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2024年4月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書60章1〜2
ヨハネによる福音書5章1〜9
●説教 「絶望からの脱出」
ベトザタの池
先週は、北部のガリラヤ地方のカナの町での出来事でした。本日の所で、イエスさまはふたたびエルサレムへと行かれます。エルサレムには、「羊の門」と呼ばれる門から入られたようです。門から町に入るというのは、都のまわりが城壁で囲われているからです。イスラエルだけではなく、昔の大陸のほうの都市は、がんじょうな石垣で作られた城壁で囲まれていました。敵国の侵略から町を守るためです。それで町の中に入るためには、門を通る必要がありました。その一つが「羊の門」です。そしてその門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池があったと書かれています。ベトザタの池は、一般にはベテスダの池と呼ばれ、以前の聖書ではそうなっていました。
現在のエルサレムではどうなっているかと言いますと、エルサレムの旧市街の城壁のライオン門という門の近くにあります。このライオン門はステファノ門とも呼ばれていて、使徒言行録の7章で、教会の伝道者の一人であったステファノが人々から石を投げつけられて殉教した時に、この門から引きずり出されたことから、その名前がついています。そしてこの池は現在のエルサレムのアラブ人地区にあって、一部が発掘されています。ただし地下20メートルのところにあります。というのは、エルサレムはだいたい地面を10メートル掘るごとに千年前の地面が現れるからです。2千年前だと20メートルになるわけです。なんでそんなになるかというと、エルサレムは昔から戦乱の地にありますので、戦争があって町が破壊されて、またその上に町を作るということを繰り返してきたからです。
今のベトザタの池は、そういうわけで20メートル地下にあります。そして途中まで階段がついています。その階段を降りていくと、暗かったですけれど、下の方にたしかに水面が見えました。ああ、あれが今日の聖書の舞台なんだなあ、と思いました。
この池に5つの回廊があったと書かれています。これはどういう形かな?と思われると思いますが、簡単に言うと「日」という漢字の形になっていたと言うことです。日という漢字は直線が5本ですね。つまり、四角い池が真ん中に廊下があって二つに区切られているような形です。
かすかな希望?
そしてこの回廊には、病気を抱えた人や身体に障害を持った人がおおぜい横たわっていました。なぜこの人たちはこの池のまわりに横たわっていたんでしょうか? この聖書(新共同訳)を読んだだけではさっぱり分かりませんね。そして聖書の節の番号をよく見ると、4節がないことにお気づきかと思います。かわりに十字架みたいな印がついていますね。これはどういうことかというと、ヨハネによる福音書の末尾にあるということです。212頁です。そうすると、3節後半から4節がここに載っています。こう書かれています。
3節後半〜4節「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
これで、なぜおおぜいの病気の人や障害を持った人たちがここに集まっていたかが分かります。それにしてもなぜ新共同訳聖書では、わざわざこの3節後半から4節の部分を巻末に持っていくようなことをするのでしょうか? それは、ヨハネによる福音書の写本、昔は印刷機がありませんから手で書き写したわけですが、その写本のなかには、この部分がないものがあるからです。だから、もともとヨハネが書いた原本にこの部分があったかどうか分からない。それで巻末に、参考までにと載せているわけです。
しかしこの部分がないと、なぜベトザタの池のまわりにおおぜいの人が集まっていたか理由が分からなくなってしまいます。しかしその内容が、なにか迷信のようですね。天使が降りて来て池の水を動かしたときに真っ先に池に入る者は癒やされた、などというのは、たしかに聖書の記述とも思えません。そんな話は他の聖書を見てもありません。まるで迷信のようです。それで迷信のようなので、写本する人の中にはこれを省いた人がいたのではないかと思います。
天使が来て、水が動いて真っ先に池に入る者の病気が治るというのは変です。われ先に、ということになりますから。それは聖書とは違います。だからたぶん迷信でしょう。その迷信がどこから始まったかというと、もしかしたら池の水が動いたときに池に入った人の病気が治ったということが、たまたまあったのかもしれません。それが迷信となって広がっていったのではないでしょうか。
しかしそのようなことは、現代でもあります。たとえば「この水を飲めば病気が治る」とか、「このお札を買えば商売が繁盛する」‥‥というようなたぐいです。いずれも怪しげです。
しかし問題は、そのようなものが迷信だとしても、その迷信に頼るしかない人々がいるということです。もちろん医者にも診せたでしょう。しかし当時の医者にはどうすることもできないんです。だから確実なものではないにもかかわらず、この池のまわりで水が動くのを待っているしかない。
絶望の中の男
その中の一人が、今日の登場人物です。彼は38年間病気で苦しんでいました。38年間です。皆さんの38年前はいつでしたか? 私の38年前は20代後半の神学生でした。そのあと38年間が病気で寝たきりということになると、輪島教会にも着任せず、そのあとの富山二番町教会時代もなく、逗子教会にも行かなかったということになります。その間ずいぶんいろいろなことがありましたが、それらの時間がずっと病気で苦しんで寝たきりであった。つらくきびしい人生であったと思います。とくにこの時代は、平均寿命が30歳〜40歳ほどです。生涯のほとんどが病気で苦しんできたものであったと思われます。
福祉のない時代です。生活していけたのでしょうか? 貧しい者を顧みるのがユダヤ人の徳目でしたから、いろいろな人が食べ物をくれたりしたことでしょう。しかしあとは池の畔で水面をじっと見つめ、動くのを待っているという毎日です。
絶望の言葉
そこにイエスさまが来られ、彼に声をかけられます。前回の聖書箇所のカナの町では、王の役人のほうからイエスさまにお願いに来ました。しかしきょうは、イエスさまのほうからこの人に声をかけています。「良くなりたいか」と。
「良くなりたいか」とイエスさまは言われました。しかし良くなりたくない人がいるでしょうか。良くなりたいからこそ、ここにいるのではないでしょうか? なぜイエスさまは、そのようなことをお聞きになるのでしょうか?
