2024年2月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記15章6
    ヨハネによる福音書3章31〜36
●説教 「神の印鑑」
 
  鵜
 
 2月になって、日が長くなってきて、春が近づいたことを感じます。教会の横を流れる田越川は、数年前までは冬の間たくさんのカモがいて、にぎやかだったのですが、この冬はほとんど姿を見ません。たまに鵜やサギがいる程度です。その鵜なんですが、鵜という鳥は突然川の水に中に潜ります。だから姿が見えなくなる。どこに行ったかな?と思っていると、5メートルから10メートルほど離れた場所に、しかも思わぬ場所に突然姿を現すんですね。
 私はそれを見ていて、鵜というのは神さまみたいな感じだな、と思いました。どこが神さまみたいかというと、私たちは神さまを身近に感じる時がありますね。祈りが聞かれたとか、あるいは平安に包まれたとかいうような時です。しかし逆に、神さまはどこへ行ってしまったんだろうか?と思うような時もあります。こちらが困っているのに、神さまが身近に感じられない、どこに行ってしまわれたのかというような時です。しかしそういう時も、神さまはちゃんと働いておられるんですね。私たちにそう見えないだけです。鵜が見えなくなっても、川の水の中で魚を探して捕まえているように、私たちが神さまが見えなくなったような思いでいる時でも、神さまはちゃんと私たちの分からないところで働いてくださっている。そしてまた突然身近に感じさせてくださる。そんなことを思います。
 
   天のもの、地のもの
 
 きょうのヨハネによる福音書の31節では、「上から来られる方」という言葉と「地から出る者」という言い方が出てきます。「上から来られる方」というのは「天から来られる方」ということで、イエスさまのことを言っています。また「地から出る者」とは「地に属する者」という意味で、それは私たち人間のことを言っています。同時にこれは洗礼者ヨハネが自分自身のことを言っています。
 前回の30節の言葉、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)、この言葉も黄金の言葉と呼ぶべきものです。この中の「あの方」というのはイエスさまのことでした。つまり、イエスさまが人々からほめたたえられ、賛美されなければならないのであって、自分ヨハネ自身は賞賛されてはならないということでした。だから人々が、自分のところを去っていってイエスさまのところに行くのは喜ばしいことなのだと。そのようにヨハネは言ったわけです。
 その続きの節であるきょうの31節は、さらにそのことを説明してる言葉です。そもそもイエスさまという方は、何か単に尊い教えを語る人というのではない。上から来られた、すなわち天から来られた方、神のもとから来られた方なのだと。それに対して自分は、地から出た者、この世の人間に過ぎないと言っているのです。そこが決定的にちがうのだ、と。
 私たち人間は、天のこと、つまり神さまのことを想像するしかできない。行ったことがないからです。天国には美しい花が咲いているんだろうか、きれいな小川が流れているんじゃないか‥‥などと想像いたします。しかし実際のことは分からない。見たことがないからです。それに対して、イエスさまは上から、つまり天からお出でになったわけですから、完全にご存じなわけです。だからイエスさまのなさること、イエスさまがお語りになることが本当のことであり真実なのだと。そのようにヨハネは言いたいのです。だから「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。自分はイエスさまを指し示している。イエスさまこそ天から来られた方であり、私たちを救ってくださる方なのだと。
 そのようにイエスさまが語ることこそが本当であり真実であるのに、32節では「だれもその証しを受け入れない」と言っています。だれも受け入れないけれども、続く33節では「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と述べられています。だからイエスさまを受け入れないとは、本当にもったいないことだと。
 
