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2024年3月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 アモス書9章13
ヨハネによる福音書4章31〜38
●説教 「蒔く人、刈る人」 小宮山剛牧師
知らない食べ物
町から離れたところ、野原の真ん中にあるヤコブの井戸。そこに水を汲みに来た一人の女性とイエスさまの対話。彼女は、そのイエスという方が、待ち望んでいたキリストであるということを知って、水がめを置いたまま町の方へ戻って行きました。皆に知らせるためです。
いっぽう、町へ食料の買い出しに行っていた弟子たちが戻ってきて、「ラビ、食事をどうぞ」とイエスさまに勧めました。この「ラビ」というのは、ユダヤ人の教師のことで、日本語にすれば「先生」というような意味です。弟子たちは「先生、食事をどうぞ」と言いました。するとイエスさまは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。「あなたがたの知らない食べ物」‥‥弟子たちは、てっきり誰かがイエスさまのところに食べ物を持って来たのかな?と思いました。
するとイエスさまは言われました。(34節)「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」
何か不思議なお答えのように聞こえます。「わたしをお遣わしになった方」というのは神さまのことですから、神さまの御心を行い、それを成し遂げることだとおっしゃった。これが「食べ物」であると言われてもピンきません。なぜ父なる神さまの期待されることを行うのが。食べ物なのでしょうか?
霊的な食べ物
ここで「食べ物」ということについて考えてみたいと思います。なぜ食べ物を食べるのでしょうか?‥‥それはもちろん、生きるためには食べなくてはならないからです。食べないと死んでしまいます。だから食べる。生きるために食べるわけです。
しかし一方で考えなくてはならないことは、生きるためには食べてさえいればいいのか?ということです。私たちがこの世に生まれた。そして食べる。そして生きる。そして死ぬ。‥‥そういうことでしょうか? 聖書が言うように、神さまが私たちを造られたのだとしたら、神はそのように私たちをお造りになったのでしょうか?‥‥そういう問いが生まれます。
ここで思い出したいことは、イエスさまが世に出られる前のことです。イエスさまが神の国の福音を宣べ伝え始める前、荒れ野に行って40日間断食なさいました。そして空腹になられました。するとそこに誘惑する者、すなわちサタンがやってきてささやきました。「もしあなたが神の子ならば、ここに転がっている石がパンになるように命じたらどうですか?」と。それに対してイエスさまはこうおっしゃいました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。この言葉は、旧約聖書の申命記の中でモーセが言った言葉です。イエスさまはそれを引用されておっしゃったのです。
人は神の言葉によって生きる。私たちはそのようにして造られた。神の言葉によって生きるように造られたのです。ただ食物を食べて生きて死ぬだけではない。神の言葉によって生きる。神さまが私たちに命をお与えになった、その神の意図に従って生きることとなる。それは神さまが私たちに本当の意味で生きてほしいからだと言えます。私たちを愛してくださっているからです。
それで、私たちの肉体が生きるために食べ物が必要であるように、神の言葉を聞いてその御心を行うことが、生きるために必要なことなのだと言われています。
一人の人の救いの尊さ
それにしても、イエスさまはなぜこのようなことを話し始められたのでしょうか?
振り返ってみると、イエスさまがサマリアの女と出会い、会話なさっている時に、弟子たちは町に食料を買い求めに行っていました。そして食料を買って、ヤコブの井戸の所に戻ってくると、イエスさまが彼女と話をしているのを見て驚きました。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいませんでした。黙って見ていたんですね。驚いたというのは、前にも触れましたように、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったからです。だからイエスさまがサマリア人と話をしているのを見て驚いた。しかし、なにを話しておられたのですかと尋ねる弟子は一人もいなかったのです。つまり、関心がなかったのです。どうでもよいことだったのです。
しかしイエスさまにしてみれば、これも既に申し上げましたように、イエスさまはユダヤ地方からガリラヤ地方に行く途中にこのサマリア地方を通っている。「サマリアを通らねばならなかった」と4節に書かれていました。なぜわざわざ通らなければならなかったかというと、実はこの無名の、人々から悪口を言われている一人の女性と会うためだったのです。一見、井戸に水を汲みに来た彼女と会ったのは偶然のように見える。しかし偶然ではなかったのです。イエスさまは何もかもご存じであったのです。彼女がこの時この井戸に水を汲みに来ることも。そして彼女はイエスさまと出会って、その会話を通して、イエスさまが聖書が約束していたキリスト(メシア)であることを知るに至った。
つまりイエスさまは、彼女を救うためにここまでやってきたと言えるのです。たった一人の人が救われるために。それが神の御心であり、「あなたがたの知らない食べ物」である。それがイエスさまを生かしているということです。そのことを教えるためにイエスさまは弟子たちに語られているのです。一人の魂の救いの大きさについて教えておられるのです。
イエスさまがキリスト、メシアであることを知って、彼女は急いで町に戻りました。彼女を悪く言う人たちのいる町へ。彼女が重苦しい人生を生きなければならなかったその町へ。救い主が来られたことを伝えるために。喜びの訪れを伝えるためにです。イエスさまと出会って彼女は変えられたのです。そこに喜びがあります。
