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2024年4月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記42章5〜6
ヨハネによる福音書4章39〜42
●説教 「百聞と一見」
自らイエスを信じるようになる
「サマリアの女」とイエスさまの出会いのできごと。この礼拝説教では5回に分けて扱ってきまして、今日はその最終回となります。井戸に水をくみに来た一人の女性。そこで休んでおられたイエスさまとの対話によって始まったこの出来事は、町の多くの人がイエスさまを信じるに至ります。
本日の聖書箇所の42節で、町の人々が彼女に言いました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
この言葉は、イエスさまのことを教えてくれた「あなたはもう必要ない。あとは自分たちで信じる。」‥‥と彼女を突き放して言っている言葉ではありません。「あなたのおかげでイエスさまと出会うことができた。そして私たちは直接イエスさまからお話しを聞いて、信じることができた。感謝だ。」という言葉です。
そのように町の人々が言った。人がそのように言うようになることは、伝道者の願いでもあります。私たちがイエスさまのことを教えた人が、「わたしが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と言うようになる。これ以上の伝道者の喜びはありません。私のことは忘れて下さって良いのです。「小宮山という牧師がいた」などということは忘れてもらってかまわない。その人がイエスさまに出会い、イエスさまを信じるようになれがそれでよい。そのように思います。
そこが、いわゆるカルト宗教とは違うところです。「私を信じて下さい」ではなく「イエスさまを信じて下さい」です。「俺についてこい」ではなく「イエスさまについて行きましょう」です。
しかし一方では、そこが信仰の継承のむずかしい点でもあります。例えば仏教の場合は、我が子が仏教の教えを知っていても知らなくても、あるいはお釈迦様の教えをまったく知らなくても、家に仏壇があるから仏教徒だと言う人が多いですね。お経など何も知らなくても、「うちは○○寺の檀家だから仏教だ」という言い方にもなります。しかし私たちの場合は、キリスト教の親から生まれたので自動的にクリスチャンということになりません。その子どもが自分でイエスさまを信じるということに至る。それが必要なわけです。それで私たちは、家族がイエスさまと出会えるように祈っています。
私についても両親の祈りがあったに違いありません。それでいま両親が生きていれば、シカルの町の人々と同じことを言いたいと思います。「わたしが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
聞くこと
きょうの聖書箇所では、「聞く」という言葉が目立っています。39節には「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」と書かれています。彼女の証言を聞いたんです。その言葉を聞いてイエスさまを信じた。41節では「イエスの言葉を聞いて信じた」と書かれている。さらに42節では、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と言っています。つまりここでは、イエスさまのお話しを聞いてイエスさまが本当に世の救い主であることが分かったという。
そのように、イエスさまについての証言を聞く、またイエスさまの言葉を聞いて信じたと書かれています。「聞いて」信じたのです。そして、イエスさまが奇跡をなされたということは書かれていません。あくまでも「聞いて」信じた。
いっぽう、このあとの出来事になりますが、48節でイエスさまはつぎのようにおっしゃっています。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」これはユダヤ人の役人に対して言われた言葉です。
ユダヤ人が嫌っていたサマリア人は、聞いて信じた。いっぽう神の民であるはずのユダヤ人は「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と言われている。対照的です。聞いて信じる人と、奇跡を見ないと信じない人です。
福音書を読むと、3つのタイプがあることが分かります。
(1)聞いて信じた人々です。きょうのサマリアのシカルの町の人々がこれです。
(2)奇跡を見ないと信じない人々です。ユダヤの人々がこれに当たります。
(3)聞いても見ても信じない人々がいます。祭司長、律法学者、ファリサイ派で、彼らがイエスさまを十字架へと追いやりました。彼らは、イエスさまを捕らえるために、言葉尻を捉えて抹殺するためにイエスさまの言葉を聞きました。これでは、聞いていると言っても、すなおな心で聞いているのではありません。こういうのは聞いているとは言えないでしょう。
私の場合はどうだったか。それは(2)です。奇跡を見ないと信じない人でした。私はクリスチャンの両親の元で育ちました。そして高校生の時まで教会に通っていました。ですから、キリスト教についてはだいたい分かったつもりでいました。しかしなにも分かっていなかった。それでやがて教会を離れました。神さまのことも信じなくなりました。そんな私がふたたびイエスさまのところに戻ってくるためには、奇跡が必要でした。そしてそういう奇跡があって、教会へ戻ってくることができた。そして今度はまじめにイエスさまの言葉を聞こうという心になっていました。ですから、結局、「聞く」というところに導かれたのです。
