2024年3月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編36:8〜10
      ヨハネによる福音書4章16〜24
●説教 「キリストのいる礼拝」  小宮山剛
 
   心の中のこと
 
 先週後半は、テレビなどではアメリカ大リーグで活躍する大谷翔平選手の結婚の話題で持ちきりでした。みんな驚きました。なぜなら、それまで大谷さんは、結婚をにおわすような兆候が全くなかったばかりか、女性と交際しているということすらだれも知らなかったからです。よくまあしつこい週刊誌の目を欺けたものだとみな感心したことでしょう。週刊誌の記者も、人間の心の中まではのぞけないわけです。大谷さんは、そのことを心の中にずっととどめてきたわけです。
 考えてみますと、人間だれでも大なり小なり、他人に分からないように心の中にしまってあることというのがあるのではないでしょうか。とくに、過ちを犯したこと、大きな失敗をしたことなどは、あまり触れてほしくないことだろうと思います。
 しかし今日の聖書箇所では、イエスさまはそのことに踏み込んでおられます。きょうも前回に引き続き「サマリアの女」との出会いと対話のできごとから、恵みをいただきたいと思います。
 
   生ける水をいただくために
 
 ガリラヤに行く途中にサマリア地方を通られたイエスさま。旅に疲れて、井戸のほとりで体を休まれました。ときは真昼。するとそこにひとりの女性が水を汲みにまいりました。そしてイエスさまが「水を飲ませてください」と頼んだことから、この女性との対話が始まりました。そしてその対話の中でイエスさまが「生きた水」ということをおっしゃいました。そしてこのようにおっしゃいました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)。
 サマリア人の女性は、イエスさまのおっしゃる「生きた水」というものが、井戸の水のことではなく、魂の飢え渇きを癒やす水であることを理解しました。そして、町の人々の視線を避けてこんなところに水を汲みに来なくてもよいように、その水を下さい!と求めました。
 今日はその続きです。彼女が「その水をください」と心から頼んだ。するとイエスさまがおっしゃったのは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」という言葉でした。なんともおかしな会話です。全くかみ合っていないように見えます。イエスさま、なに関係ないことをおっしゃってるんですか?と言いたくなるような言葉です。
 魂の飢え渇きを癒やす生きた水というものは、夫を連れてこないと与えられないようなものなのか? 実はそうではなく、イエスさまはここで、彼女の抱える最大の苦しみの問題を告白するように促しているのです。だれも解決できない問題に踏み込んで行かれるのです。
 彼女は、ふつう井戸に水を汲みに行く時間帯ではない真っ昼間に、しかも町の中の井戸ではなく町から1キロメートル以上も離れたこの井戸に水を汲みに来ている。まるで人を避けるかのようです。その理由となっている、心の重荷に触れられるイエスさまです。
 
