2024年2月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 歴代誌上29章13〜14
    ヨハネによる福音書3章22〜30
●説教 「前座の魂」

 
   こんな者でも
 
 能登半島地震から1か月が経ちました。奥能登、特に輪島ではほとんどなにも状況が変わっていません。本当に心を痛めます。被災者のみなさまが速やかに避難生活から解放されることを願っております。
 私が神学校を卒業して、最初の任地が輪島教会であったわけですが、私はそこで実に多くの恵みを神さまからいただきました。そして伝道者として育てていただきました。私は30歳で輪島教会の牧師として遣わされました。教会員が十数名、礼拝出席者が私たち夫婦を含めても十名という小さな群れでした。その礼拝出席者の中に、山崖さんというご婦人がいました。もう70歳を過ぎた方でしたが、まだ洗礼は受けておられませんでした。しかし山崖さんは、女学校の頃といいますから、十代半ばの時から教会に来ている方でした。最初は友だちに誘われて、初めて輪島教会に行ったそうです。その友だちはまもなく教会に行かなくなったのですが、山崖さんはそれ以降も教会を休まずというわけではありませんでしたが、途切れ途切れでもずっと通い続けたという人でした。ですから、洗礼は受けていないのに、教会のことをよく知っていました。また町のこともよく知っていました。たとえば輪島教会にはめったに新しい人は来ないのですが、たまに新しい人が来ると、新来会者カードのようなものを書いてもらう必要がないんですね。その新しく来られた人が帰ってから、山崖さんに「あの人誰?」と聞けば足りるんです。すると「ああ、あの人は何町の○○さんのおっさま(次男)や」という具合で、すぐわかるんです。
 山崖さんは、朝市通りに漆器店(輪島塗の店)を構えていました。教会のすぐ近所でした。そして、「先生、遊びに来てくだ」と、よく言われました。それで山崖さんの家に遊びに行くと、いろいろなことを教えてくれました。私にとっては、輪島弁の先生でもありました。
 さて、私が輪島教会に着任して1年目が終わろうとする頃、山崖さんは洗礼について考え始めました。教会に通い始めて約60年。私は何も言いませんでしたが、ついに洗礼を受けたいと思ったのです。そして最後に私に聞きました。「オレみたいなもんでも、ほんとにいいがかね(いいのか)?」‥‥つまり彼女は、「私のような者でも洗礼を受ける資格はあるのか?」と尋ねたのです。それは彼女の人生のさまざまな苦しみや失敗、後悔などが詰まった問いでした。70数年の人生を賭けて、私に質問したのだと言えます。
 私はこう答えました。「もちろんです。私みたいな者でも牧師をしているんですから。」
 そうすると彼女は、大きくうなずきました。この、大きくうなずいたというところが、冗談抜きでうれしいことだと思いました。私のようなつたない、失敗だらけの者でもイエスさまに受け入れられている。そのありがたい事実を語ったに過ぎません。そして彼女は、洗礼を決心しました。この出来事を思い出します。
 
