2024年3月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記18章18
      ヨハネによる福音書4章25〜30
●説教 「まさかの本人」  小宮山剛牧師
 
   求める心
 
 本日も、ヨハネによる福音書の「サマリアの女」のできごとから恵みをいただきたいと思います。サマリア地方のヤコブの井戸の傍らで休まれるイエスさま。そこに水を汲みに来た一人の女性に、イエスさまが「水を飲ませてください」と言ったことから話が始まりました。イエスさまは、彼女の重苦しい過去と現在の状況をご存じでした。それで彼女は、イエスさまは預言者であると見ました。彼女は、神さまに会いたかったようです。それで彼女は、どこで神さまを礼拝したら良いのか、言い換えれば、どこで神さまに会うことができるのかと尋ねました。それに対してイエスさまは、「どこで」ということではなく、「霊と真理をもって」父なる神さまを礼拝する時が来たとおっしゃいました。つまり、どこででも神さまとお会いできる時が来たと言われました。
 そして今日の箇所に続きます。(25節)「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 ちなみに、キリストもメシアも同じ意味で、キリストはギリシャ語、メシアはヘブライ語であるという違いだけです。日本語では「救世主」とか「救い主」と言われます。彼女がメシアを待っていたということが分かります。そして彼女の住んでいたシカルの町の人々が、このあと続々とイエスさまに会いに来たことからすると、やはり多くの人々がメシアを待ち望んでいたことが分かります。つまり救い主を待ち望んでいたのです。どうしてにメシアであるキリストを待っていたのかと言えば、それは旧約聖書に予言されていることだからです。
 現代のユダヤ人もメシアが来るのを待っています。待っていると聞いて、「キリストは既に2千年前に来たではないか?」と思うかもしれませんが、ユダヤ教徒にとってはイエスさまはメシアではありません。ですから彼らにとってはメシアはまだ来ていない。これから来るんです。
 メシアが何をしてくれるのか?メシアになにを期待していたのか?‥‥旧約聖書の預言に従って、人々はいろいろなことを期待していました。ユダヤ人は、失われた国を再び建ててくれることを期待していました。また、死んだ人がよみがえることを期待する人々もいました。ですから今でもエルサレムに行きますと、オリーブ山の斜面に墓地があるのですが、そこの石で作られた棺のようなかたちのお墓が、みなエルサレムの神殿の方を向いているんです。それは、メシアが来てエルサレムの神殿に降り立った時、よみがえるようにそちらに向けてお墓が作られているんです。
 ではこのサマリアの女は何を期待していたかというと、彼女自身が語っているわけですが「その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」ということ。そのことは、今日読んだ旧約聖書にヒントがあるんです。
 申命記18章18節。それは主なる神さまがモーセにおっしゃった言葉です。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」‥‥この言葉はメシア予言の一つであると考えられています。モーセは、神と直接語り合った人でした。律法を授かった人でした。旧約聖書最大の預言者です。神さまが約束なさった、そのモーセのような預言者というのが、メシアであると考えられていました。
 ですから、彼女は知りたかったんです。教えてもらいたかったんです。本当の神の御心を。わたしは救われるのか、わたしは神に受け入れられるのか‥‥そういうことも含めて彼女は知りたかったのです。
 
   まさかの本人
 
 それに対してイエスさまはおっしゃいました。(26節)「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 イエスさまが自ら、キリストと呼ばれるメシアであることを明らかになさいました。実を言うと、これは本当に珍しいことなのです。イエスさまが自らメシアであることを明らかにされるということは、ほとんどありません。
 たとえば、イエスさまがメシアであることを指し示したのは洗礼者ヨハネでしたが、彼はその後ヘロデ王によって逮捕され、獄に入れられました。そして獄中で、イエスさまの活動を伝え聞いて、イエスさまが本当にメシアであるかどうか疑いが生じたのです。洗礼者ヨハネといえども人の子です。自分が想像していたメシアと、実際のイエスさまがなさっていることが、違っている。イエスさまが本当にメシアかどうか分からなくなってしまった。そこでヨハネは自分の弟子を遣わして、イエスさまに尋ねました。(マタイ11:3)「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
 するとイエスさまは、このように答えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」‥‥要するに、イエスさまがなさっていることを考えて、自分で判断しなさいということです。
 そのように、イエスさまが自ら御自分がメシアであることを言われることはほとんどありません。しかし、今日の聖書から分かることは、真剣に求める者にはちゃんと答えて下さるということです。イエスさまは「山上の説教」の中でおっしゃいました。(マタイ7:7)「求めなさい。そうすれば与えられる。」その御言葉の通りです。真剣に求める者には、答えてくださるのです。
 しかし一方、興味本位で尋ねる者には答えられません。今日、インターネット上にはさまざまな情報であふれています。その中には、キリスト教について誤ったことを解説したり、揶揄(やゆ)したりするものも多くあります。しかしそういう心では、本当のキリストについてはなにも分からないでしょう。
 たとえば、やがてイエスさまが捕らえられ、ヘロデ王のもとに送られるということが起きます。ヘロデ王はイエスさまに会って喜びました。なぜなら、イエスさまが多くの奇跡を行うことを聞いていたからです。イエスさまのなさる奇跡を見たかったんですね。しかしイエスさまは何も語られずに黙っておられました。そのように、興味本位なことでは、なにも明らかにされません。
 しかしこのサマリアの女のように、真剣に求める者には答えられる。だれでもイエスさまに向かって真剣に求めるならば、答えられるのです。この女性は、どれほど真剣に救いを求めていたことか。彼女の魂は、非常に渇いていたのです。井戸の水を汲みに来たのだけれど、実は、魂の渇きを癒やす命の水がほしかった。神に会いたかった。そして尋ねたかった。それが今、イエスさまによって答えられ、満たされることになる。
 なぜイエスさまがそこに来られたのか。この出来事の最初に戻って見ると、ガリラヤに向かうイエスさまが、「サマリアを通らねばならなかった」(4節)と書かれています。そしてこれは、「サマリアを通る必要があった」という意味だとそのとき説教で申し上げました。それはまさに、この名も無きひとりの女性に会うためであったことが分かります。彼女の救いを求める魂に答えるために。イエスさまはこのヤコブの井戸の所に来られた。偶然彼女問い合わせたように見えましたが、実は偶然ではなかったのです。ひとりの人を救うために、イエスさまはこのルートを取られたのです。
 