   真実なる神
 
 ここで「真実」(33節)という言葉が出てきます。この節の「真実である」という言葉は、原文のギリシャ語では「アレーセース」という言葉です。それは「アレーセイア」という言葉の形容詞の形です。この「アレーセース」「アレーセイア」という言葉は、日本語聖書では「真実」とか「真理」と訳されています。そしてこの「真実」あるいは「真理」という言葉が、このヨハネによる福音書ではたくさん使われているんです。
 「真理」などというと、たいへんむずかしく感じると思います。真理とは何か?などというと、とたんに話がなにか哲学的になってくるように思えて、「私はそんなむずかしいこと考えるのは苦手です」という方も多いと思います。安心してください。私もそのひとりです。
 実はそんなむずかしい、頭であれこれ考えるようなことではないんです。ヨハネによる福音書が言っているのは、真実、または真理とは、神さまとイエスさまにあると言っている。結論はそういうことです。ここでいう「真実」「真理」とはどういう意味であるかといいますと、「本当である」「信頼するに足る」「永続的な」という意味です。すなわち本物であり本当であり、信頼するに値することであり、永遠にそうであるということです。それが真実であり、神であると言っているんです。
 考えてみてください。本物であり、本当であり、信頼するに値することであり、永遠にそうであるというようなものが、この世の中に他にあるでしょうか? そういう人がいるでしょうか?
 この世の中を生きていきますと、人間につまずくというようなことはたくさんあります。あるいは信頼していた人に裏切られる、あるいはこんな人とは思わなかったということも多々あります。しかし信頼に値する人もいます。しかしその人は永遠に生きているわけではありません。そう考えると、ここでいう真実、真理とは言えないということになります。
 人間ではなく、物質に目を向けるとどうでしょうか?‥‥地球にも太陽にも終わりがあります。宇宙も永遠ではなく、遠い昔に突然誕生したと言われます。未来もどうなるか分かりません。
 そうすると、永遠に変わらない本物、本当のこと、信頼すべきものということになりますと、それはすべてをお造りになった神さまだけであるということが分かってきます。神が真実であり、真理であるという言い方になってくるでしょう。それが33節です。
 
   真理の中身はなにか
 
 それでは、神が真実であり真理であるというとき、その中身は何でしょうか? 万有引力の法則とか、光が一定の速度で進むとか、そういう不変の物理法則のような無機質なことなのでしょうか?
 実はヨハネによる福音書は、そのことを明らかにしています。それはこのずっと先の18章の中に出てきます。イエスさまが捕らえられ、ローマ帝国の総督であるポンテオ・ピラトのところに連れて行かれた場面です。ピラトはイエスさまと一対一の問答をするんですね。そしてそのやりとりの最後に、ピラトはこうイエスさまに尋ねるんです。「真理とは何か?」(18:38)
 そして興味深いことに、その問いに対するイエスさまの答が書かれていないんです。そして、イエスさまがイエスさまを訴える者たちの求めに応じて十字架につける決定を下す。そしてイエスさまが十字架にかけられる場面となります。
 そうすると、ピラトがイエスさまに対して問うた「真理とは何か?」という問いに対する答えは書かれていないけれども、イエスさまが十字架にかけられる場面が続くことによって、それが答えであるように読めるんです。つまり、「真理」とは、イエスさまが十字架にかけられることだということです。そう読めるんです。十字架とはなんでしょうか?‥‥それはもう言うまでもないことかもしれませんが、イエスさまが私たちを救うために御自分の命を投げ打ってくださった、ということです。私たちを滅びから救うために、神の御子が命を捨ててくださった。ここに愛があります。つまり、「真理」とは無機質なものなのではなく、イエス・キリストに見られる神の愛のことなんです。これが真理の中身です。
 それゆえ、愛のない真理は真理ではありません。聖書における「真理」とは、神にあるものであり、キリストの十字架によって示された愛がその実体であるのです。
 そうすると、33節の言葉が分かります。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」‥‥この「確認する」という言葉ですが、これは印鑑を押すという意味があります。近ごろは国も印鑑をなるべく廃止しようということで、はんこ屋さんもたいへんだと思いますが、印鑑というものは、それを承認するというしるしですね。キリストを受け入れることは、神が真実、真理であることを承認するのだと言っているのです。それはキリストの愛を受け入れるということです。
 
