2024年5月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書61章1
    ヨハネによる福音書5章19〜24
●説教 「三位一体なる神」小宮山剛牧師
 
   三位一体主日
 
 本日は教会暦で「三位一体主日」です。先週が「聖霊降臨日」つまりペンテコステでした。そして今日が三位一体主日。教会暦は待降節から始まります。つまり、父なる神が約束されたキリストの到来を待ち望むことから始まります。神の御子イエス・キリストがこの世に来られる前は、神は天地創造の神、父なる神として現れています。そしてクリスマスでイエス・キリストが現れる。そのイエスさまが受難、十字架を経て復活される。それがイースターです。そして天に昇られたイエスさまが、約束の聖霊を送られる。それが聖霊降臨日、ペンテコステです。こうして、教会暦をたどっていきますと、父なる神さま、イエスさま、聖霊なる神さまが私たちの前に現れた。そのことを感謝するのが、本日の三位一体主日です。
 さて、三位一体とはなにかとことですが、「三位一体」という言葉は教会の外でもよく使われますが、もとは教会の言葉です。三位一体とは、私たちの神さまは三位一体の神さまであるということです。つまり、父なる神さま、子なる神さま(つまりイエスさま)、そして聖霊なる神さまの三つが一つであるということです。三つが一つであるというと、なにかキツネにつままれたように思われるかもしれません。三つは三つであって一つではないはずだし、一つならそれは一つであって三つではない。なのに三つだけれども一つといわれると、なんだかわけが分からなくなりそうだというのも無理はありません。
 ただ、三位一体というのは、一人三役という意味ではありません。一人三役ではないことは、このヨハネによる福音書を読んでいくとよく分かります。父なる神、イエスさま、聖霊なる神さまは、それぞれ別人格です。神さまは人ではありませんので「人格」と言わずに「位格」と言います。三位一体の「位」ですね。今日の聖書箇所では、その三位一体が少し分かります。最も今日の聖書箇所では、父なる神さまとイエスさまの関係が語られているだけで、聖霊については触れられていません。しかし、父なる神さまとイエスさまの関係が分かると、それでほぼ三位一体が分かってくると言えます。
 
   アーメン
 
 今日の聖書箇所は、前回までの続きの箇所です。つまり、エルサレム市内のベトザタの池のほとりで38年間も病気で寝たきりだった人をイエスさまが癒やされた。その出来事の続きとなっています。イエスさまが彼に向かって、「床を担いで歩きなさい」と命じられたところ、彼は瞬時に癒やされて、床を担いで歩きました。しかしそれは安息日のことだった。ユダヤ人の戒律では、安息日に床を担いで歩くことは、仕事をしたことになるのでした。それで安息日に仕事をしてはならないという十戒を破ったと、ユダヤ人の宗教家たちは言いました。そしてそれがイエスさまのさせたことであると知ると、イエスさまを非難しました。そしてイエスさまが、御自分と父なる神を等しい存在であるかのように言ったということで、イエスさまを殺そうと狙うようになった。たいへん恐ろしい展開となっています。人間が自分を神と等しい存在であるかのように言うということは、神を冒涜したことになるのであって、その罪は死刑に相当したからです。
 その続きが今日の箇所です。イエスさまは、イエスさまを非難したユダヤ人の宗教家たちに語ります。「はっきり言っておく」と言って語り始められます。
 「はっきり言っておく」と、新共同訳聖書は日本語に訳していますが、「はっきり言っておく」というと、なにか「あんた方にはっきり言っておくけどねえ」というような、何かケンカを売っているようにも聞こえます。ここはなかなか日本語に訳すのが難しいのですが、たとえば前の口語訳聖書では「よくよくあなたがたに言っておく」と訳しています。「よくよくあなたがたに言っておく」というと、今度は「あんた方は物わかりが悪いね。いいかい、耳をかっぽじってよく聞きなさい」と言っているようにも聞こえます。新改訳聖書は「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と訳しています。これはだいぶ本来の意味に近いでしょうけれども、ちょっと不自由な感じがします。
 この「はっきり言っておく」とか「よくよく言っておく」とか「まことに、まことに」と訳されている言葉は原文では「アーメン」となっているんです。クリスチャンにとっては日常的に使う言葉ですね。お祈りの時に使います。では「アーメンの意味はなに?」と聞かれたら何と答えるでしょうか。それは、「本当にそうだ」という意味でもありますし、また神さまにお任せする決断をする言葉でもあります。豊かな意味を含んでいる言葉です。ですから加藤常昭先生は、こういう所は日本語に訳さずに、原文のまま「アーメン、アーメン」としておくのが良いと言っておられました。それは、真理、本当のことを語る時に使われる言葉です。
 
