2024年6月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書60章1
    ヨハネによる福音書5章25〜30
●説教 「よみがえりを告げる声」小宮山剛牧師
 
   最後の審判
 
 こちらはミケランジェロが描いた「最後の審判」です(スライド)。バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれています。中央の空中にいるのがキリストです。たくましい、筋骨隆々とした姿で描かれています。世の終わりにキリスト・イエスさまが再臨し、審判をなさる。そのことがダイナミックに描かれています。このように、キリストが最後の審判をされる。このことは本日の27節「(父なる神が)さばきを行う権能を子にお与えになった」という言葉に基づいています。
 最後の審判については、他の福音書では、イエスさまの受難が近づいた時に語られることが多いです。しかもしばしばたとえを交えて語られています。それに比べて、このヨハネによる福音書では、前半のほうで、しかもストレートな表現で語っておられます。
 その最後の審判ですが、29節を見ると、善を行った者は救われ、悪を行った者は裁きを受けるということが言われています。なにかここを読みますと、むかしお坊さんから聞いた閻魔大王の裁きを思い出す方もおられるでしょう。閻魔さまの前では、その人の生前の善悪すべての行いが映し出され、嘘をついてもばれてしまうといわれる。そしてその尋問で人間の行き先が決まる。その最も悪い行き先が地獄であるという。‥‥そういう昔から日本で言われてきたお話しと同じような印象を持たれるのではないかと思います。
 さて、果たしてイエスさまの裁きとは、そのようなものなのでしょうか?
 
   神の子の声を聞いた者は生きる
 
 今日の聖書箇所も「はっきり言っておく」という言葉から始まっています。このところの日本語の訳し方について、織田昭先生は「アーメン、まさにその通りだ」と訳しておられていて、良い訳だなあと思いました。イエスさまはここで、ものごとの真相をお語りになろうとしているのです。生きるとはなにか?死ぬとはなにか?ということを巡ってです。
 イエスさまは言われます。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(25節)死んだ者が神の子の声を聞く時が来る、と言われます。「神の子」というのは、ここではイエスさまご自身のことです。死んだ人が、いったいどうやってイエスさまの声を聞くのだろうか?と不思議に思います。
 そうしますと、実際に死んだ人がイエスさまの声を聞くという出来事が、このヨハネ福音書のあとのほう、11章で出てきます。それは、ラザロという人に起こった出来事です。マルタとマリア姉妹の兄弟であるラザロが死にました。そして死んでから4日目にイエスさまがそこに到着しました。当時のユダヤでは、死んだらその日のうちに墓に葬られました。そしてイエスさまがラザロの葬られた墓に行かれ、墓石をどけさせました。そしてイエスさまは父なる神に感謝の祈りをささげられました。そして墓に向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出てきなさい!」するとラザロは、布を巻かれたまま、つまり葬られた時の姿のまま、墓から出てきました。そういう奇跡が起きるのです。
 ラザロはイエスさまの声を聞いて生き返りました。もちろん、今ラザロは生きていないわけですが、これはやがて復活の時に起きる出来事の予告のようなものであると言うことができます。つまりこの奇跡は、最後の審判の時、神の子によって命を与えられるために復活することを指し示していると言うことができます。そのように。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者は生きるという約束であると考えられます。
 死んだ者が神の声を聞いて生きるという、もう一つの意味は、死んだと同然の者が生きるということです。たとえばルカによる福音書15章の「放蕩息子」のたとえ話です。父親の財産を分けてもらい、遠い国に行って放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまった息子。食べるにも困ることになり、彼は父の所に帰って息子としてではなく使用人として食べさせてもらおうと思い、父の所に帰っていきました。すると父親は、走り寄って彼を迎え、大宴会を開いて喜びました。そしてこう言いました。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。」
 このたとえ話は、人間が悔い改めて神のもとに帰ってくることを、父なる神さまが待っておられることを表しています。「この息子は死んでいたのに生き返った」。神を捨て、罪を重ねる人間の姿は、本来のあるべき姿ではない。死んだのと同然だと言うことです。
 しかし、きょうの25節でイエスさまがおっしゃっているように、神の子の声を聞いた者は生きるのです。神のもとで生きるのです。
 