   神の怒り
 
 いっぽうで、36節には、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と言われています。神の怒りと書かれています。
 私は、これは洗礼者ヨハネ自身の経験から出ている言葉であると思います。今日のところを最後に、洗礼者ヨハネはこの福音書から退場いたします。そしてヨハネはこの言葉を、なにかどこかから聞いた教えを述べているのではなくて、ヨハネ自身が体験した証しを交えて言っているのだと思います。
 一昨年出版された、ノンフィクションライターの最相葉月さんが書かれた『証し』という本につきましては、既にご紹介したとおりですが、このいろいろなクリスチャンを取材してまとめた分厚い本は、特にクリスチャンの間で静かなブームになっているようです。その多くの人の証しの中に、今は沖縄である教会の副牧師をしている方の証しがあります。その方、K先生は、家族はだれもクリスチャンではなかったそうですが、自分が教会付属の幼稚園に通っていました。そしてお父さんに癌が見つかった時、幼稚園の先生がお父さんの病室まで来て祈ってくれたそうです。続いて牧師も祈りに来てくれた。お父さんはそのとき、自分も他人のために祈れる人になりたいと思ってイエス・キリストを信じることを決心したそうです。そして一時退院した時に、家族で初めて教会に行った。そしてご両親は洗礼を受けました。しかし闘病生活の末にお父さんは亡くなりました。K先生が小学校3年生の時だったそうです。お父さんはイエスさまを信じたから天国に行った。だから自分も同じ天国に行きたい、と強く思ったそうです。そして牧師先生に洗礼を受けさせてくださいとお願いしたそうです。そうして洗礼を受けたそうです。そのとき、すごい安心感があって、「ああ、これで天国に行ける。お父さんに会える」と思って涙が止まらなかったそうです。
 K先生自身はすごくやんちゃな子で、その後も教会には通っていたんだけれども、小学6年生の時に頭にそり込みを入れたり、中学生の時にはケンカもして警察沙汰寸前まで行ったそうです。しかし高校2年生の時に、教会の夏のキャンプで神さまに出会ったそうです。絵でいうと、イエス・キリストの十字架がどんどん自分の前に迫ってくるような感覚だったそうです。そしてこれまで自分が犯してきた罪が、走馬灯のように次から次へと迫ってくるという体験をしたそうです。それで号泣したそうです。やがてこのK先生は献身して牧師になるわけですが。
 洗礼者ヨハネという人は、生まれた時にイエスさまと接点があるんですね。ルカによる福音書の1章に書かれています。イエスさまの母マリアが、天使ガブリエルからイエスさまを身ごもったことを告げられた時、天使はマリアの親戚であるエリサベトも男の子を身ごもっていると伝えました。エリサベトから生まれるのが洗礼者ヨハネです。つまり、イエスさまとヨハネは親戚なんです。それでマリアはすぐにエリサベトの所に行くんです。そうしてマリアは聖霊に満たされて、マリアの賛歌を口ずさむ。そういうことがあったんです。
 その後、子どもの頃、イエスさまとヨハネがどういう付き合いだったかは聖書に書かれていませんから分かりません。幼い時にイエスさまとヨハネがいっしょに遊んでいる絵もあります。しかしそれは画家の想像に過ぎません。しかし少なくとも、お互いに母親から聞いて、お互いのことを知っていたでしょう。
 けれども、知っているということと、信じるということは違います。ヨハネが洗礼者ヨハネとして、らくだの毛衣を着ていなごと野蜜を食物として、つまりすべてを捨てて人々に対して神の前に悔い改めるよう、洗礼運動を始めるに至ったのは、もちろん神さまの導きであったに違いありません。そしてその人生には、さまざまなことがあったでしょう。そして人々に罪の悔い改めを説くからには、ヨハネ自身が自分の罪というものを、痛いほど神さまから示されたに違いないのです。神に背き、道を踏み外したかも知れません。しかし、そんなヨハネをあわれみ、救いに導いてくださった神さま。悔い改めのすばらしさを教えてくださった神さまを再発見したに違いないと思うんです。そして30歳になって世に出たイエスさまと再会したのだと思います。その再会というのは、救い主キリストとしてのイエスさまに会ったということです。
 ですから、きょうの最後のヨハネの言葉、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」という言葉は、ヨハネ自身の告白であると思うんです。わたしがイエスと再会し、信じることがなかったとしたら、私は以前として罪の中にあった、神の怒りの中にあった‥‥そういう告白です。ですからこの「神の怒り」というのは、神の悲しみと言ってもよいでしょう。神が怒り、悲しまれるのは、私たちを愛するからこそなのです。
 こうして洗礼者ヨハネは、御子イエスさまによって救われることへと私たちを招いています。


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