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2024年5月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教/ペンテコステ・聖霊降臨祭
●聖書 イザヤ書46章10
使徒言行録2章29〜36
●説教 「証人」
ペンテコステ
本日はペンテコステです。別の言い方をすると聖霊降臨祭です。ユダヤ人の3大祝祭日の一つであるペンテコステの時に、弟子たちに聖霊が与えられて、教会が誕生しました。ですから教会の誕生日とも言われます。
教会というのは本当に不思議なところだと思います。教会は神の家族とも呼ばれます。教会は世代を超えた老若男女が集まっています。赤ちゃんから、若者、そして中高年、ご長寿の方まで同じ場所に集まっています。しかも、もうけ話を聞くために集まっているのではありません。脅迫されて集まっているのでもありません。自らの意思で集まっています。そのとき限りのイベントで集まっているではありません。スポーツを観戦するために集まっているのでもありません。毎週礼拝のために集まっているのです。このような所は、教会の他にはないと言えると思います。
老若男女と申し上げました。私が子どもの頃は、例えばテレビの音楽番組は、若者向けと中高年向けに分かれていませんでした。私が学生の時、カラオケが流行り始めましたが、20歳前後の若者が、カラオケで今で言う演歌も歌っていました。今ではあまりないですね。今は、若者は若者の音楽、中高年は中高年の音楽とすべてが分かれています。しかし、教会ではみな同じ讃美歌を喜んで歌っています。あらゆる年齢層が集まって。これは奇跡だと思います。そう、奇跡です。聖書では、奇跡とは神さまのなさることを奇跡と言います。このように教会が存在しているということ自体が、神さまが、イエスさまが、聖霊なる神さまが生きて働いておられるという証拠です。
その教会は、聖霊が降って誕生しました。そしてその前には、イエスさまの十字架の死があり、そして復活がありました。イエスさまは復活のあと、40日間に渡ってしばしば弟子たちの前に姿を現されました。そして天の父なる神さまのもとに昇って行かれました。それから10日後に聖霊が弟子たちのところに降りました。物音を聞いて集まってきた群衆に向かって、使徒ペトロが語り始めました。
ペトロは最初に旧約聖書の預言書の一つであるヨエル書3章を引用して語りました。
(使徒2:17〜18)「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
息子にも娘にも、若者にも老人にも、しもべにもはしためにも聖霊を注ぐと神は預言者ヨエルを通して予言されていた。それがその通りになったのだと語りました。すなわち、すべての人がイエスさまのもとに招かれている。教会へと招かれている。そして聖霊が与えられる。つまり神さまと共に生きる。老若男女です。すべての民が一つとなることができる。
それゆえ世界の希望は教会にあると言えるのです。もちろん、教会も過ちを犯します。しかしイエスさまの言葉に耳を傾けている限り、悔い改めることができる。ですから希望があります。未来があります。
ペトロの説教
今年のペンテコステ礼拝の説教は、昨年のペンテコステ礼拝の聖書箇所の続きの箇所です。イエスさまが死からよみがえられました。そして40日間、弟子たちの前にしばしば現れられました。そして昇天される前に、父なる神さまが約束された聖霊を待っているように弟子たちにお命じになりました。そして天の父なる神さまのもとに帰って行かれました。
それで弟子たちは、エルサレム市内のある家に集まって、心を一つにして祈って聖霊を待っていました。そしてイエスさまの昇天から10日後、とつぜん激しい風が吹いてきたような音が聞こえ、さらに弟子たちの上に炎のような舌が現れました。そして弟子たちが習ったこともない外国語で、それぞれ神の偉大な働きを語り始めました。物音を聞いて集まってきた群衆はそれを見て、何ごとかと思いました。中には「酒に酔っているのだ」という人もいました。
そのとき使徒たちが立ち上がり、群衆の前でペトロが語り始めたのでした。それが使徒たちによる最初の説教です。その後半の部分が本日の聖書箇所です。前半部分では、今起こっている現象が聖霊によるものであることをペトロが語りました。それは神さまの約束であり、預言が成就したのであると語りました。そして先ほど述べましたように、旧約の預言者ヨエルの言葉を引用しました。2章21節で「主の名を呼び求める者は皆救われる」(ヨエル3:5)というヨエルの言葉を引用し、それが成就したのだと言いました。つまり、主の名を呼び求める者は皆救われることになったのだと。
そしてそれはどうやって実現したかを述べました。それはイエスさまによってもたらされたと言いました。あなたがたが十字架につけて殺したイエスさまを、神さまが復活させられたことによって、それが実現したのであると説きました。
このペトロの説教の結果、三千人の人々が悔い改めてイエスさまを信じました。そして洗礼を受けました。つまり教会は聖霊によって誕生しましたが、それはその日一挙に3120人の教会として誕生したということになります。これも神さまのわざ、奇跡です。
変えられたペトロ
そのように、教会は奇跡によって誕生しましたが、この説教を語ったペトロにも奇跡が起こっていることに注目したいと思います。
ヨハネによる福音書の最後のほうに書かれていますように、ペトロはイエスさまから弟子たちの群れを託され、教会の指導者となりました。しかし最初からそうだったのではありません。ペトロはガリラヤ湖で魚を取って生計を立てている漁師でした。そしてヨハネによる福音書によると、ペトロの弟のアンデレが最初にイエスさまの弟子となりました。アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子だったのですが、そのヨハネがイエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったので、イエスさまの弟子となりました。そしてそのとき、ペトロもイエスさまの弟子となりました。