   暗い過去
 
 「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われたイエスさまに対して、彼女は「わたしには夫はいません」と答えました。この答を聞くと、彼女は結婚していないか、あるいは夫に先立たれたか、と思うでしょう。しかしそうではなかった。そしてイエスさまはそのことをご存じでありました。
 イエスさまは、初めて会ったこの無名の人のことをご存じでした。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言った」とおっしゃいました。このことこそが、彼女のひきずっている問題であり、心の中の重荷であったのです。過去に5人の夫がいた。先立たれたのか、あるいは別れたのか、何も書いていません。
 先立たれたのだとしたら、5人も次々と夫が亡くなってしまうということは考えにくいことです。しかし5人全員が亡くなるということではなかったとしても、ありえなくはありません。しかし、この女性と結婚した男が、何人も亡くなるということになると、これもウワサの対象となるに違いありません。不吉な女であるとか、あるいは保険金殺人ではありませんが、何か疑われるとかです。
 また次々に離婚したとすれば、当時はモーセの律法を見ても、女性から離婚するということは難しいことでした。夫のほうから離縁するのが通例でした。何度も離婚を繰り返すとなると、やはりこの女性のほうに問題があるというふうに見られる。それがまたウワサを呼んだことでしょう。しかも、今同居しているのは夫ではないという。これがまた憶測に拍車がかかることになる。狭い町のことです。よからぬウワサや憶測が広がって、彼女は好奇の目と嫌悪の対象となっていたと思われます。そのような目で町の人々が彼女を見る。いたたまれなかったことでしょう。
 しかし、女性ひとりで生活の糧を得るのはむずかしい時代でした。できればこんな町を出て他の町に行きたかったけれども、それもできない。町の中の井戸に水を汲みに行けば、それまでにぎやかに井戸端会議に花を咲かせていた女性たちが、ピタッと話をやめる。そしてヒソヒソと後ろ指を指される。とても耐えられない。それで、人通りの少ない真昼に、町から遠く離れた野の中にあるこの井戸に水を汲みに来ている。
 生きていくのが重荷でしかない状況です。つらくて、苦しくてたまらない。‥‥そんな勝手な想像を私はいたします。
 できればやり直したい人生。帳消しにしたい過去。そこには失敗もあり、過ちもあったことでしょう。過去を帳消しにしたいけれども、世の中の人々は、その過去を持って評価します。そういう中で生きていかなくてはならない。まさに、よどんだ水の中にいるような状態です。しかしここに「生きた水」の話をなさるイエスさまと出会っている。
 
   受け入れるイエスさま
 
 「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われたイエスさま。ふしぎなことに、この方は、自分のすべてをご存じだった。そして、一番触れられたくないことをイエスさまは言われました。なぜその暗い過去に触れられたのでしょうか? この女性を非難し、断罪し、罰するために言われたのでしょうか?‥‥どうもそうではなさそうです。逆に癒やすために。「生きた水」を与えるために来られたのです。来てくださったのです。
 私たちはどうだったでしょうか?‥‥やり直したい過去、思い出したくもない失敗や過ち。そういうことによって、「だからお前はダメだ」とイエスさまから言われたでしょうか?‥‥いいえ、言われませんでした。そのような私たちを受け入れ、癒やし、渇きを生ける水で満たしてくださいました。前に向かって歩めるようにしてくださったではありませんか。
 