ですから、イエスさまの言葉を聞く、聖書の御言葉を読むようになる。これもイエスさまのわざ、働きであると言えるでしょう。
沢辺琢磨
日本には、プロテスタントは日本の開国と共に幕末に入ってきました。まだ徳川時代のキリスト教の禁教令が出ていた時代です。いっぽう、「オーソドックス・チャーチ」すなわち正教会(ハリストス教会)も少し遅れて入ってきました。その最初の日本人の信徒は、明治元年(1868年)に函館で洗礼を受けた3人です。キリスト教の禁令の高札が撤去されたのが明治5年ですから、まだ日本ではキリスト教が禁止され迫害されていた時のことです。
その3名のうちの1人は、沢辺琢磨(さわべたくま)という人でした。沢辺は、土佐藩(高知県)に武士として生まれました。坂本龍馬は従兄弟です。剣の道にすぐれ、道場の師範代を務めるまでになったそうです。ところがある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を、酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまいます。すると直ちにそれが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれます。訴追を逃れるために龍馬らの助けを得て江戸を脱出します。そして東北各地を流れ回った末、新潟にたどり着いたところで出会った前島密(前の1円切手の図柄になっている人)に箱館(現・函館市)に行くことを勧められ、函館に落ち着く。そこで持ち前の剣術の腕が功をなし、それが縁となって箱館神明宮(現・山上大神宮)の宮司・沢辺家の婿養子となり、以後、沢辺姓を名乗る。(wikipediaより)
当時、函館(当時は「箱館」)にはロシアの領事館があり、ロシア正教会のニコライ神父が領事館付属聖堂の司祭として来ていました。そして日本伝道の機会を待っていました。それを知った沢辺は、ニコライは日本侵略のためにロシアから派遣された手先ではないかという疑念を抱き、ニコライを殺すこともいとわない覚悟で、刀を持ってニコライを訪問し、来日の意図を詰問したそうです。するとニコライは、「ハリストス(キリスト)正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはなかろう」と答えたのです。沢辺は、「確かにそれも一理ある」と考え、以後、ニコライのもとに日参して教えを学んでいくうちに心服し、友人を誘い、ついに洗礼を受け、まだ禁教下の日本の最初の正教会の信徒となりました。そして、後に日本人最初の正教会の司祭となるのです。
国粋主義の固まりで、キリストの宣教師を殺そうと思って乗り込んだ人が、逆にキリストに捕らえられ、信徒となりついには伝道者となったという奇跡です。沢辺は、真剣な心で相手の話を聞いたのです。イエスさまは、種蒔きのたとえのところで、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(マタイ13:23)とおっしゃいました。みことばを聞いて受け入れるところに、豊かな実を結ぶと約束されています。
とどまる
シカルの町のサマリア人は、イエスさまに「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ」と書かれています(40節)。この「とどまる」という言葉は、ヨハネ福音書のキーワードの一つです。
たとえば、ヨハネによる福音書の15章のはじめの所では、イエスさまが「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)とおっしゃっています。ご自分をぶどうの木にたとえられている。そして私たちをぶどうの木の枝にたとえておられます。そしてこのように言われます。「わたしにつながっていなさい」(15:4)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。
じつはここで「つながる」と訳されている言葉が、「とどまる」という言葉なのです。サマリアの女の出来事において、サマリア人たちからシカルの町にとどまるように求められてとどまったイエスさま。そのイエスさまが、今度は私たちに対してイエスさまのもとにとどまるように招いておられます。
ぶどうの枝である私たち。ぶどうの枝はぶどうの木につながることによって、すなわちイエスさまのところにとどまることによって、豊かな実を結ぶと言われます。今週もイエスさまのところにとどまりつつ、歩んでまいりたいと思います。どうやってイエスさまのもとにとどまるのでしょうか?‥‥ことあるごとにイエスさまの名を呼ぶ。おりにふれて神さまに感謝の言葉、あるいは賛美の言葉を述べる。心の中でもけっこうです。困ったときは、イエスさまに助けを求める。思いわずらうことがあれば、それを正直にイエスさまに話す。‥‥そのようにして、主と共に歩んで行くことができます。そしてそれが、実を結ぶようになると主は言われます。
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