   「父」なる神と呼ばれる理由
 
 そして真理としてイエスさまがお語りになったことは、父なる神さまと御自分がいかに一体であるかということでした。
 ところで、天地宇宙の創造主はここで「父」と呼ばれていますが、「母」なる神というのは聖書ではありません。なぜ「父」があって「母」がないのか。「女性差別だ」などと言う人がいるようですが、そういう話ではありません。「父」と呼ばれる理由について、その一つに、父は子を産むことができないということが考えられています。つまり子であるイエスさまは、父なる神から生まれたのではないということです。永遠の昔から、父も子も存在した。聖霊も存在した。そこに時間の差はない。それがヨハネによる福音書の最初の1章1節の言葉でもあるわけです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」‥‥この「言」とはイエスさまのことを指していることは、最初に学んだとおりです。つまり初めから、父と子がおられた。最初から神は三位一体の神であったということです。
 たいへん不思議な話です。しかし考えてみると、そもそも私たちは神さまのことを知っているだろうかと考えます。聖書に出会うまで、神さまとはどういう方だと思っていたでしょうか?それは想像でしかなかったのではないでしょうか?聖書なしで神さまのことが分かるでしょうか?‥‥私たちは聖書によって、私たちが神さまによって造られたこと、命を与えられたことを知りました。そしてヨハネによる福音書17章3節でイエスさまはこのように言っておられます。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
 これはイエスさまが父なる神に祈っておられる言葉です。神さまとイエスさまを知ることが永遠の命であるという。この場合の「知る」というのは、知識として知るということだけではありません。お付き合いしてみて分かる、という意味での「知る」です。神さまを信じてみて、イエスさまとお付き合いしてみて知る。交わりです。神さま、イエスさまとつながることです。そこに永遠の命があるという。
 
   父と子が一つであること
 
 前回の個所で、最初に述べましたように、ユダヤ人の宗教指導者たちは、イエスさまが神と御自分を等しい者のように言ったので、イエスさまを殺そうと狙うようになりました。しかしイエスさまは弁解なさるどころか、さらに踏み込んで真理を語られます。それは、父なる神とイエスさまが、一つのものと言えるほどの関係であることを述べておられます。
 まず19節で言われているように、子であるイエスさまは父のなさることをする。勝手なことをなさらない。また、20節では、父が子であるイエスさまを愛しておられること。父がなさることは全部子に知らせてくださること。また、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思うものに命を与えるということ。
 そのように、たしかに子と父は別人格ですが、まさに一体と言ってよい関係です。愛によって結びついています。父なる神が子なるイエスさまを支配しているというのではない。あるいは機械的に言いなりになっているというのでもない。愛によって結びついているのです。それが三位一体です。
 
   与えたいと思う者に命を与える
 
 さて、21節に「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」と言われています。
 はて、これはどういうことでしょうか? 「与えたいと思う者に命を与える」。この「命」というのは永遠の命のことです。父も子も、永遠の命を与えたいと思う者に与えるというのは、なにか勝手気ままな独裁者のように聞こえます。気に入った人に命を与えるというように聞こえる。そんなことはありえないでしょう。
 この言葉のきっかけとなった出来事を振り返ってみましょう。つまり38年間病気で寝たきりだった人です。ベトザタの池のまわりには、他にも多くの病人がいたでしょうけれども、イエスさまはどうして彼だけを癒やされたのでしょうか?‥‥律法を守っていたからでしょうか? 良い人だったからでしょうか?‥‥そういうことは何も書いてありません。ではイエスさまを信じたからでしょうか?‥‥いや、それも違います。なぜなら、最初彼は、自分の病気を癒やしてくれた人が誰かも分からなかったからです。
 そうすると何も理由がないように見える。しかし彼は、ベトザタの池のまわりで水が動くのを待っている多くの病人の中で、おそらくもっとも深い絶望の中にいた人であろうと思います。イエスさまはその人に目を留められた。まさに主の憐れみです。
 ではイエスさまは、他の病人には無関心だったのでしょうか?‥‥これも違います。この人が癒やされたのは、しるしとして癒やされたのです。やがて神の国に行った時、すべての人は癒やされる。そのしるしとしてこの人を癒やされた。だからこの人の癒やしは、すべての人の希望であるわけです。
 また、イエスさまがこの人を癒やされたことが、気まぐれで癒やされたのではないことは、24節を見ると分かります。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」‥‥イエスさまの言葉を聞いて、イエスさまをお遣わしになった神さまを信じる者は、と書かれています。だれか特定の人のことではありません。
 そうすると、「子も与えたいと思う者に命を与える」という言葉は、イエスさまを非難したユダヤ人の宗教指導者たちに対しておっしゃった言葉でしょう。彼らは神の権威を自任していた。自分たちが神さまのことを決めると言っていた。しかし決めるのは、あなたがたではない。父なる神と子なる神であると。永遠の命を与えるのは、神がお決めになることだとおっしゃっているんです。
 
   死から命へ移っている
 
 24節をもう一度見ると、こうおっしゃっておられます。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
 すでに死から命へ移っているんです。将来のことを言っておられるのではない。イエスさまの言葉を聞き、そしてそのイエスさまの父なる神を信じる者は、その結果としてもう命に移っている。言葉を変えて言えば、神の国とは死んでからのちに行く所というのではない。この世に生きていながら、イエスさまと父なる神を信じたとき、すでに神の国に生きているということになります。信じるというのはつながることです。イエスさまとつながる。子なる神であるイエスさま。そのイエスさまとつながることは、神につながることです。それは命そのものとつながることです。
 この殺伐としている世の中。しかしイエスさまとつながることによって、命へと移っている。神から裁かれることもない。神と共に歩んで行くことができます。


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