2024年4月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書57章18〜19
    ヨハネによる福音書4章43〜54
●説教 「生かすことば」小宮山 剛牧師
 
   輪島教会の礼拝
 
 輪島教会ですが、ご承知のように、元旦に発生した能登半島地震により教会堂は全壊しました。そして日曜日の礼拝は、避難所で簡略化して守られてきました。しかし先週4月7日より、被害が比較的軽微だった信徒宅で、礼拝を守ることができるようになったとのことです。その礼拝は、牧師を含めて大人7名・子ども1名の計8名だったそうです。その知らせを聞いて、本当に良かったなあと思いました。
 今後さらに避難先から戻ってくる人がいれば、増えていくことでしょう。あまりにも大きな被害であったために町の復興はほとんど進んでいませんが、私たちは祈り続けたいと思います。
 
   預言者故郷で敬われず
 
 さて、本日の聖書箇所で、イエスさまはサマリアを後にして、北部のガリラヤへ行かれました。ガリラヤは、イエスさまの故郷であるナザレの村がある地方です。ここでヨハネ福音書は、イエスさまが言われた言葉を引用しています。それは「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という言葉です。しかし今日の聖書では、イエスさまはナザレに行っていません。ナザレは村の名前、ガリラヤはその地方の名称です。たとえて言えば、逗子の町と神奈川県というような関係です。逗子生まれの逗子育ちの人にとっては逗子が故郷であって、同じ神奈川県でも小田原が故郷だとは言わないでしょう。ですからここでヨハネ福音書が言っている「故郷」というのは、もう少し広い意味で言っているようです。
 そして誤解のないように申し上げますと、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という言葉は、敬われたくて言っているのではありません。預言者とは神さまの言葉を預かっている人です。ですから神さまの言葉を語ります。それが敬われないということは、神の言を神の言として聞かないということです。このヨハネ福音書の一番最初に、イエスさまが「言」であるということが書かれていました。神の言です。その神の言そのものであるお方のいうことが、聞き入れられない。
 しかしイエスさまがガリラヤに到着されると、人々がイエスさまを歓迎した。それはガリラヤの人たちも、エルサレムでイエスさまがなさったことを見ていたからだと書かれています。イエスさまのなさる奇跡、不思議な業を見ていたからです。つまりここに、奇跡を見て信じるということと、神の言を単純に聞いて信じるということが比べられていると言えます。
 
   父親の選択
 
 イエスさまはガリラヤ地方のカナの町に行かれます。これはすでに学んだところですが、イエスさまが婚礼でぶどう酒が足りなくなったとき、水をぶどう酒に変えられるという奇跡をなさった町です。するとここにひとりの父親が登場いたします。この人は王の役人であったと書かれています。王というのは、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスという人です。役人と日本語に訳されていますが、王の家来とも読めますし、王の家の人とも読めます。この人の息子が重篤な病に冒されていた。それで息子を助けてもらおうとしてイエスさまのところにやって来ました。
 この人はガリラヤ湖畔のカファルナウムの町の人だった。一方イエスさまがこの時滞在していたのはカナの町。どれぐらいの距離かといいますと、今は便利ですね。インターネットのGoogleマップでちゃんと分かるんです。カナの婚礼の教会というのがありまして、そこからカファルナウムの町のあとの経路を検索すると、歩いて約8時間と出ました。イエスさまが来たという知らせが、そんな遠くの町まで聞こえてきたというのは驚きです。インターネットも電話もない時代です。クチコミだけです。いかにイエスさまが有名になってきたかということが分かります。
 医療が発達していない時代です。この父親は、もちろん息子を医者にも診せたことでしょう。しかし医者にはどうすることもできなかった。死を待つしかないのか。そこにウワサのイエスさまがカナの町に来たという。彼は何もかもかなぐり捨てて、王家の人間だというプライドもなにもかなぐり捨てて、急いでイエスさまに会うために出かけたにちがいない。ワラにもすがる思いです。
 
   信じることに重点
 
 父親は、イエスさまにお願いしました。カファルナウムまで来て、息子を癒やしてくださいと。それに対してイエスさまは意外なことをおっしゃいます。(48節)「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。父親は、息子の病気を癒やしてくださいと言っているのに、イエスさまは、信じるとか信じないという信仰のことをおっしゃっる。この「信じない」というのは、イエスさまが病気を癒やすことのできる方であることを信じない、と言っているのではありません。イエスさまがキリスト、すなわちメシアであることを信じないと言っているのです。なにかちょっとイエスさまは的外れなことを言っておられるように聞こえます。
 親にしてみれば、そんなことはどうでもいいではないかと思える。とにかく助けてくれればよいのだと思う。しかしイエスさまの言葉をよく考えてみますと、イエスさまのおっしゃっていることは、病気の癒やしを否定なさったのではない。ただ、癒やしというのは通過点であって目的ではないということです。目的は、救われるということです。病からの癒やしが目的なのではなく、神の救いにあずかること。そこに向かっています。
 しかしまたイエスさまは、困っている人の切実な訴えを無視される方ではありません。この父親が言いました。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」この切実な求めに応じられます。ただ、一緒にカファルナウムに行くのではなかったんです。ただ言葉を与えられたんです。(50節)「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と。言葉でこの父親の息子の癒やしを告げられたんです。
 しかし、父親は信じました。イエスさまの言葉を信じました。そしてそのイエスさまの言葉に従って、帰って行きました。そして息子は、イエスの言葉が語られた時刻に熱が下がり、癒やされました。返って行く途中に父親のしもべたちに会いました。しもべらは言いました。「昨日の午後一時に熱が下がりました。」それはイエスさまが父親に息子が生きると告げられた時刻でした。「昨日の午後1時」ということは、父親はなにをゆっくりしていたのかと思いますが、最初に申し上げたように、カナとカファルナウムは歩いて8時間かかりますから、イエスさまから言葉をいただいた日は、どこかに泊まったに違いありません。
 息子は癒やされました。「そして、彼もその家族もこぞって信じた」(53節)と書かれています。イエスさまがキリスト、救い主であることを信じたんです。
 
