2024年5月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編51編12
    ヨハネによる福音書5章10〜14
●説教 「方向転換」小宮山剛牧師
 
   最近神のもとに召されたキリスト者
 
 ここ最近、何人かの著名なキリスト者が天に召されて逝かれました。
まず、加藤常昭先生が4月26日に亡くなられました。95歳でした。先生は鎌倉雪ノ下教会の牧師であり、また私が東京神学大学の学生であった時の実践神学の教授でした。そして「説教塾」というものを主催され、教派を超えて多くの牧師たちを指導してこられました。当教会でも2016年の11月に先生をお招きして、特別伝道礼拝をしたことを思い出します。先生は見かけとは違って、たいへんサービス精神旺盛な方でした。私が輪島教会にいる時も、次の富山二番町教会にいる時も、先生をお招きして伝道礼拝の説教をしていただきました。またいろいろと説教や伝道に関するお話しもうかがったことを思い出します。
 また、星野富弘さんが4月26日に亡くなられました。78歳だったそうです。星野富弘さんについては、学校の教科書にも載ったほどですから、説明はいらないかと思いますが、中学校の体育の先生をしていた時に模範演技をして頭から落下し、首から下が全く動かなくなるという重い障害を負われました。入院中にキリスト信仰へと導かれ、やがて口に筆を加えて絵を描き、また詩を作るようになられました。それが多くの人に受け入れられることとなりました。現在、毎月当教会でもお配りしている「心の友」にも掲載されています。私もかつて星野さんの自伝を読んで、たいへん力を与えられました。そのように星野さんは、多くの人に慰めと希望を与えられました。
 もうひとりは、ピアニストのフジコ・ヘミングさんです。彼女は苦労の多い、波瀾万丈の生涯を送られました。16歳の時に右耳の聴力を失っていましたが、苦労した末にようやくヨーロッパでつかんだチャンスである初のリサイタル直前に、風邪をこじらせて、残る左耳の聴力も失うという不幸に見舞われました。ピアニストとしては致命的と言えます。その後耳の治療を受けつつ活動していましたが、1999年にNHKのドキュメントで彼女が取り上げられ、それが大反響を呼ぶこととなり、一気にフジコさんのブームが訪れました。フジコさんはクラシックのピアニストですが、一般のクラシックのピアニストとは違って、とても柔らかい弾き方で、私もファンでありました。
 そのフジコ・ヘミングさんは、ある人のインタビューで、「人間としてピアニストとして一番大事にしていることは何か」と尋ねられると、こう答えておられます。「私は80年代、ベルリンでカトリックの洗礼を受けたので、それに答えるため、いつも自分を正しい生き方、清らかな生き方ができるように心がけている。そのために人間は『生』を神さまから頂いていると思う。」(TOMOKO KAZAMA OBERさんのインタビュー)
 神さまは、人間を神の御心に応えて歩むように造られた。そしてそれは成長していくように造られた。そのように私はあらためて思いました。
 
   もう罪を犯してはいけない
 
 本日は、エルサレム市内のベトザタの池でイエスさまがなさった奇跡の出来事の続きから、恵みを分かち合いたいと思います。
 ベトザタの池のそばに、38年間病気で寝たきりだった人が横たわっていました。38年間といえば、今よりずっと平均寿命が短い時代において、人生の大半をそのようにして過ごしていたことになります。彼はなぜベトザタの池のそばに横たわっていたかというと、ときたま目に見えぬ天使が舞い降りてきて池の水を動かした時、真っ先に池の中に入る者の病気や傷害が癒されるという言い伝えをたよって、そこにいたのでした。しかし、池の水が動いた時、いつも他の人に先を越されていました。水が動いた時、だれも彼を池の中に連れて行ってくれる人がいませんでした。ですから彼は絶望の中にいました。たしかに、池の水が動いた時に彼が一番最初に池の中に入ることができる確率は、ゼロではありません。しかし数学的にはゼロではなくても、それはかえって彼の絶望を深めるだけのものでした。しかしさりとて、他に治る見込みもない。ですから彼は、ただじっと池の水面を見つめているしかなすすべがありませんでした。
 そういう深い絶望の中にいた人にイエスさまは目を留められ、彼を癒やされたのでした。
 さて、きょうの聖書箇所で私たちの目を引く言葉があります。それは14節で、イエスさまが彼に語った言葉です。(14節)「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
 このイエスさまの言葉は、私たちを当惑させないでしょうか。ふつうに聞くと理解に苦しむような言葉です。ふつうに読むと、次のようにおっしゃっているように聞こえます。‥‥「あなたは、以前罪を犯した(悪いことをした)ために、バチが当たって病気となり38年間も寝たきりとなった。だからもう罪を犯すなよ(悪いことをするなよ)。」
 これは果たしてそういうことでしょうか?‥‥そうではないと断言できます。なぜなら、同じヨハネによる福音書の9章の、生まれつき目の見えない人のできごとを読めば分かります。生まれつき目が見えない人を見た時、弟子たちはイエスさまにこのように尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」するとイエスさまがお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 だから、バチが当たったのではないんです。
 
   ここで言う罪とはなにか?
 
