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2024年1月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書9章1
ヨハネによる福音書3章17〜21
●説教 「闇の世界の出口」小宮山 剛牧師
滅びに向かうわたしたちを救うために御子イエスは来られた
先週は、全聖書の中でも最も有名な言葉の一つを読みました。それは同時に、聖書の内容をまとめ、聖書の目的をひと言で言い表したような言葉とも言えます。もう一度その3章16節を読んでみます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「世を愛された」というのは、この人間の罪の世の中が良いというのではないということを、先週申し上げました。神はこの世の中を良いと思ってはおられない。しかし、この罪の世から私たちを救うために、世を愛されたのです。具体的には、神の独り子であるイエスさまを信じる者を救うために、世を愛されたということです。
この、神の「独り子」というのがイエスさまのことですが、なぜ「独り子」という言い方をしているのか。それは「神さまの一人っ子」という意味なのでしょうか?
まあ、そう言えなくもないのですが、「独り子」と言われるのは、やはりイエス・キリストという方が特別な存在であることを言っているのでしょう。当時のギリシャ、ローマの世界は、多くの神々が拝まれていた世界でした。ギリシャ神話にも多くの神々が登場します。また、人間も時には神になったり、神の子と呼ばれることがありました。たとえば、ローマ帝国の皇帝が、神とか神の子と呼ばれる時代がありましたし、旧約聖書のダニエル書を見ましても、メディアの国の王が神として拝まれたりいたしました。
それはこの日本でも同じで、日本も数多くの神々がいますし、人間が神として祀られる神社も多くあります。また先の戦争中は、天皇陛下が現人神(あらひとがみ)とされ、日本国民はその赤子であると教えられ、すなわち神の子であるということになったりしました。ですから、そういう世界でイエスさまが神の子と言われても、「へえ〜、そうですか」ぐらいにしか思わない人もたくさんいたことになります。
しかし新約聖書が「神の独り子」という場合、それはそういうたくさんいる「神の子」とは全く違う、別のお方であることを強調していると思います。その他の「神の子」と呼ばれる存在は、本当は神の子ではない。このイエスさまこそ神の子である。それが「神の独り子」という言い方で現されていることの一つであると言うことができます。
その特別な存在である方が神の子であるしるしこそ、十字架なのです。十字架に表された神の愛です。神の独り子でありながら、人となられ、苦しみを受けられ、私たちを救うために十字架で命を献げてくださった。ここに神の愛の結晶した姿があり、この方こそが神の独り子であると。すなわち、十字架において神の愛を表している点で神の独り子であるということです。
また、神の独り子というのは、私たち人間の目で見ることのできない創造主なる神を、姿形をもった人の子として完全に表している点で、まちがいなく神の独り子と言っていると思います。
信じる者は救われる
その人の子となられた神の子を信じることによって救われる。そういうことを15節と16節で、イエスさまはおっしゃったわけですが、これはニコデモにとっては衝撃的なことだったでしょう。
ちなみに、先週も少し触れましたが、この新共同訳聖書では、15節と16節はつながっていて、イエスさまが語られた言葉としています。つまり21節までイエスさまがおっしゃった言葉としています。それに対して、口語訳聖書や新改訳聖書では、イエスさまの言葉は15節で終わっていて、16節からはこの福音書を書いた使徒ヨハネの解説の言葉であるというように訳しています。原文のギリシャ語では、日本語の「」(かぎ括弧)のようなものはありませんので、区切りがありません。どちらとも解釈できます。ですからどちらが正しいということではありません。
それで、この新共同訳聖書のようにイエスさまの言葉の続きであると解釈しますと、今日の聖書箇所は、引き続きニコデモに向かって語っておられる言葉ということになります。神の独り子を信じるように招いている言葉です。
神の掟を忠実に守ることによって救われると信じていたニコデモにとって、信じることによって救われる、というイエスさまのお言葉は、衝撃であったに違いありません。神の掟、律法を忠実に守ることによって罪人ではなくなる、救われるというのがニコデモたちファリサイ派の律法主義です。しかしイエスさまのおっしゃりたいことは、もはや人間の罪というものは、その行いが良いから救われるというレベルではないということです。もう罪がからみついていて、どうにもならない。
たとえて言えば、タイタニック号が沈没したように、乗っている船が沈没して、海の上に投げ出された状態です。どうすることもできない。ただ助けを待つしかありません。そのときに救命ボートが近づいて来たといたします。そしてその救命ボートに乗っている人が、こちらに手を差し伸べました。そのとき、どうすれば助かるんでしょうか?‥‥差し伸べられた手をつかめば良いのです。それが信じるということです。救命ボートの上から差し伸べられた手をつかめば、私を引き上げてくれると信じるからです。救命ボートは、誰であれ手を差し伸べてくれます。
すでに裁かれている
18節に「信じない者は既に裁かれている」と言われています。これは神によって裁かれているということですが、「既に裁かれている」とはどういうことでしょうか?