そのことが、イエスさまにとっては、食べ物を食べるのと同じように、満たされることである。そのことをイエスさまは弟子たちに教えているのです。
そしてこれは、教会に対する教えでもあります。38節でイエスさまが「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」とおっしゃっています。「あなたがたを遣わした」と。まだ遣わしていないのに、遣わしたとおっしゃる。これは教会に向けて語っておられるように思います。教会は、世の中にキリストの福音を宣べ伝えるために建てられています。イエスさまによって遣わされています。するとこれは、イエスさまが教会に向けて語っておられる言葉として聞くことができます。
魂の収穫
すなわちこれは、伝道ということについて教えておられるのです。神によってたいせつに造られた人間。その人間が、神に背いて神のもとを離れて行ってしまった。それを再び神のもとへと導くために遣わされる。すなわち、イエス・キリストを信じて救われるように働く。それが伝道です。
ここでイエスさまは、人がキリストを信じて救われることを、麦の刈り入れ、収穫にたとえて語っておられます。そしてここでイエスさまが強調しておられることは、(35節)「色づいて刈り入れを待っている」ということです。すなわち、既に人々は、イエス・キリストを信じるための準備が出来ているということです。
人間の目にはそうは見えないかもしれない。それが「あなたがたは『刈り入れまでまだ4か月もある』と言っているという言葉です。人間の目には、まだキリストを信じる段階ではないと思える。しかしイエスさまからすると、もう人々が神とキリストを信じる準備は出来ているというのです。
このサマリアの女の場合はどうだったでしょうか。彼女はメシアが来るのを待ち望んでいました。神にお目にかかりたいと思っていました。それは、彼女はサマリア人ですからユダヤ人と同じく旧約の律法の書を知っていたからです。モーセを通して予言されていることを知っていた。だからキリストを受け入れる準備が出来ていたと言うことができます。既に種が蒔かれていたのです。
では日本人はどうでしょうか? 日本では、戦国時代に初めてキリストの福音が伝えられたと言われています。それまで日本人は聖書も知らなかったし、天地創造主なる神がおられるということも知りませんでした。しかし、戦国時代にキリストの教えが伝えられると、急速にキリストを信じる人が増えていきました。今までにないほどの速さでです。これも、日本でも、真の神を求める準備、救い主イエスさまを受け入れる準備が既になされていたということができます。神さまが、だれも知らないところでそのようになさっていたのだと思います。
種を蒔く
一方で、イエスさまは、実った穂を刈り入れる人がいるだけではなく、種を蒔く人がいることにも触れておられます。そして「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」とおっしゃっています。
先日、輪島教会でわたしが牧師として着任した年度に洗礼を受けた、70代のご婦人の話をいたしました。彼女は女学校のときに友だちに誘われて初めて教会に来て、以来約60年間、途中で少し教会に来なかったこともあったけれども教会に通い続けました。そして約60年経って、ちょうどわたしが着任した年にイエスさまを信じる決心をして、洗礼を受けました。最初に彼女に種を蒔いたのは、女学校時代の友人かもしれません。そして当時の牧師はもうこの世にはいません。その後も、何人もの牧師、そして何人もの信徒の証しを聞いてきたことでしょう。祈りがあったことでしょう。しかしそれらの多くの人々は、世を去って行きました。そしてちょうど私が着任した年に、彼女はイエスさまを受け入れたのです。
それには多くの伝道者、そして信徒の祈りがあった。そして教会の変わることのない福音が語り続けられた。それがあって導かれたのです。まさに「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ということが起きている。天において大きな喜びがあったと思います。
そのように、長い時間を必要とすることもあります。しかし一方で、イエスさまが言われるとおり、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)という状態があるのです。準備がなされ、人々が神を信じ、イエスさまを受け入れる準備が出来ている。
その理由は、突き詰めて言うと、イエスさまが十字架にかかって、私たちの罪をあがなってくださったからです。イエスさまが命をかけて、私たちを神さまにとりなしてくださったからです。今日の聖書箇所で、イエスさまが「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)とおっしゃっています。「その業を成し遂げる」と。
この「成し遂げる」という言葉が使われているところが他にもあります。とくに十字架にかけられたイエスさまが、息を引き取られる場面です。このヨハネ福音書の19章30節です。十字架にかけられたイエスさまは、最後に「成し遂げられた」とおっしゃって、頭を垂れて息を引き取られました。このことから、イエスさまにとって、食べ物を食べて生きるのと同じく、十字架にかかって死なれることが生きることであったということになります。私たちに命を与えることが、イエスさまにとっては生きる目的であったということ。十字架で命を捨てられることが、イエスさまの歩みの目的であったということになります。
このイエスさまの十字架によって、すでに種が蒔かれ、収穫を待つ状態になっているということができます。そのように、イエスさまが御自分の命をすてて、種を蒔かれたのです。それゆえ教会は、そのことを信じて、時が良くても悪くても、イエスさまの福音を宣べ伝えるのです。
そして、この無名のサマリアの女に近づいてくださったイエスさまは、この私たち一人一人のところにも近づいてくださいます。わたしにも、あの人にも、この人にもです。それらの人々が、近づきたもうキリストに目が開かれるように、祈り続ける者でありたいと思います。
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