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2024年6月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編45編7〜8
ヨハネによる福音書5章31〜40
●説教 「聖書の真実」 小宮山 剛牧師
花の日・子どもの日
本日は、プロテスタント教会では「花の日・子どもの日」です。花の日なのか、子どもの日なのか、いったいどっちなんだと思えますが、この行事は19世紀のアメリカの教会で始まっています。そして実はこの日は、子どもに献身を促す日として始まりました。献身、それは神さまに我が身を献げるということですね。そして献身のしるしとして、野に咲く花を摘んできて、各方面に配るということをしたのです。
子どもに献身を促す。そのためには大人が献身していなければなりません。ですから、私たちは神さまに自分を献げるという思いを新たにする日でもあります。
証し
さて、本日のヨハネによる福音書ですが、「証し」という言葉が多く出てきています。イエスさまが、証しということについて語っておられます。「証し」というのは、裁判の時に使われる言葉で「証言」という意味です。教会では神の存在、神さまの働きを証言することを証しと言います。
私は、証しによって信仰へと導かれました。ある方から、私が説教の中でよく榎本保郎先生のことを話すと言われましたが、たしかにそうかもしれません。私は榎本先生に会ったことはないのですが、私を拾ってくれて一緒に仕事をするようになったクリスチャンの社長が、榎本先生の主催するアシュラムの集会によく出かけていたようでして、榎本先生の説教のカセットテープや本を貸してくれたのです。榎本先生の書かれた「ちいろば」という本もそうですが、榎本先生は説教の中でよく証しをされるんですね。そういうのを聞いたり読んだりして、「ああ、神さまとかイエスさまとか、生きて働いているんだなあ」と思うようになったんです。
そのことから、私が子どもの頃からよく母から聞かされて来たこと、すなわち1歳の時に私が病気で死にそうになり、医者から見放されたけれども教会の牧師先生が来て祈ってくださったことによって治ったという出来事が、これも本当に神さまの働きだったんだということが分かったのでした。イエスさまという方は、過去の歴史上の人物ではない。今も生きて働いておられる。そういうことは聖書に書かれていることですが、証しによって聖書の言葉が生きてきたという経験をしたのでした。
人間の証しは受けない
しかし今日の聖書箇所の34節で、イエスさまは「わたしは人間による証しは受けない」とおっしゃっています。そうすると、証しによって導かれて来た私などはどうしたものかと思うわけです。しかしここでイエスさまが言われる証しとは、イエスさまが神の子であり神であるということの証しのことです。それはこの前の所の箇所から続いていることから分かります。
イエスさまという方が、どのような方なのかということについて、人間はそれぞれいろいろな見方をいたします。たとえば、イエスとはキリスト教の開祖であるというのが一般的な説明でしょう。お釈迦様が仏教の開祖であり、マホメットがイスラム教の開祖であるように、イエスとはキリスト教の開祖である。あるいはイエスとは高潔な道徳を説いた人だと言われます。たとえば「あなたの敵を愛しなさい」という教えを説いた。そういう人だという説明もあります。これらは間違っていないかもしれませんが、イエスさまの本質ではありません。
あるいは学生運動はなやかなりし時代には、イエスは差別された者、抑圧されている者を解放するために立ち上がった社会変革家であり革命家であるということを言った人たちもいました。
またイエスさまの時代には、この5章にも出てきましたが、イエスは神を冒涜する者だと烙印を押した人たちもいました。ユダヤ人指導者である祭司長や律法学者たちです。またイエスさまをメシア=キリストであると信じる人たちはちゃんと分かっていたかというと、そうではなく、その場合のメシアというのは、今は落ちぶれているユダヤの国を、かつてのダビデ王の時のように再興してくれる人であると考えていました。
それらが人間の考えたイエスさまでした。しかし、これでは十字架がちゃんと説明できません。これらの考え方では、イエスさまが十字架にかけられて死なれたことは、挫折や失敗であったということになってしまいます。目的半ばで、不幸にもとらえられ、十字架にかけられて殺されてしまった‥‥と。そしてイエスは過去の人ということになります。復活が意味をなさなくなります。
しかし、聖書の告げる事実は復活によって十字架の本当の意味が明らかにされたということです。
ヨハネがともし火
そのように、人間が、人間の考えでイエスさまを評価することは、すべて的外れに終わります。それでイエスさまは、「わたしは人間による証しは受けない」とおっしゃった。しかし、イエスさまは洗礼者ヨハネの名前を挙げられ、ヨハネは真理を証ししたとおっしゃいます。そしてこうおっしゃいます。(35節)「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」
「ともし火」というのは小さな光です。しかし暗い夜道では、人を導くことが出来ます。そのように、洗礼者ヨハネは、イエスさまへと人を導いた。ヨハネは預言者です。預言者というのは、聖霊を受けた人です。ペンテコステの聖霊降臨の出来事があるまでは、聖霊は特別な人、つまり預言者だけが受けました。その聖霊によって、洗礼者ヨハネはイエスさまを証ししたのです。
ヨハネ福音書1章36節で、洗礼者ヨハネはイエスさまを指してこう言いました。「見よ、神の小羊だ」。その言葉を聞いて、アンデレと使徒ヨハネがイエスさまの最初の弟子となりました。なにが神の小羊なのかよく分からないまま、この二人はイエスさまの弟子となったんです。しかしその洗礼者ヨハネの証しは、正しい証しでした。そのように聖霊によって、初めてイエスさまを証しできるのです。人間の知識や知恵によるのではないのです。
イエスを証しするもの
イエスさまを証しする。イエスさまが神の子であり、神に等しい方であることを証しするものは何であるとおっしゃっているでしょうか?