そしてその後、他の福音書によると、ガリラヤにいたときにイエスさまから「あなたは人間をとる漁師となる」と言われて、すべてを捨ててイエスさまに従って行きました。このときはすでにイエスさまの弟子となっていましたが、すべてを捨てて従っていきましたから、献身したのです。ペトロは、このイエスというお方こそ、自分たちの国イスラエルを再び興してくださる方だと信じていました。つまり最初は、イエスさまが政治的な指導者であると見ていたのです。それがメシアというものだと思っていました。それ以来、ペトロはイエスさまの名猿木席を間近で見てきました。イエスさまの語る言葉を、おそばで聞いてきました。また、ある時はイエスさまにほめられ、またある時はイエスさまに叱られました。たいへん目立つ人であり、おっちょこちょいな性格でした。
そして最後の晩餐の時、「あなたのためなた命も捨てます」(ヨハネ13:37)とイエスさまに向かって誓いました。しかし、イエスさまから「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われました。それでもペトロは、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と誓いました。
しかしその晩、イエスが逮捕された時。大祭司の館の庭で、イエスのことを知らないと3度も否認しました。イエスさまの予告されたとおりでした。ペトロは外に出て、泣き崩れました。自分の弱さ、自分の罪に泣いたんです。そして翌日イエスさまは十字架にかけられました。そして死なれました。そして墓に葬られました。‥‥ペトロにとってはすべてが終わったのでした。
そのペトロが、どうして今日の聖書箇所のように大胆に人々にイエスさまのことを語っているのでしょうか? もう何も恐れていない様子です。それはペトロ自身が語っているように、イエスさまがよみがえられた、復活されたからです。そのイエスさまは、イエスさまを見捨てて裏切ったこの自分に近づいてくださり、愛してくださいました。そして弟子たちの群れを託してくださいました。おのれの罪を知ったペトロに、自分の弱さを知ったペトロにです。イエスさまの赦しと愛を体験したのです。
そしてこの日、約束通り聖霊が与えられました。その聖霊の力によって彼は語っているんです。人間の思いではありません。ペトロは変えられたんです。イエスさまによって。聖霊によって。
ダビデ
ペトロは、この説教の中でダビデの詩編を何度も引用しています。ダビデは、昔のイスラエル王国全盛期の王であり、イスラエル人の英雄であり、神の祝福を受けた人でした。そして多くの詩を書き残しました。そのダビデの詩は、神さまの預言となっているものが多くあります。それにしてもペトロはこのペンテコステの説教で、他の預言者ではなく、なぜダビデの詩を引用しているのでしょうか?
ペトロは29節で、ダビデの墓が私たちのところにあると言っています。実は、このペンテコステの舞台となった家は、イエスさまが十字架にかかられる前の晩弟子たちと友に食事を取られた最後の晩餐の部屋のなされた家と同じだという説があります。そして現在、エルサレムに行きますと、この家といいますか建物の2階がその部屋であり、1階がダビデの墓となっているのです。本当にそこがダビデの墓なのかどうかは定かではありません。しかし多くの人がダビデの墓だと思っていて、ちゃんとそこでお祈りが出来るようになっているのです。そしてその2階が、最後の晩餐の部屋であり、ペンテコステの聖霊降臨の部屋と言われているのです。
もしそれが本当だとしたら、このときペトロが説教でダビデの詩を何度も引用しているのも分かります。ペトロは、ここに葬られたダビデ王は、と言いたいのです。ダビデが預言したメシアとは、イエスのことであったのだと言っているのです。それはユダヤ人にとって、どれほどの驚きだったことでしょう。そしてダビデはそのメシアの復活も預言していたことを明らかにします。そして今この会かで眠っているダビデは、そのメシア、キリストによる復活を待っているのだと。そのメシアがイエスさまであり、それを信じて眠っているのだと言いたいのです。
証人
ペトロは、私たちはイエスさまの復活の証人であると語っています。イエスさまがメシア、キリストであり、十字架で死なれたが復活された、その証人であると。もう一つ「証人」としての意味があります。それは、自分たちは、聖書の預言が確実であることの証人であるということです。だから聖書の言葉を何度も引用しています。
今日読んだ旧約聖書は、イザヤ書46章10節です。(イザヤ書 46:10)"わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。"
これはイザヤが預言した神さまの言葉です。神さまはそこでおっしゃっています。「私の計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する」と。神さまの言葉が確実であること、そして必ずそのようになるのだということです。
これは驚きではありませんか。聖書とは一冊の本にすぎないものに見える。そしてこの世のものごとは、全く無秩序に、偶然に起き、進んでいるように見える。また人間の言葉は、不確かであやふやです。政治家が約束したことは、何年も経たないうちにほごにされる。また、辞めれば忘れられる。私たちもそうです。「あの時はああ言ったけれども、今は事情が変わった」ということになる。この世に確かなものはありません。すべてはうつろい、変わっていきます。
しかしたしかなことが一つあるという。変わらないものがあるという。それが神の言葉であり、神のご計画であるというのです。ペンテコステの出来事も、その神の約束されていたことがたしかに起きたということです。そのようにして、神の言葉、イエスさまの言葉はたしかな約束として私たちの前に浮かび上がってきます。
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