   洗礼
 
 本日の聖書箇所の30節で、洗礼者ヨハネはこのように言っています。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」‥‥「あの方」というはイエスさまのことです。イエスさまは栄え、私は衰えねばならない、と。
 今日の聖書箇所では、イエスさまも洗礼を授けていたということが書かれています。洗礼というのは、悔い改めのしるしでした。洗礼は、旧約聖書の律法には書かれていません。しかし、やがて、異教徒が真の神を信じてユダヤ教に改宗する時に洗礼を授けるようになりました。もともと旧約聖書では、穢れを清める時に水を使って清めました。それは興味深いことに、ちょうど日本人が、みそぎをする、あるいは水垢離を取るといった時に水を使って身を清めるのとだいたい同じなんです。その穢れを清めるという意味で水で体を清めていたのを、異教徒・異邦人がユダヤ教に改宗する時に洗礼を授けるようになりました。
 そのように、洗礼は異教徒の改宗者に授けるものだったのですが、洗礼者ヨハネは、ユダヤ人に対しても悔い改めて洗礼を受けるように説きました。ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり神の民であるという誇りを持っていました。「自分たちは異邦人と違って、神に選ばれた民であり、既に清い民族だ」と思っていました。しかし洗礼者ヨハネは、それを打ち砕いたのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、罪人であることには変わりがない。その罪に気がついて、神に対して悔い改めよ、ということを求めたのです。そして悔い改めるしるしとして、洗礼を授けていたのです。そして多くの人々が心を動かされて、洗礼者ヨハネの所に出かけて行って洗礼を受けたのでした。
 その洗礼をイエスさまも授けていたというのです。実際には、イエスさまが直接ではなく、イエスさまの弟子たちが授けていたのですが(4:2)。他の三つの福音書を見ますと、イエスさまが人々に洗礼を授けていたということは書かれていません。そして他の三つの福音書は、イエスさまがなさった多くの奇跡、病の癒やしであるとか、歩けなかった人を歩けるようになさったとか、そちらを多く書いています。しかしヨハネによる福音書は、一番最後に書かれた福音書ですので、他の福音書が書いていることではなく、書いていないことを中心に書き記しています。それで、イエスさまが弟子たちを通して人々に洗礼を授けていたことも、他の福音書が触れていないので書いていると言えます。すなわち、イエスさまは病の癒やしなどの多くの奇跡をなさったけれども、そのこと自体が目的なのではなく、洗礼に見られるように罪の赦しをもたらすのが目的である。そのようにヨハネによる福音書は言いたいのだと思います。
 
   黄金の言葉
 
 さて、少し前に取り上げました16節の言葉、すなわち「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉は、「黄金の言葉」と呼ばれています。そして、加藤常昭先生は、きょうの30節も黄金の言葉と呼ぶべきものだと言っておられます。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
 これは洗礼者ヨハネが語った言葉です。それまで、多くの人々がヨハネのもとに来てその教えを聞き、洗礼を受けました。しかし今や、人々の多くはイエスさまのところに行っている。そのようにヨハネの弟子たちが言いました。それに対してヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言ったのです。
 その中で、花婿と介添人にたとえて語っています。介添人とは、教会の結婚式でいう仲人さんのことです。今は仲人を立てる結婚式はほとんどなくなりましたが。花嫁を迎えるのは花婿であって、仲人ではありません。仲人さんは、花婿が花嫁を迎える時に本当に喜びます。ヨハネは、そのことに自分の気持ちをたとえています。すなわち、人々が自分のところではなく、イエスさまのところに行っているのは喜ばしいことだと。そうあるべきだと。それが「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉です。
 この洗礼者ヨハネの言葉は、本当にすばらしいなあと思います。本当に預言者であり、主のしもべです。自分のすべきことをわきまえています。イエスさまが栄えれば良い。そして私は小さくなる。それがわたしの使命だと。前座として与えられた自分の役割を良く知っている。
 しかし世の中には、なんと逆のケースが多いことでしょうか。たとえば、イエスさまはやがて人々の指導者である祭司長や長老たちによって十字架につけられるわけですが、それはねたみのためでした。自分たちが先生であり、上の位に就いている。なのに民衆はイエスさまのほうについて行っている。そのことをねたましく思っていたのです。ねたみというものは人の心に深く染みこんでいる罪で、そのようについに人を殺すところまでに至る。
 カルト宗教の教祖たちもそうです。自分が神に成り代わり、自分が崇められることを願う。しかしこれはカルトの教祖だけの問題ではありません。伝道者にも誘惑があると思います。何か立派な先生だと言われたい、みんなから尊敬され、ほめたたえられたいという思いです。このような思いは誰にでもあるのではないかと思います。しかしそれが伝道者となると、問題です。神さま、イエスさまを賛美しほめたたえるように導くべきところを、自分がほめたたえられるように導こうとしてしまう。そして「聖書にはこう書いてあるけれども、これは間違っていて、本当はこうだ」というように、聖書が間違っているなどと言い出す‥‥。こうなるとカルトへの入り口です。そういう誘惑は退けられなければなりません。
 