先ほどの例で言えば、船が沈没して海上に漂っている私たちのところに来た救命ボートの上から差し出された手を、つかまないということです。信じないんです。だからそのまま海上に漂うしかない。助かる見込みがなくなってしまいます。
しかし、「既に裁かれている」といっても、すでに永遠の裁きが確定してしまったということではありません。なぜなら、聖書の福音信仰では、悔い改めるならばいつでも救われるからです。いつでもイエスさまを信じて救われるチャンスはあるということです。しかし、今の状態そのものが、既に裁かれている状態であるということです。
行いが悪い
19節には「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」と書かれています。
「行いが悪い」というと、神さまから見たら、みんな行いが悪いのではないか。私たちも行いが悪かったはずです。しかしここで言っているのは、「光よりも闇の方を好んだ」というそのことが、行いが悪いということだと言っているのです。光は、神でありキリストです。それに対して、闇は罪であり悪のほうです。つまり神とは反対の方向です。
『こころの友』12月号に、バッグなどの革製品を作っている青木宗達さんという方のことが載っていました。青木さんのお父さんは牧師であり、青木さんは22歳の時に洗礼を受けたそうです。しかしまもなくして教会からも信仰からも離れたそうです。信仰をもつ者として生きることは苦しくて、もっと楽しく、経済的にも成功する道を選べるはずだと思ったそうです。そして多くのお金を手にすると、寄ってくる人がおおぜいいたそうです。ところが、お金がなくなると、多くのものを失い、親しくしていた人たちも去っていったそうです。そのような苦境に遭っても教会には足が向かずにいたそうです。しかし3年前に肺気胸を患い、キリスト者として生きる決意をしたそうです。「本当に痛くないと、悔い改めないのだが人間だと分かりました」と語っておられます。
キリストのもとを離れたほうが自由になるように思われる。神もキリストも信じない方が楽に、お金儲けもして生きることができる。そのように思われる。そういうことは私も経験したことでした。キリストの光というものが分からず、闇の方を選びたくなるのです。
神を裁いているわたしたち
本日の聖書箇所を読んでいると、裁きという言葉が何度も出てきます。それは神が私たち人間を裁くということですが、考えてみると、私たちも神さまを裁くのではないでしょうか。「神さまにお祈りしても聞いてもらえない」とか「神さまは試練ばかり与える」とか「神などいない」‥‥というようにです。光よりも闇の方を選ぶというのも、神を裁いているのだと言うことができます。
20節に「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」と書かれています。
つまり、実は自分の罪・悪が明らかにされることを恐れているというのです。だから神のほうに来ない。「さわらぬ神にたたりなし」です。すべてが明るみに出されたら、神の罰を受けるのではないかと思う。こんな自分はどうせ救われないと思う。しかし、神は私たちの罪がどんなにひどいか、どんなに悪いか、ということを問いません。イエスさまが十字架にかかってくださったからです。私たちの罪が、闇が光で照らされて、「ほら、こんなにけがれている」ということによって裁くのではありません。イエスさまが十字架にかかってくださったからです。その愛と憐れみによって、救ってくださるのです。
先ほどご紹介した方もそうでしたが、私も教会を離れ、信仰を離れました。そして「ああ、自由になった」と思いました。しかしそれは本当は自由になったのではありませんでした。自分自身の罪によってがんじがらめにしばられていったのです。不平不満や怒りが自分を支配しました。人の評価が気になりました。なにも自由になっていませんでした。そして私が病気で死にかけた時、それはまさに自業自得だったのですが、神さまは私の叫びを聞き入れてくださいました。助かったのです。溺れかけた私のところに、救命ボートをよこしてくださったのです。そしてキリストは手を差し伸べてくださいました。私の罪を問いませんでした。
真理を行う
21節に「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と書かれています。
「真理を行うものは光の方に来る」という。真理を行うというのは、どういうことでしょうか?これも先ほどと同じで、光の方に来ることが真理を行うということでしょう。そしてそれは、自分の力によって光の方に来るのではなく、神に導かれて光のほうに向かった。そのことが明らかになるために、神は私たちを光の方に、キリストの方に導かれるということです。
キリスト教放送局FEBCの『FEBC1566』1月号に、ある女性のリスナーからの手紙が載っていました。その方は夫と別れ、幼い子どもを抱えて不安だったのですが、教会学校に子どもと共に通うことが慰めの時間だったそうです。しかし、聖書も理解できない自分が、子どもたちを遊ばせるために教会に通うのはずるいのではないかと悩んでいたそうです。しかしある時気がついた。それは、自分でなんとかしようとしているこの態度こそが、神さまに失礼なのではないかと。神さまはこんな私を教会に導き、生きる意欲を与えてくださった。聖書のお話しはよく分からないけれども、聖書を読んでいるクリスチャンの生き方を見たら、この信仰がどんなにすごいかは分かるじゃないかと。聖書にあれこれ注文をつけるのをいったん脇に置いて、この方にすべてをお任せして生きてみよう。そう決心して洗礼を受けたそうです。そして、「信仰生活をあきらめそうな人に、神の恵みを祈っております。」と結んでおられました。
まさにすべては神の導きであり、神の御手のうちにあったということがよく伝わってきました。「聖書にあれこれ注文をつけるのをいったん脇に置いて、この方にすべてをお任せして生きてみよう。」
本日の聖書箇所が、この新共同訳聖書が訳しているように、ニコデモに対するイエスさまの言葉の続きであるとしたら、これはイエスさまがニコデモを招いておられる言葉ということになります。「ニコデモよ、光の方に来なさい。あなたの闇が照らされて明らかになったとしても、それを丸ごと受け入れるから。自分の力であくせくして何とかしようとするのではなく、キリストを信じれば救われるという世界に来なさい。そうすればあなたも新しく生まれることができる。」‥‥そのようにイエスさまはニコデモを招いておられると言えましょう。そしてそれは同時に、私たちをキリストのもとに招く言葉でもあるのです。
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