   礼拝
 
 サマリアの女は、自分の過去をご存じで言い当てたイエスさまを預言者であると見ました。預言者は、神さまに代わって語る人です。神の言葉を語る人であると見たのです。そして彼女は、直ちに「礼拝」についてイエスさまに尋ねています。これも一見、何か話がつながらないようにみえます。なんで礼拝について尋ねるのか、と思ってしまいます。
 しかしこれは、礼拝とは何であるかを考えれば、彼女の質問も理解できるでしょう。礼拝とは、神さまにお目にかかることです。神さまに会いたかったのです。神さまに尋ねたかったのです。神はわたしのようなものの祈りを聞いてくださるのか。ゆるしてくださるのか。神は私を受け入れてくださるのか‥‥。そういうことを知りたかった。神さまに助けてもらいたかった。彼女の質問は、どこで礼拝すれば、神さまにお会いできるのか、ということです。彼女は、私たちサマリア人は「この山で」礼拝したといっています。かつてその山に神殿があったのです。しかしユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝しています。
 それに対してイエスさまの答は、どこで礼拝するという場所の問題ではないということでした。「霊と真理をもって」父なる神を礼拝するということでした。「どこで」ということではなく、「霊と真理をもって礼拝する」ということです。
 神殿とは、神さまに会う場所です。神さまがそこにいらっしゃるから、礼拝となるのです。
 たとえば、私が輪島におりました時に、町内の人が亡くなると、お寺で葬儀がなされました。そして私も出席しました。お寺はほとんどが浄土真宗のお寺です。そうすると、私たち列席者は広い畳敷きの本堂に座ります。そしてお坊さんが出てきて、正面の扉をバタバタと開けるんです。するとそこに、ご本尊が表れる。ご本尊は浄土真宗では、阿弥陀如来です。そして読経が始まります。つまり礼拝(らいはい)がなされる。阿弥陀如来の像に向かって礼拝がなされるんです。もちろんそれは単なる像であって、阿弥陀如来そのものではないことはみな知っているわけですが、その阿弥陀如来の像を見ることによって、彼岸におられる阿弥陀如来を拝むんですね。
 また、神道のお葬式に出たこともあります。神式の葬儀です。そうすると、神棚を大きくしたような祭壇に向かって、神主さんが言葉を述べられるんですが、注意深く聞いていると、神さまを呼んでいるんですね。こちらも目に見えない神さまです。その神さまが、その祭壇に降臨されるように求める。こちらもその神棚に神さまが降られる。そして礼拝がなされることが分かります。
 そのようにして、神さまや仏様と直面して礼拝が成立することになります。それらはいずれも場所が大切なんですね。お寺ではなく家ならば仏壇、あるいは神棚に向かってということになります。サマリアの女が尋ねたのは、言わばそういう場所のことです。それに対してイエスさまは、そういう場所のことではなく、「霊と真理をもって」礼拝するということをおっしゃいました。
 前任地の富山二番町教会は、私が着任してすぐに再開発による移転新築の話が進んでいきました。そして新しい教会堂が新しい土地に建ちました。その新しい教会堂が、宗教法人の建物であることを県に認めてもらわないといけないのです。さまざまな書類を提出すると、県庁の職員の方が確認のために見に来るんです。そして私に言いました。「ご本尊はどちらですか?」と。私は、迷わず礼拝堂の聖壇の所に連れて行きました。そうするとそこの壁には大きな十字架がかかっています。それで現地調査は終わりでした。聖壇の雰囲気と、大きな十字架を見て、ここがご本尊の場所、つまり神さまが来られる場所だと分かったわけです。
 しかし教会によっては、十字架のない教会もあります。それどころか、聖壇も段差がなく、フラットな床面の教会もある。そうすると、そういう教会は建てた時に宗教法人の建物であることの説明をどうやってしたのかなあ?などと余分なことを思ってしまうわけですが、実は、教会の礼拝堂にはご本尊はないんですね。目に見えるご本尊や、それらしい祭壇がない。もちろん、それらしい祭壇がある教派もありますけれども。絶対に必要なものではない。
 
   キリストがおられる礼拝
 
 なぜなら、イエスさまが次のようにおっしゃっているからです。(マタイ18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 礼拝は、キリストの名によって集まっています。ですからここにイエス・キリストがおられるのです。聖霊によって、いてくださるのです。今です。もちろん、集まらなければキリストはいてくださらないのではない。しかしイエスさまはこのようにおっしゃることによって、集まって礼拝することを励まして下さっています。どこで集まってもいいのです。教会堂でなければならないのではない。震災の中で、輪島の避難所の隅で守られている二人または三人の集まりにおいても、そこにもイエスさまは霊によっていてくださる。
 そしてそのイエスさまは、私たちの良いことも悪いことも、過去の失敗もあやまちも、すべてご存じの上で、招いていてくださる。受け入れてくださる。会って下さるんです。生ける水を与えるために。そしてさらに私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るようになるために。
 「霊と真理を持って父を礼拝する」とイエスさまはおっしゃいました。「霊」は聖霊です。「真理」は結論を言えば、イエスさまのことです。イエスさまを通して、私たちは今、父なる神さまにお目にかかっている。それがこの礼拝です。これは考えてみればすごいことです。
「主を賛美するために民は創造された」と、詩編102:19に書かれています。賛美は礼拝です。私たちは神さまを礼拝するために造られたというのです。このようにして主なる神さまを礼拝している。このことを神さまが喜んでくださっているということです。私たちを喜んでくださっているんです。感謝であります。


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