   キリストを証しする
 
 どうすれば、そのような誘惑を退けることができるのかということですが、私が影響を受けてきた伝道者は、みな自らが罪人であることを深く自覚してきた人たちであったと思います。いや、私が影響を受けた信徒もそうであったと思います。自分は罪人である。そのことを深く知る。キリストの光に照らされて、そのことが分かっていきます。
 そうすると、このあわれな罪人である私を救うことができるのは、イエスさましかいないことが分かってまいります。こんな私を救うために十字架にかかってくださったイエスさま。こんな私のような者でも愛してくださるキリスト。こんなひどい罪人である私を受け入れてくださるイエスさま。‥‥もうありがたくて、感謝しかないんです。どう考えても、イエスさまをほめたたえるしかない。ひっくり返りようがないんです。
 ですから、洗礼者ヨハネという人は、自分が罪人であることを深く自覚していた人だと思います。また人間の命のはかなさということをよく知っていた人だと思います。私たちは、どんなに高慢になったとしても、自信満々になったとしても、この世で地位を得て、社会的に成功し、人々から賞賛を受けたとしても、1時間後には死んでいるかも知れない、はかない存在です。病気や死の前には、全く無力です。そのことをわきまえたならば、高ぶりようがないはずです。
 それに対して、イエスさまは違います。創造主なる神の独り子であり、永遠の命を与えることのできる方です。そして私たちのような者でも救ってくださる方です。どう考えてもほめたたえざるを得ません。イエスさまが栄えるのを願わざるを得ません。
 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」‥‥この「衰える」というギリシャ語は「低くなる」という意味もあります。すなわち、イエスさまが栄え、高められ、わたしは低くなる。そこにわたしの喜びがある、ということです。この私のような者を受け入れてくださる、そのイエスさまの愛の中に生きる。このはかない人生を生きる私が、低くなってキリストの中を生きるようにして下さる。ここに私たちの喜びがあり、祝福があります。
 
   主の祈りと川の流れ
 
 先週発行しました当教会報「ぶどうの木」の巻頭文にも書いたことですが、昨年11月の私の心筋梗塞による緊急入院の時に与えられた恵みの一つです。カテーテルの手術が終わり、CCUのベッドの上に寝かされ、丸一日動いてはいけない、横を向いてもいけないと言われました。アレルギー性鼻炎のある私にとっては、ちょっときついことでしたが、主はその鼻炎の症状が出ないように守ってくださいました。
 それはともかく、ヒマなんですね。ずっと上を向いているしかない。それで、心の中で神さまに祈りをささげたり、また聖書についていろいろと黙想したりしました。すると平安になるんですね。こういうことができるというのは、クリスチャンの特権だと思いました。そして示されたのが、教会法にも書きました、主の祈りと川の流れということです。くわしくはそちらを読んでいただければと思いますが、要は、なぜ「主の祈り」は、前半が神さまのための祈りになっているのか、ということです。「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と、神さまのための祈りになっています。これはもちろん、以前主の祈りの説教でもお話ししましたように、まず神さまのことから祈るのが道理だということです。
 しかし今回、新たに示されたのは、これは高い山に雨が降って、それが川となって流れていき、下流を潤すがごとくなのだということです。夏になると雨が降らず、ダムの貯水率が下がって、渇水となり、水道の取水制限となるというようなニュースが時々あります。それは、川の上流の山のほうに雨が降らないからダムに水がなくなるわけです。結果として、下流に流れる水も少なくなり、下流は多くの人が生活している場所ですから、田んぼが干あがり、水道は断水となるということになる。
 それと同じように、まず山に雨が降ること、すなわち神さまを賛美し、感謝することが必要です。そうして十分に山に雨が降り、それが下流で生活している私たちのところを潤す川となります。川の水は上流から流れてくるんです。なのに、神さまに感謝もせず、賛美もしないで、自分のことばかり祈り願っても、それは水不足で干あがっているような状態です。なぜ祈りが聞かれないのか、と言っても始まりません。まず、私たちは山に雨が降るように祈る。つまり、神さまに感謝をし、ほめたたえなくてはなりません。教会の礼拝で讃美歌を何曲も歌うのも、そういうことの表れです。
 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(低くならねばならない)。」水は低いところに流れていきます。川の水の流れがそうであるようにです。キリストがほめたたえられ、私たちはそのキリストの恵みの中を生きることができます。


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