第一に、それは聖霊であるとおっしゃっています。ただ今申し上げたとおりですが、32節で「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」とおっしゃっています。「その方」というのが聖霊です。このことについては、このヨハネ福音書のあとのほう、最後の晩餐の席上でイエスさまがおっしゃった言葉にあります。
(15:26〜27)"わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。"
この「真理の霊」というのが聖霊です。聖霊が与えられて、イエスさまのことが分かってくる。正しく証しをすることができる。そういうことです。
第二にイエスさまを証しするものは、イエスさまのなさっている業そのものであるということです。36節です。イエスさまのなさっている業とは何でしょうか? この5章では、38年間病気で寝たきりだった人を癒やされるという奇跡をなさいましたが、そういうことでしょうか?‥‥もちろん、それも一つでしょう。しかし、旧約聖書の預言者エリヤやエリシャも病気の人を癒やしました。それはもちろん、神の力によって癒やしたのですが、イエスさまが神ではなくてもよいことになるでしょう。では、イエスさまが神の子であり神であるということを証しする業とはなんでしょうか?
もう一度36節を見てみます。こうおっしゃっています。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」。父なる神がイエスさまに「成し遂げるようにお与えになった業」とはなにか。それは十字架へ向かう道です。十字架にかかって命を捨てられる。そのことによって、私たちが救われる。これは神である方が十字架にかからなければ起こらない業です。それは究極の愛の業です。その十字架へと向かう歩み。それがイエスさまがどなたであるかを証ししているのです。
第三には、聖書です。39節でこのようにおっしゃっています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことです。新約聖書はまだできあがっていないからです。新約聖書がイエスさまを証ししていることはだれが読んでも分かります。しかし、旧約聖書とはイエスさまを証しする書物であると言っておられます。内村鑑三は、「聖書はイエス・キリストの伝記と言える」と書いています。
私は、このイエスさまの言葉によって、はじめて聖書とは何であるかということが分かりました。聖書を、旧約聖書の初めから全部読んだ人は、どういう感想を持つでしょうか?‥‥最初の創世記を読むと、たいへん興味深いものです。「そうか、宇宙も世界も私たちも神さまによって造られたのか」と思い、何かすばらしいなあと思います。また出エジプト記の前半を読んでも、わくわくするような物語になっています。
しかし、たとえばヨシュア記であるとか士師記であるとか、サムエル記や列王記もそうですが、戦争ばかりしているんですね。しかもヨシュア記のように、約束の地にいる異民族を滅ぼすように神が命じている所があります。そういうところを読んでつまずく人もいるんですね。以前、聖書を読み始めて、やはりそういうところを読んでつまずいた人がいました。その人は言いました。「神はたくさん人を殺していますね」と。
神さまが、約束の地にいる異民族を滅ぼすように命じている箇所。それは、それらの異民族が悪いことばかりしているからだと、神さまがおっしゃっています。そのように、神さまの正義が強調されています。正義というのは、悪を見逃さないから正義です。そして神さまの正義が貫かれると、悪い者は皆滅ぼされることになります。ですから、イスラエルの民自体も神さまにそむき続けたので、国が滅びてしまうことになる。正義が貫かれると、人間はみな罪人だから何も残らなくなるんですね。
だから物語としては、旧約聖書は、救いがないまま終わってしまっています。分からないまま終わる。その旧約聖書が、イエスさまを証しするものだと言われる時、それはどういうことなのか? たしかにキリスト予言はところどころに預言者によって語られていますが、そういうことなのか?
聖書がイエスさま、キリストを証ししているということは、「正義」だけではなく「愛」が必要であることを証ししているのだと思います。正義は罰を与えます。しかし愛は赦しであり、救いを伴います。旧約聖書は正義が前面に出て来る。しかしそれでは罪人である人間が救われない。愛が必要であること、すなわちキリストを待望する。それが旧約聖書です。ですから、旧約聖書だけではまだ半分なのです。聖書の物語が完成していないのです。旧約聖書は、キリストの登場を証ししています。
そのことが、このイエスさまの言葉で、私はむかし若い時に分かったんです。それは自分自身の歩みにも重なるものでした。罪人であり、救いようがない自分を救ってくださる方が必要だったのです。正義だけでは救われません。愛が必要です。イエスさまに現れている神の愛が必要です。
生けるキリストにゆだねる
『百万人の福音』の3月号に、日本基督教団の九州の教会のある女性信徒の方の証しが載っていました。その方は、小学校4年生の時に学校の図書室で授業を受けた日に、ふと手に取った本でイエス・キリストのことを知ったそうです。その本のページをめくっていると、十字架にかかったイエスさまの悲惨な姿がそこにあった。そして「この方は何の罪もないのに私たち人間のために死なれた」と書かれていた。それで、なぜ?どうして?との思いが広がっていったそうです。そして6年生の時に、妹の友だちに誘われて、妹と共に教会学校へ通い始めたそうです。そして何のうたがいもなく、神さまのこと、イエスさまのこと、聖書の話やみことばなどが心にしみ入り、疑いなく信じて行ったそうです。
しかし高校2年生になった時、自分の罪の問題で苦しんだそうです。どんなに努力しても、神の御心に添えない自分。この罪がイエスさまを十字架にかけたのだと泣いて赦しを乞うた時もあったそうです。そんなある夜、寝ていた自分の耳に激しい大きな声が響いたそうです。「お前はいったいどうしたのだ。私がついているではないか。どうしてそんなに悩むのか」と。この出来事にあらためて神さまの力を感じ、すべてをその御手にゆだねて生きようと決心したということです。そして洗礼を受けたそうです。
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