   告げ知らせる人となった女
 
 そこに弟子たちが戻ってきました。そしてサマリアの女は、水がめをそこに置いたまま町に向かいました。おそらく走って行きました。水がめをそこに置いたまま行ったのは、本当にメシアに会ったことを早く町の皆に知らせたかったからです。そして、イエスさまに水を飲んでもらうためだったでしょう。
 彼女は町に戻って、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言いました。「わたしが行ったことすべて」というのは、イエスさまがご存じであった彼女の過去のことです。かつて彼女には五人の夫がいて、今もほかの男と同居しているが、それは夫ではないという彼女の現実。それゆえに、彼女は後ろ指を指されて生きてきた。あることないことウワサされて生きてきた。生きることが苦しく、重い日々であった。だから、人々から奇異の目で見られるのがイヤで、町の中の井戸ではなく、町から1q以上も離れたこの井戸に、しかも人通りの少ない真昼に水をくみに来た。その彼女が町に戻って、自分の過去と現在を言い当てた人がいる、メシアかもしれないと言って触れて回ったんです。
 町の人々はとても驚いたことでしょう。まず、メシアが本当に来たかもしれないことに。そして、皆から後ろ指を指されて生きてきたあの女が、喜んで、大声でこのことを言って回っているという事実。その変わりように驚いたことでしょう。これは本当にメシアが来たのかもしれないと思って、町の人々は町を出てヤコブの井戸の所にやって来たのであります。
 
   変えられた人
 
 イエスさまと出会うことによって変えられたのです。私は知らなかったけれども、私のことをご存じで、わざわざ会いに来てくださるイエスさまと出会って変えられたんです。そのとき、自分の暗い過去は、逆にイエスさまを証しするものとなったのです。
 私が、社会人になって体を壊して会社を辞めて、静岡の田舎に戻った時のことはすでにお話しいたしました。そしてふしぎな出会いがあって、ふたたび教会に通うようになりました。そうすると、青年がいなかったその教会に、ちょうど何人か青年が集まってきて青年会ができました。そして、その地域の教会の青年たちが集まって、民宿に1泊して修養会をするというので参加しました。そのとき、私はあるひとりの人に注目しました。その男の人は、物静かな人でした。そして、今まで私が誰にも見たこともないような平安な顔をしていたのです。私は、たいへん興味を持ちました。そしてその人は、その夜皆の前であかしをしました。
 彼は、自分の過去の罪について話し出しました。‥‥彼は、昔、泥棒をしていたというのです。万引きだと思いますが。その告白を聞いて、私は全く驚いてしまいました。そんな恥ずかしい自分の過去を、話す人などいるでしょうか。しかし彼は続けました。やがて自分が神に導かれて、教会に行き、洗礼を受けてクリスチャンとなった。そして、イエスさまがこの自分の罪を完全にゆるして下さったことを知った。そのとき、彼は、昔泥棒に入ったお店などにお詫びをし、盗んだものに相当するお金を返しに行きたくなったというのです。そして彼は一軒一軒、自分のしたことを告白し、お金を返しに行きました。ほとんどの人は、「それで十分です。もう昔のことだから良いですよ」と言って、お金も受け取らなかったというのです。黙っていれば分からないものを、しかも昔のことを、わざわざ「自分がやりました」と言って、謝りに来る人がいるなんて、信じられないことですから。‥‥そして彼は静かに言いました。「私は、毎日、ひとりで山に登って聖書を読んでお祈りして楽しんでいます。」と。
 彼が自分の恥ずかしい過去、過ちを皆の前で話をした。それは、そのあやまちを赦してくださったイエスさまのすばらしさを語るためであったのです。
 サマリアの女はどうだったでしょうか? 彼女は自分の過去の失敗、過ちを重荷として生きていました。しかしイエスさまと出会って、それは変わりました。こんな自分を赦し、受け入れてくださるイエスさま。そのとき、彼女の過去の失敗、暗い現実は、イエスさまの愛を証しするものへと変えられたのです。


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