2024年5月12日(日)母の日 逗子教会主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書43章2
    ヨハネによる福音書5章15〜18
●説教 「近くて遠い人」小宮山 剛牧師
 
   母の日
 
 本日は母の日です。日本基督教団の行事カレンダーには「母の日」はあるけれども「父の日」がないのはなぜ?と思われる方もあるでしょう。それは、母の日が教会から始まった行事だからということになります。
 母の日は、今から約100年以上前の1908年、アメリカの教会から始まりました。アンナ・ジャービスさんという女性が、旧約聖書の十戒の中の「あなたの父と母を敬いなさい」という十戒の教えにもとずいて、亡くなったお母さんへの感謝をあらわしたいと思った。そして、教会で行われた記念会の出席者に白いカーネーションを贈ったのが始まりです。その母への思いは、多くの人の共感を呼ぶこととなり、まもなく日本に伝わってきました。
 ですから最初の母の日は、亡くなった母親への思いを表したんですね。「親孝行したい時には親はなし」と申しますが、亡くなってから感謝の気持ちを表したというのは、多くの人にとって慰めとなるのではないかと思います。今からでも遅くはないですね。
 また、今年も讃美歌510番を歌いました。これは、母が我が子の救いを祈っている歌です。もちろん、母と言っても人それぞれいろいろな母がおられるでしょうし、クリスチャンの母ばかりではありませんけれども、もし自分の母がクリスチャンだったとしたら、このように祈っただろうなあと思いながら歌うというのも良いように思います。 
 
   近くて遠い人
 
 さて、本日の説教題は「近くて遠い人」という題をつけました。「近い」というのはなにかと申しますと、神に近いと思われていた人たちのことです。神に近いと思われていたのは、新約聖書では、律法学者やファリサイ派、それから神殿で奉仕する祭司たちということになります。つまり宗教者です。ヨハネ福音書ではそれが「ユダヤ人」と書かれています。これはユダヤ人全部のことではなくて、そのような宗教家や指導者たちを指しています。
 たしかに宗教者は、一般の人よりも神に近いと思われているでしょう。僧侶であるとか、神主さん、牧師、神父などはそう思われているに違いありません。そのように、ユダヤでは律法学者やファリサイ派の人などの宗教者が神に近い存在と思われていた。けれども実は遠かった、という現実のことです。これらの人々は、きちんと神さまを礼拝し、その戒律を守っていました。しかし遠かった。なにが遠かったかといえば、それは、イエスさまを受け入れなかった、ということです。神のもとから遣わされたイエスさま。しかし彼らはそのイエスさまを受け入れず、排除した。つまりは神さまを受け入れなかったということになります。
 その理由はなにか? なぜイエスさまを排除しようとしたのか?‥‥それは今日の箇所に書かれていることですが、「安息日」というものをめぐることから始まっています。
 
   安息日
 
 「安息日」について、もう一度おさらいをしておきます。安息日というのは、一週間に一度、仕事を休む日です。それは旧約聖書の十戒に書かれています。具体的には十戒の第4戒となります。出エジプト記の20章と、申命記の5章に書かれています。出エジプト記20章8〜11節を読んでみます。
「安息日に心を留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 これとほぼ同じことが申命記の5章12〜15節に書かれています。「ほぼ同じ」と申しましたのは、安息日を守るべき理由の部分がちがっているからです。出エジプト記の十戒のほうは、天地創造の時、神さまが七日目に休まれたからと書かれています。しかし申命記のほうでは、むかしイスラエルの民が奴隷の国エジプトから、神さまの奇跡によって導き出してくださったことを思い起こすために、と書かれています。
 しかしこの二つは、いずれも主なる神さまの愛が現れていることが分かります。神さまの配慮です。一日は休みなさいと言われているんです。自分が休むだけではなく、子供たちも、奴隷も、家畜も、寄留者である外国人も休ませなさい、働かせてはならないと。奴隷や家畜ならば休ませるのはもったいない、休みなく働かせようと思うのがふつうでしょうが、休ませなさいと言われるのです。
 休むということは大事です。休まなければ疲れ果ててしまいます。体もおかしくなってしまいます。しかし生活していくためには、安息日も休まなければならないと考える人もいます。しかし聖書はそのこともちゃんと語っていまして、安息日は仕事をしなくても、ちゃんとそのぶん神さまが必要なものを備えて下さると言っています。だから、神さまを信じて安心して休むという日なのです。そして、安息日には神さまを礼拝しました。それは神さまを礼拝することによって、平安が与えられ、神さまの祝福が与えられるからです。ですから、安息日は祝福の日、喜びの日なのです。
 
