたいと思います。


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