2024年1月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章11〜12
    ヨハネによる福音書3章16
●説教 「珠玉の愛」

 
   聖書の凝縮
 
 本日のヨハネによる福音書は、3章16節だけを読んでいただきました。しかしこの1節は、珠玉の1節ともいうべき言葉です。宗教改革者のマルチン・ルターは、この言葉を「福音のミニアチュア」と呼んだそうです。新約聖書の福音を凝縮したような言葉であるということです。しかしそれは新約聖書だけではなくて、聖書全体をまとめたような言葉だと思います。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ここに聖書の要点が凝縮されていと言えるのです。
 
   神のご計画
 
 それはまた同時に、聖書の大きな謎に対する答えにもなっています。例えば、「罪を犯した人間を滅ぼさなかったのはなぜか?」という大きな謎です。神さまが人間をお造りになったと聖書の創世記には書かれています。しかしその人間が、神さまが食べてはいけないと言われた禁断の木の実を食べてしまった。そのとき、神さまにそむいたアダムとエバを滅ぼしても良かったわけです。しかしそうなさらなかった。そして長い人類の歴史が始まります。それはなぜか?
 その答えがここにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 滅ぼすことは簡単なことだったでしょう。しかし罪人となってしまった人間を救うというのは難しいことに違いありません。たとえば、一人の悪人を死刑にするのは簡単です。しかしその悪人を、ちゃんとした人へと更生させるのは簡単なことではありません。そのように、罪人となってしまった私たち人間を滅ぼすのは簡単ですが、救うというのは簡単なことではありません。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」‥‥ここで「世」という言葉が使われています。この「世」という言葉はギリシャ語で「コスモス」という言葉です。これは世界を指す言葉でもありますが、ここではこの世の人間のことを指しています。すなわち、神は、その独り子であるイエスさまをお与えになたほどに、この世の人々を愛された。そういう意味になります。
 ここにふしぎがあります。神にそむき、神を信じなくなり、神の御心に反することばかりするようになった人間。その人間を愛されたということになるからです。神はなぜそのような罪人である人間を愛されるのか?
 その理由が、16節の後半の言葉です。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 「独り子」とは、イエス・キリストのことです。すなわち、イエス・キリストによって救うためであったというのです。そのために、この罪人の世を愛された。それは罪人のままではない。イエス・キリストを信じて救われる。そのために愛されたということです。すなわち、神さまは、罪人のままの人間を見ておられるのではない。イエスさまによって救われる人間を見ておられる。未来を見ておられるのです。そして、そのひとり子イエスさまをお与えになった。我が子を与えるというのは、これ以上の愛はありません。そこに神の愛の極みがあります。
 