   安息日の変質
 
 今私たちは、38年間も病気で寝たきりの人が、イエスさまによって癒された出来事の所を読んでいます。彼はイエスさまから、「床を担いで歩きなさい」と言われ、癒やされてその通りにいたしました。しかしそれを宗教者たちがとがめました。それは安息日にしてはならないことである、と。
 なぜ、病気が癒やされて床を担いで歩くことがとがめられたのでしょうか? これは、ユダヤ人の歴史の反省から来ています。いま水曜日の聖書を学び祈る会では、旧約聖書のエレミヤ書を学んでいますが、それはまさにバビロン捕囚前の状況です。紀元前6世紀、ユダヤ人の国はバビロン王国の侵略にあって滅びました。そしてバビロンに多くの人が連れて行かれました。それがバビロン捕囚です。どうして神の国であるはずのユダヤが滅亡したのか。それはエレミヤなどの預言者が糾弾しているとおり、神に聞き従わなかったからです。悔い改めなかったからです。
 そして、バビロン捕囚が終わって、再び国に戻ってきた時、ユダヤ人はその歴史の教訓を踏まえて、今度は神に従おう!神の律法を守ろう!と、固く決意をしました。ここまでは良かったんです。しかしその「神に従う」というのが、おかしな方向に進んでしまったんです。彼らは、安息日のおきてをちゃんと守ろうと悔い改めました。安息日には仕事をしてはならないということについて、彼らなりにまじめに考えたんだと思います。神さまの罰を恐れて。そしてなにが「仕事」に当たるかを考えました。そして重い物を持って歩くことは「仕事」であると決めました。かくして、病気を癒やされた彼が床を担いで歩いているのを見て、それは仕事であると言ったのです。安息日にしてはならないことであると。38年間病気で苦しんで寝たきりであった人が癒やされて、喜んで床を担いであることが、神の掟に反すると。
 みなさん、ここまでお話ししていて、これはおかしいよねと思われた方は正解です。38年間病気で苦しんで寝たきりであった人が、イエスさまによって癒やされた。それは奇跡です。すなわち、神さまのわざ以外の何ものでもありません。しかるにそれを、神に背いていると言ってとがめるのはどういうことか。神さまがなさったことを、神に背いているというのは、矛盾です。そのおかしいことに気がつかない。だから「近くて遠い人」なのです。
 そして、彼に向かって「床を担いで歩きなさい」と言ったのがイエスさまだと知ると、そのイエスさまを殺そうと狙うようになったという。
 
   安息日も働く神
 
 彼らの指摘に対してイエスさまは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃいました。ここでいう「わたしの父」というのは神さまのことです。神は今も働いておられる。そうすると先ほど十戒の安息日の所で、七日目に神さまは休まれたと言われていました。創世記の最初の天地創造の所で、次のように書かれています。
(創世記 2:1〜3)"天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。"
 神さまは最初に光をお造りになりました。そしてこの世界のものを順番に造られました。そして六日目に人間をお造りになりました。そして創造の働きを終えられて、七日目に休まれました。休まれたというのは、創造の働きが終わったということであって、そのあと何もなさらないということではありません。天地創造のあとは寝て、この世を見ておられるだけというのではないんです。言葉を変えて言えば、神さまは世界を造りっぱなしではありません。
 たとえば私たちが家を建てたら、あとはほったらかしにするでしょうか?‥‥そのあとは家を管理しなければなりません。掃除をします。手入れをします。壊れたら直します。そして何十年かに一度、大きな修理をしなければなりません。そうしないと家がもちません。
 神さまが天地創造のあと、休んでおられないのは、聖書を見れば分かります。人間を絶えず導かれます。助けてくださいます。祈りに答えて行動されています。
 
   イエスは私たちにとってどういう存在?
 
 彼らユダヤ人の宗教者、指導者たちは、イエスさまが神を父と呼んで、自分を神と等しいものとしたといって、イエスさまを殺そうと狙うようになったと書かれています。
 人間が、神さまを「父」と呼ぶこと自体は、彼らの聖書である旧約聖書にも書かれています。しかしイエスさまは、その神さまを自分と等しいものとなさった。それを問題視しました。神を冒涜するものだと思いました。そして神を冒涜するものは死刑ですから、彼らはイエスさまを殺そうと狙うようになりました。すぐに死刑にしなかったのは、イエスさまの回りには多くの弟子たちや、イエスさまを信じる人たちがいたから手を出せなかっただけです。こうして十字架への道が見えてまいります。それでも前に進まれるイエスさま。そこに私たちを救うという、イエスさまの愛がはっきりと現れています。
 さて、イエスさまが神であるというのはヨハネによる福音書が最初から記していることですが、ここであらためて、イエスさまが私たちにとってどういう方であるかを考えてみたいと思います。
 新約聖書では、イエスさまが私たちの主人であり、師であること、すなわち先生であることはお分かりのことかと思います。たとえば、ヨハネによる福音書 13:14です。最後の晩餐の時の洗足の出来事の時、イエスさまが次のように弟子たちにおっしゃっています。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
‥‥イエスさまが、私たちの主、主人であるということは、私たちが聞き従うべきお方であるということです。そして師である、すなわち先生であるということは、私たちを教えてくださる方であるということです。
 ここまでは、イエスさまが私たちの神であり、主人であり、先生であるということですから、私たちがひれ伏し、拝み、また従い、教わる方であるということになります。しかしそれだけではありません。
 イエスさまは、私たちの家族の一員でもあります。イエスさまは、イエスさまのお話しを聞くためにイエスさまの所に集まっている人々を指しておっしゃいました。
(マタイ12:48〜50)"わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」"
 イエスさまを信じる者が、イエスさまの母であり兄弟姉妹であると言われています。ですから私たちはイエスさまの兄弟姉妹です。
 また、弟子たちはイエスさまから「友」と呼ばれています。
(ヨハネ 15:15)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
 イエスさまは私たちの「友」です。友だちです。「私には友だちがいない」というひとはいますか?友だちはいます。イエスさまです。
 このように、人となった神であるイエスさまは、私たちの主人であり、先生であり、また私たちの兄弟であり、友でもある。
 この一週間、これらの恵みを味わいながら歩んで行きたいと思います。イエスさまは友ですから、なんでも打ち明けていいんです。困ったことがあれば遠慮なく、このことに困っていますと言っていい。つまらないことでも、悩みがあれば相談できる。うれしいことがあれば、共有してもらえる。またイエスさまは兄弟ですから、私たちは最も頼りになる家族を得ているのです。
 恵みに満ちた一週間でありますように!


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