良くなりたい、という意思を確認なさりたかったのではないでしょうか? 「今のままで良い」というのなら仕方がない。しかしイエスさまの前で、どのように言うのか、ということです。
すると彼は答えました。「主よ」と答えています。しかしここで彼が言っている「主」は、救い主としての主ではないでしょう。しかも彼は、自分に声をかけた人がイエスさまであるということも知らずに答えています。そのことは13節を見ると分かります。ですから彼が言った「主」という言葉は、単純に相手を敬って呼ぶときに使う言葉としての「主」でしょう。自分のことを心配してくれるこの人に対して、ありがたく思っているんです。
しかし続けて彼が言ったことは、7節の通りです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
水が動いたとき、みな我先にと池の中に入っていく。そうすると重い病気や重い障害の人は遅れることになります。彼の言葉は絶望の言葉です。自分が真っ先に池の中に入ることは、無理である。たしかに可能性はゼロではない。その可能性は0.00001%ぐらいにしかならない。限りなくゼロに近い。その証拠に、今までもダメだった。しかしさりとて、他に希望もない。医者が病気を治してくれるわけでもない。だからここにいるしかない。
仮に池の水が動いて、他の人が先に池の中に入っていったとします。そしてその人が、万が一癒やされたとします。しかしそれはこの人にとっては、希望でもなんでもない。絶望を深めるばかりであったはずです。あの人は癒やされ、自分は相変わらず苦しんでいる。自分は無理だと絶望が深まるばかりです。
私は、毎年正月におこなわれる、関西のある神社の福男(ふくおとこ)選びというのを思い出します。毎年ニュースになりますから、皆さんもご存じのことと思います。あれは門が開くと同時におおぜいの人が一目散になって神社の本殿まで走って行きます。そして1着から3着までの人がその年の福男となります。あれは見世物としてテレビで見ている限りにおいてはおもしろいですね。しかしもしあれが、3着までに入らないと願いが叶わないとしたらどうでしょう。もう私には絶望しかありません。たしかに3着までに入る可能性はゼロではないでしょう。しかし限りなくゼロに近い。自分よりも若く、早い人ばかりです。ですから、3着までに入った人がいると聞いても、それは逆に絶望を深めるばかりです。
きょうの38年間病気で苦しんで寝たきりの人は、そういう絶望の中にいた人です。
これは病気などに限りません。仕事に成功する人がいます。しかしそれは自分ではない。成功する人がいます。しかしそれも自分ではない。たしかに自分が成功する確率はゼロではないかもしれない。しかしそれは限りなくゼロに近い可能性です。成功した人のサクセスストーリーは、かえって自分との距離とあきらめを深めるものに過ぎない。
幸せな生活をしている人たちがいる。しかしそれは自分ではない。‥‥そして相変わらず苦悩の中にいる。こういうことは多くあるのではないでしょうか。
起き上がる
その彼に対してイエスさまはおっしゃいました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
起き上がることの出来ない男に向って、歩くことの出来ない彼に向かって、そのようにおっしゃいました。ふたたびイエスさまの言葉です。そしてそれは力ある言葉です。前回の王の役人に対して言われた「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と同様です。このイエスさまの言葉を信じて立ち上がったのです。立ち上がることができたのです。奇跡が現れたのです。
イエスさまの言葉の力です。天地創造の時に神が、「光あれ」と言われると光ができたのと同じようにです。彼はそのイエスさまの御言葉の力を証しする者となりました。
私たちは、この出来事を見てどう思うでしょうか。彼はイエスさまの言葉を聞くまでは、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と、絶望の言葉を言いました。私たちも言うのでしょうか、「彼は祝福された。けれども私は祝福されない。彼は特別な人だ。私は除外されている。‥‥」
しかし彼も同じように言っていたのです。そしてそういう最も遅い者に対して、イエスさまは語られたのです。そのことを心に留めたいと思います。そして力を与えられたいと思います。イエスさまにおいては、希望しかありません。
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