   岩渕まことさん
 
 今月号の「こころの友」にシンガーソングライターの岩渕まことさんがトップページで紹介されています。昨年11月に当教会のチャペルコンサートにも来ていただきました。私はちょうど入院中で、出席できませんでしたが。「こころの友」には、岩渕さんのお嬢さんである亜希子さんが小学校1年生の時に、脳腫瘍が見つかったということの証しが書かれていました。そこには簡単に書かれていますが、岩渕さんの著書『気分は各駅停車』にはもう少し詳しく書かれています。
 亜希子さんの脳の左側に赤ちゃんの握りこぶし大の腫瘍が発見されたのです。すでに手遅れで、生きていること自体が信じられない状態であると医者から言われたそうです。すでに手の施しようがないと。しかし岩渕さん夫妻はあきらめずに病院を捜し、東京の病院で診てもらったそうです。するとそこの先生は、「手術をして助かる確率は1%しかない」と言ったそうです。そして「岩渕さんはクリスチャンだそうですね。私はその1%にかけたいので、祈っていてください」と言って手術を引き受けてくれたそうです。その手術は8時間の予定であったそうですが、困難なことがあり、27時間後にようやく手術室から出てきたそうです。その病院の最長の手術となったそうです。亜希子さんは、その後1年2か月生きたそうです。
 年が明けて髄膜炎を併発しました。それは手術が必要だったそうです。しかし手術のあとは、大好きだった「チョコレート」という言葉しか話さなくなってしまった。なにを言っても「チョコレート」と。しかしそれもしばらくすると「レート」という言葉だけになったそうです。
 5月の連休の前、岩渕さんが「アッコ、イエスさまが見えるか?」と語りかけたそうです。すると、亜希子さんはうなずいたのだそうです。「応えてくれるとは思っていなかっただけに驚きましたが、イエスさまが今、亜希子の心を照らしていてくださるだけではなく、私たちの中にもイエスさまがいて、支えてくださっているのだと、改めて思い起こすことができました」と本に書いておられます。
 その日が娘である亜希子さんと言葉を交わした最後となったそうです。そして、その後は意識がなくなったそうです。そして10月に神のもとに召されていったそうです。
 この証しは、究極の救いを証ししていると思いました。亜希子さんは小学生の時に亡くなりました。早すぎる死です。しかし人間、早いか遅いかはあるが、皆死んでいきます。しかしその死が終わりなのではなく、究極の救いに変えられるという奇跡が起きる。岩渕さんのお嬢さんは、イエスさまが見えたのです。そこに救いが証しされています。
 
   みことばの力
 
 本日の聖書箇所は、イエスさまの言葉に力があることを強調していると思います。父親はイエスさまに、(49節)「子どもが死なないうちにおいでください」とお願いしました。おそらく父親は、イエスが来て、手を置くとか呪文を唱えるとか、そういうことを期待していたのではないでしょうか。
 しかし、イエスさまは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と、言葉だけをおっしゃいました。この父親の息子のいるカファルナウムから歩いて8時間も離れたカナの町でおっしゃった。そして息子は治りました。イエスさまの言葉に実行力があることを示しています。
 このできごとは、私たちに非常な勇気を与えてくれます。私たちは今、肉眼の目でイエスさまを直接見ることはできません。代わりに聖書を通してイエスさまの御言葉が与えられています。このイエスさまの言葉は、信じるに足る言葉であるということです。すなわち、聖書の言葉は信じるに足る。その通りの力があるということです。そのことが力強く語られています。
 このことが分かると、私たちの聖書の読み方も変わってきます。力を持ってきます。たとえば、本日のローズンゲン(日々の聖句)の旧約聖書の言葉は、詩篇18編33節の言葉になっています。
 詩編18:33「主はわたしに力を帯びさせる」
 このみことばもまた実際その通りであり、神さまの実行力がると思いますと、今までとは違った印象で受け取ることができます。「主はわたしに力を帯びさせる」。自分には力がなくてもいいんだなあ、主がわたしに力をも足せてくださるんだなあ、と思います。そしてその通りだというのです。今週も、みことばを通して、力を持たせてくださる主と共に歩んでまいりたいと思います。


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