2024年4月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教/今年度主題聖句
●聖書 マルコによる福音書4章13〜20
●説教 「みことばの再発見」小宮山剛牧師
 
   2024年度主題聖句
 
 本日は、朝の礼拝のあと本年度の教会総会が開かれます。そこで提案する今年度の主題聖句を本日の聖書箇所といたしました。
 現在、日本のキリスト教会の伝道は停滞しています。それはキリスト教会ばかりではなく、宗教全体が低迷しているのが現状です。かつては華やかなりし新宗教もそうですし、そればかりではなく日本の伝統的な宗教も低迷しています。たとえば仏教も、檀家制度が崩壊しつつあり、無住職や兼住職のお寺が激増しているとのことです。
 しかし日本人が超越的なものを信じなくなったということではないようです。ある調査によると、あの世を信じる人は増えているとのことです。ということは、現在の日本人が宗教から離れていっているということになります。これは日本だけではなく、ヨーロッパなどの先進国でも同じ傾向があります。
 その原因は何なのか。いろいろ指摘されていますが、現代人が、この世のことばかりに関心を向けるようになったということも挙げられます。しかし宗教の側にも問題があるでしょう。たとえばカルト宗教(それは「宗教」というよりはサギといったほうが良いものです)が、さまざまな事件を引き起こしたことも影響しているでしょう。あるいは伝統的な宗教が、あぐらをかいてきたということも原因の一つかもしれません。
 キリスト教会について考えてみましょう。その伝道の停滞はイエスさまに原因があるのでしょうか?‥‥答は「No」であるに違いありません。あるいはイエスさまの言葉に原因があるのでしょうか?‥‥これも「No」でしょう。だとしたら、今日も教会には希望があるということができます。いまむしろ、よりいっそうイエスさまを知り、イエスさまの御言葉に信頼することがたいせつであると言えるでしょう。
 イザヤ40:8にこう書かれています。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」草は枯れ、花はしぼむ。すべてのものには終わりがあり、過ぎ去っていきます。100年前の世界は、現在の世界ではありません。それどころか、今や時代は加速度的に速く進んでいます。10年前の世界は、現在の世界ではありません。それほど移り変わっています。宇宙すらも永遠ではありません。しかし、唯一永遠なるものがこの世に与えられている。それが神の言葉であるというのです。すべてが移り変わる中で、主なる神の言葉だけが永遠に変わることがない。この永遠に真実な言葉が聖書には書かれているんです。
 神が存在するということ自体は、多くの人が信じている。あるいはそう思っているでしょう。しかしその神とはどういう神かといわれれば、人間の考えでは分からない。しかし聖書には書かれているわけです。その真実の言葉を教会は伝える。それはまことに尊いことです。私たちは改めてみことばの恵みを味わって行きたいと思います。
 
   無造作に蒔いている?
 