   善悪による審判
 
 さて、そして問題の29節です。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
 その人が善を行ったか、悪を行ったかによって、最後の審判がなされる。これは最初に申し上げたように、閻魔大王の裁きと同じなのでしょうか?
 ちいろば先生こと榎本保郎先生がメッセージの中で語っておられたことですが、むかし若い時に見た夢だそうです。自分が死んで、天国の門の前に着いたそうです。ところが門が閉まっている。門をたたくと門番が出てきました。「榎本です。入れてください」というと、門番が「名前がない」と答えたそうです。榎本先生は「そんなはずはない」と言ったそうですが、門番は、「あなたはきょう、電車に乗って、おばあさんに席を譲らんかったやろ。だから入れんのや」と言ったそうです。
 まあこれは夢ですから、若き榎本先生が、その日電車でおばあさんに席を譲らなかったことを公開したことが反映したのだと思いますが。最後の審判の「善」「悪」とはそのようなことなのでしょうか?
 考えてみますと、人間、ほとんどの人は、良いこともすれば悪いこともするでしょう。しかしその行いの一部始終が記録され、最後の審判で、総合的に判断されるとしたらどうでしょうか。まるで入学試験のようです。「残念!あと1点あれば入れたのに」というようなことになってしまいます。
 さらに言うならば、善悪の基準というのは人によって異なります。なにが善で、なにが悪なのか。たとえば、テロリストにとっては敵を殺すのは良いことなのでしょう。それも「善」なのでしょうか?
 そうすると、ここで言われる「善」というのは、イエスさまから見た「善」であることが分かります。イエスさまから見た善とは、愛以外にはありません。愛です。そして愛のないことを罪といいます。罪は悪です。つまりここで言う善、悪とは、愛のあるなしということになります。そして聖書では、人間はみな罪人であると申します。
・(ローマ3:10〜12)"次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。"
 善を行う者は一人もいないと言っています。みな罪人であると。ですからみな滅びることになります。
 そうして25節に戻って見ましょう。そうすると、神の子の声を聞く者は生きるといわれていました。ここに救いがあります。
 
   キリストによる救い
 
 「神の子」とはイエスさま、キリストです。イエスさまによる救いです。そのイエスさまの言葉を聞いて受け入れる。そこに救いがあります。それが「生きる」と言われていることです。罪人である私たちが、悪人である私たちが、愛のない私たちが、イエスさまの十字架によってゆるされた。それを信じることによって、罪人であるにもかかわらず「善」であると見なしてくださる。神と等しい方が、私たちの罪を代わりに担ってくださった。それが十字架です。だからゆるされるのです。救われるのです。
 最相葉月さん編著の本、『証し』の中に、神奈川県のあるクリスチャンの方の証しが掲載されています。その人は、夫の実の両親と夫の養父母と、自分の両親と、夫の介護、つまり7人の介護をしてきたそうです。本当にたいへんで疲れ果てていたそうです。ある日、庭で木の剪定をしていると二人組の女の人から声をかけられた。そして「聖書を読んだことはありますか」と言われた。そしてそのうちの一人が時々家を訪れるようになり、茶飲み話をしながら聖書を読んでいく。ある時集会に誘われました。行ってみると、そこはエホバの証人の王国会館だったそうです。そして話をよく聞いてみると、エホバの証人では、イエスさまを神ではなく人間としてとらえていた。それで「人間では自分のよりどころにならない」と思ったそうです。そしてお断りしたとのことです。やがてご子息がキリスト教学校に通われていたことから、教会に導かれてクリスチャンとなったそうです。
 イエスさまが単なる人間では、どうにもならない重荷があります。人間では私たちの重荷を負ってくださることはできません。罪をゆるすこともできません。救われないんです。しかしここで言われているように、イエスさまは神の子である。そして同時に人の子でもある。人の子であることによって、私たちの罪をよくご存じでいて下さる。私たちの重荷もよくご存じでいて下さる。その方が、私たちの重荷を負ってくださり、救うために十字架に行ってくださった。こうして、悪人を善人と見なしていただけることとなったのです。
 
   今がその時
 
 本日はこのあと聖餐式があります。聖餐は、イエスさまの十字架と復活を証ししています。十字架は私たちの罪の赦しです。イエスさまが十字架に献げられた体と流された血。それにあずかることによって、私たちの罪がゆるされ、命をいただく。そして復活によって神の子の与えてくださる永遠の命を指し示しています。イエス・キリストは、私たちをここに招いておられます。
 「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」この「今やその時である」という言葉は、「今がその時である」という意味です。今、語られているキリストの言葉を聞く。今、聖書のイエスさまの御言葉を読む。そのイエスさまの声を聞いた者は生きると約束されています。
 今週も、日々、聖書に親しみ、イエスさまの御言葉を読み、主と共に歩む一週間でありますように。


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