 では、イエスさまが彼に対しておっしゃった言葉、「もう罪を犯してはいけない」という、その「罪」とはなんのことでしょうか?
 まずこれは、律法に違反したということではないことは明らかです。というのは、今日の所で、イエスさまに癒やされたこの人が、床を担いで歩いているのをユダヤ人の宗教家たちがとがめているからです。安息日床を担ぐことは律法で許されていない、と。十戒の第4戒に書かれているように、安息日は仕事をしないで休む日でした。律法学者などの宗教家たちは、床を担いで運ぶことも仕事だと思っていました。だから、病気が癒やされて床を担いで歩いているこの人を見て、とがめたのです。それは律法に違反していると。すると彼は、いや私の意思で担いでいるのではない、私の病気を癒やしてくださった方が「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったから、床を担いで歩いているのですと答えました。自分を癒やしてくださった人がイエスさまであることを彼は知らなかったのですが。
 そうすると、もしイエスさまがおっしゃった言葉「もう罪を犯してはいけない」というその「罪」が、律法に違反することだとすると、イエスさま自らが律法に違反しているではないかということになるわけです。ですからここでイエスさまが言われる「罪」とは、律法に違反することではありません。
 では、イエスさまのおっしゃる「もう罪を犯してはいけない」というのはどういう意味か?
 その前に「もっと悪いことが起こるかもしれない」とはどういうことかを考えてみましょう。この人は38年間病気で寝たきりでした。人生の大半を病気で苦しみ、寝たきりで過ごしました。これよりも悪いこととは何でしょうか?それ以上に悪いことがあるのでしょうか?
 それ以上に悪いこととは、死ぬということ以外に考えられないように思います。もっというと「滅び」です。永遠の滅びです。すなわち、救われないということです。これが最悪のことだと言えるでしょう。
 ベトザタの池のほとりで、イエスさまが彼に声をおかけになった時、「良くなりたいか?」とイエスさまはおっしゃいました。すると彼は、「良くなりたい」と答える代わりに「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と答えました。先ほど述べましたとおり、これは極限の絶望です。彼は絶望のどん底にいたのです。しかしイエスさまがその彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」とおっしゃったときに、彼は治りました。思っても見なかった奇跡です。絶望がひっくり返ったのです。イエスさまがそれを成してくださったのです。
 
   もう罪を犯してはいけない
 
 それまでの彼は、水が動いた時に、われ先に池に入る人を見て、うらやんできたことでしょう。そして真っ先に動くことのできない自分を呪ってきたことでしょう。だれも自分をすぐに池に運んでくれないことを恨んできたことでしょう。‥‥これらは絶望にまつわる罪です。
 しかしイエスさまは、その絶望をひっくり返されました。そしてイエスさまにこそ希望があることを示されました。そのイエスさまを信じる歩みをするように招いておられる。それが「もう罪を犯してはいけない」という言葉の意味です。もうイエスさまから目を離さないようにと。イエスさまを遣わされた父なる神さまを信じるようにと。イエスさまが招いておられるのです。
 
 キリスト教放送局FEBCの新聞の今月号の、リスナーからの投稿欄に、ある女性からの手紙が載っていました。次のように書かれていました。
 "ヨハネ5章、ベテスダの池の病人。 「なおりたいのか」と、病人の求めを知って語りかけてくださるイエス様と、求めることを投げ出し「そうなりたいけどできない理由」を話す病人。この病人の心の状況を、14節で「罪」と言われ、私の中にも同じ罪があることが示されました。私は、人と仲良く交わりたいと望みながら、自分を低く見積もることで、うまく関係を築けずにいました。誰かと挨拶はしても、自分の中に「相手は私と会話したくないかもしれない」という思いが出てきてしまって・・・。ある時、そこを掘り下げてみると、子供の時に大人に言われた、自分の存在を否定する言葉にまだ傷ついていて、癒されていないからかもしれないと気づきました。そう気づいた後も、しばらくどうしていいか分からなかった私に、この箇所が飛び込んできました。まるでイエス様から「癒されたいか」と尋ねられても「私と関わりたい人はいないから、人に相手にされなくてもしょうがないんです」と言い訳してる自分がいるようでした。でもそんな私に、イエス様は「もう人の言葉に囚われず、私によって癒されて、私の言葉で生きなさい」と仰ってくださいました。どんなに昔のことでも神様は癒して下さるのですね。そして、 「あなたは高価で尊い」と聖書にあるのだから、人間の言葉の方を重く受け止めなくて良いことを学びました。
 
 私はどうせダメだ‥‥そういう絶望です。しかしイエスさまの前では絶望は罪となるということです。イエスさまの前には絶望はありません。この絶望のどん底にいた彼の所に、イエスさまは来てくださったからです。
 キルケゴールは、「死に至る病とは絶望のこと」だと言いました。この世の現実しか見ていないと、あきらめしかなく、絶望が覆います。しかし、どんなに絶望的でも、イエスさまがそこにおられる時、それは希望へと変えられる。それゆえ、「もう罪を犯してはいけない」とは、「わたしの前ではもう絶望する必要はない」ということです。
 冒頭でご紹介しました、最近亡くなった著名な3名の方は、いずれもキリストの希望に生きた人でした。今わたしたちがどんなに絶望的であったとしても、イエスさまの前に出た時に、それは打ち砕かれ、希望が与えられます。


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