 さて、本日の聖書箇所は「種蒔きのたとえ」です。イエスさまの語られた有名なたとえ話です。このたとえ話は、イエスさま御自身が解説をなさっている点でも特徴的です。今日はその解説をなさっているところを読んでいただきました。ガリラヤ湖。その湖畔に集ったおびただしい群衆を前に、岸からやや離れたところに舟を出して、その舟の上から語られたのがこのたとえ話です。
 「種を蒔く人」が登場します。この種は麦だと思われます。そして種を蒔く人が種を蒔いていった。ある種は道端に、ある種は石地に、ある種は茨(いばら)の中に落ちた‥‥。なんだかずいぶん無造作に種を蒔いているように思います。バラバラと、おおざっぱに蒔いているように思える。だから、畑ではなく、道ばたとか、茨の中に種が落ちてしまう。しかし本当にそうなのか。もう一度よく考えてみたいと思います。
 私が子どもの頃、家の裏には田んぼがありました。そして農家の人が田んぼで稲を育てるのをよく窓から見ていました。今は籾(もみ)を蒔くのがずいぶん早くなりましたが、昔は静岡では今ごろ蒔いたものです。まず田んぼに水を引いて、苗代を作るんですね。鍬で作っていきます。そしてその苗代に稲の種、つまり籾を蒔いていく。慎重に蒔いていきます。苗代ではないところにも実が落ちないようにです。ていねいに蒔いていきます。たいせつな一粒一粒だからです。
 ましてや聖書の時代、今から2千年前の時代は、生産性の低い時代です。品種改良がなされていません。ですから、一粒の麦から10粒から30粒ほどの実しか結ばなかったと言われています。ですから、現代よりももっと慎重に、ていねいに種を蒔いたことでしょう。道ばたや石地や茨の中に種が落ちるなんてことは、まず考えられません。たまにそういう種もあっただろうと考えられないこともありませんが、まずないでしょう。だからこのたとえ話は変なんです。おかしいんです。
 しかし以前にも申し上げましたが、私の師匠であった清水恵三先生がおっしゃいましたが、イエスさまのたとえ話には「おや?おかしいぞ」というところが必ずある。そしてその、おかしなところに神さまの恵みが現れているんです。そのことを踏まえてもういちど考えてみましょう。
 このたとえ話で、種とは何でしょうか?そして種を蒔く人とは誰でしょうか?‥‥種とは神の言葉のことであると、イエスさま御自身が明かしておられます。すると、種を蒔く人とは神の言葉を語る人のことだということになります。
 そうすると、種を蒔く人として、まず第一にイエスさまであることが考えられます。だとしたら、そんなに無造作に種を蒔くはずがありません。愛をもって、ていねいに蒔かれるはずです。次に、種を蒔く人が伝道者のことであるとしたらどうでしょうか。やはり、神の言葉を聞いてもらおうとしてていねいに蒔くでしょう。また私たちが種を蒔く人であるとしたらどうでしょう。やはり無造作に神の言葉を人に伝えるようなことをしないでしょう。いずれにしても、籾をていねいに苗代に蒔くように、麦の種も良く耕した畑に蒔くこと以外は考えられません。
 そうすると、道ばたに落ちた、石地に落ちた、茨の中に落ちたというのは、種を蒔く人が悪いのではなく、神の言葉を聞く人の問題であることが分かります。つまりそれは、世の中の人のことであり、また私たちのことでもあります。種を蒔いた人はちゃんとていねいに蒔いたんです。良い地、つまり畑に蒔いたはずなのに、なぜかそれが実は道ばたのようであったり、石地のようであったり、茨であったということです。それが意外なことであり、おかしなこととして描かれていると言えます。
 
   実を結ばない地
 
 次に土地について順番に見てみましょう。
@道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいました。イエスさまは、これはサタンが御言葉を奪い去るということだとおっしゃっています。根を出す前にサタンが来て取っていってしまうんです。
 みなさん、思い当たることがあるでしょう。聖書の言葉を聞いて、右の耳から左の耳へとサッと抜けていってとどまらない。そこには自分だけではなく、サタンがそうしているというのです。このサタンに奪い去られないためには、イエスさまの助けが必要です。御言葉を読んだり聞いたりする時に、聖霊の助けを求めるのです。
A石地に落ちた種。これは根がないために、日が昇ると焼けて枯れてしまった。これについてイエスさまは、困難や迫害があるとつまずくということだとおっしゃっています。
 これは、この世のことがうまく行く限り信じる、という信仰ですね。お金がもうかるとか、なんでも思った通りになるとかです。言ってみれば、ご利益信仰です。しかし、実際には、信じていても試練があるんです。それは聖書の登場人物を見ても分かります。使徒パウロも多くの試練にあい、迫害されました。そして聖書は、試練に遭った時、どうすれば良いかも教えています。試練の時こそ、御言葉が力を発揮します。だから、困難なことがあったと言ってやめてしまえば、神の言葉の力を知ることができません。
B茨(いばら)の中に落ちた種。これは、この世の思い煩いや富の誘惑、いろいろな欲望によって御言葉がふさがれて実を結ばないのだと言われています。
 例えばここで言われている「思い煩い」。このことについては、マタイによる福音書の山上の説教の中のイエスさまの言葉を思い出される方も多いでしょう。(マタイ6:25)「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」‥‥この「思い悩むな」という言葉は前の聖書では「思い煩うな」となっていました。明日のことを思い煩うな、というのは楽天家になれという意味ではありません。あなたの心配しているそのことを、イエスさまにゆだねなさいということです。この言葉を語られたイエスさまを信じて、ゆだねなさいということです。そうすれば大丈夫だと。
 以上、簡単に見てきましたが、私たち自身が御言葉を聞く時、道ばたにもなり得るし、石地にもなり得るし、茨にもなり得るということです。それゆえ、イエスさま、聖霊の助けが必要です。
 
   豊かな実を結ぶ地
 
 そして良い土地。それは御言葉を聞いて受け入れる人だと言われます。するとその御言葉は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶと言われます。先ほども言いましたように、この当時の麦は、豊作でもせいぜい30倍にしかならない。それが60倍、100階にもなるというのは、予想外の収穫です。すなわち、御言葉を聞いて受けいれれば、予想外の実りをもたらすと言われるのです。
 本日は教会総会があります。教会総会は、昨年度の主の恵みを振り返り、新年度のために祈る時です。
 すでに証ししましたように、昨年11月、私は突然の心筋梗塞によって救急車で病院に運ばれるという事態に直面しました。そして病院でカテーテルの緊急手術がおこなわれました。そのとき私は、事態がよく飲み込めず、「死ぬのかなあ」と思いました。そして「死んだらどうなる?‥‥そうか天国かあ」と思いました。そしてすばらしい平安が私を包みました。「天国か、いいね!」と思ったのです。心筋梗塞は二度となりたくありませんが、その経験はすばらしい経験でした。
 40年以上前、神を捨て信仰を捨てた私は、あるとき喘息で窒息しそうになり、やはり救急車で病院に運ばれました。そのとき私は暗闇が自分に迫ってくるのを感じました。そしてその向こうが死であることが分かりました。そのとき私は「死にたくない」と思いました。そして忘れていた神さまに助けを求めました。しかし今回は、すばらしい平安が包んだのです。これは私の信仰ではありません。御言葉が私の中で実を結んだのだと思います。イエスさまはこうおっしゃいました。
 ヨハネ14:27「わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和(平安)を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
 これです。私の信仰心ではありません。主が与えてくださる平安です。それを経験することができました。これは私がかつて、とても良い言葉だなあと思って心に受け入れた言葉でした。そのように、御言葉が実を結ぶのです。
 
   聖書を読み続けた人
 
 そのためには聖書を読むということが大切です。私が輪島教会にいたころ、教会員から「おばあちゃん」と呼ばれていた80代のご婦人がいました。彼女は農業を営んでいました。しかし同居している息子は、彼女が教会に行くことを快く思っていませんでした。彼女は、輪島教会から車で20分ほど離れた集落に住んでいました。そして毎週日曜日の朝、教会学校が始まる前に私が車で迎えに行っていました。そして彼女が帰るのは、礼拝が終わり、そのあとに役員会や集会がある時はそれも終わってから、彼女をまた車で送っていきました。ですから、彼女は日曜日に教会に最も長い時間いる信徒でした。ですから、礼拝以外の時は、彼女はほとんどヒマなわけです。そのヒマな時に何をしているかというと、必ず聖書を読んでいました。教会の椅子の上に正座して、いつも聖書を読んでいるんです。
 それであるとき、他のご婦人が彼女に言いました。「ばあちゃん、なんでそんなにいつも聖書を読んどる?」すると彼女はこう答えたのです。「だって、読んでもすぐに忘れるからよ。だから聖書から目が離せないのよ」と。私はそれを聞いて感動しました。なぜなら「どうせ読んでもすぐ忘れるから、読まない」という人もいるだろうからです。しかし彼女は、「読んでもすぐ忘れるから、聖書から目が離せない」という。御言葉を愛している人でした。苦労して生きている人でした。だからこそ、生ける御言葉が彼女にとってはかけがえのないものだったのです。
 今年度、そのみことばの恵みを再発見する歩みでありたいと思います。教会も、みことばの恵みを再発見しつつ、その上に立ち続ける教会でありたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]