   神の愛
 
 しかし、そのように神が愛しておられるのであれば、どうして苦しみがあるのか?‥‥そのような疑問が浮かんでくることでしょう。神がその独り子を下さるほどにこの世の人々を愛しておられるというのなら、その中には私という個人も含まれているわけです。ならば、なぜ私たちには試練や苦しみが臨むのでしょうか?
 この問いへの答えは簡単ではありません。しかし一つ考えられることがあります。それは、皆さんは次のどちらに神の愛を感じられるだろうか?ということです。たとえば、すべて必要なものが与えられ、何一つ不自由なくぜいたくに暮らしているのと、たいへんな危機に遭遇したけれども、そこから奇跡的に助けられたのと、です。どちらの場合のほうが、神さまの愛を実感できるだろうか、ということです。
 今、水曜日の聖書を学び祈る会では、旧約聖書のダニエル書を学んでいます。その第3章のできごとです。バビロンの王ネブカドネザルは、巨大な金の偶像を造りました。そしてそれを拝むように国民に命じました。しかし3人のユダヤ人の若者は、それを拝みませんでした。王は怒って、3人を燃え盛る炉の中にほうり込むように命じました。ところがその3人の所に、神の御使いが遣わされて、炎から守ってくださいました。驚いた王は、3人の神である真の神の名を賛美するに至りました。
 だれも燃えさかる火の中に投げ込まれたくありません。しかし彼らは、そこから神さまが守ってくださるという奇跡を体験したのです。彼らはたしかに神の愛を体験したに違いありません。
 しかし、そのようなケースばかりではありません。新約聖書の使徒言行録7章では、伝道者であったステファノが、怒り狂ったユダヤ人議会の人々から石を投げつけられて死んでしまいました。イエスさまを宣べ伝えたために殉教したのです。ステファノは神さまに見捨てられたのでしょうか?‥‥そうではありませんでした。彼は人々から石を投げつけられているとき、天が開けて、イエスさまが神の右で立っておられる姿を見たのです。つまり、イエスさまが、ステファノの霊を天に迎え入れるために立ち上がられた姿を見たのです。そしてステファノは最後に言いました。「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。自分に向かって石を投げつけている人々の罪の赦しを願って息を引き取ったのです。そして石を投げつけている人々の着物の番をしていたのが、後のパウロとなるサウルだったのです。この出来事は、奇跡ではありませんか。イエスさまがステファノを愛してくださっていることを証明しています。
 そのように、たしかに私たちは試練や苦しい目にあいます。しかし、それは神が私たちを愛しておられないという証拠にはなりません。その苦難の中に神の働きは現れるのです。
 
   ニコデモ氏
 
 きょうのみことばは、道を求めてイエスさまの所を訪ねてきたニコデモ氏との対話に続いて書かれている御言葉です。ニコデモは、ヨハネによる福音書では、このあと2回登場いたします。一つは7章50節です。それは、祭司長たちとファリサイ派の人たちが、イエスさまを捕らえる相談をしていたときです。そこでニコデモは仲間である彼らに反対して、イエスさまを律法に基づいて公平に扱うよう求めました。もう一つは、19章です。十字架で死んだイエスさまを、やはり議員であるアリマタヤのヨセフと共に墓に丁重に葬りました。
 ニコデモのこれらの行動を見ますに、このイエスさまとの最初の対話で、ニコデモは深く心に思うところがあったのだということが推測されます。すなわち、ニコデモは、偏見のない、誠実な人であったことが分かります。それで神に近づこうと、いっしょうけんめい律法と戒律を守ってきた。しかし、イエスさまから「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と言われました。努力して、戒律を守って、それで神の国に入ることができるのでは亡い。聖霊によって新たに生まれなければならないと言われました。
 そうすると、それまでのニコデモの、まじめに、そして誠実に律法を守ってきたことはムダだったのでしょうか?‥‥いえ、私は、決してムダだったとは思いません。なぜなら、結果的にイエスさまの所に導かれたからです。それは、彼は道を求め続けたからです。「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7:7)のみことばのとおりです。
 私が思いますには、やがてニコデモはイエスさまの弟子、つまりキリスト信徒になったのだろうと思います。そしてこの時のイエスさまとの出会いを述べた。そのことがこの福音書に書かれたのだろうと思います。やがてイエスさまを信じるに至ったとき、きょうの16節の前の14〜15節のイエスさまの言葉の意味が分かっただろうと思います。
 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
 このイエスさまの言葉が、イエスさまの十字架のことを指していたのであることを悟ったと思います。
 ところで、きょうの16節の言葉は、この新共同訳聖書では、イエスさまが語った言葉となっています。しかし口語訳聖書や新改訳聖書では、カギ括弧は15節で終わっていて、この16節からは、ヨハネによる福音書を書いた使徒ヨハネの言葉となっています。原文のギリシャ語には、カギ括弧というようなものはありませんから、どちらともとれます。どちらにしても、聖書の真理であるということには変わりありません。
 
   十字架の愛
 
 そしてもう一度16節を見てみますと、「神は、その独り子をお与えになったほどに」と書かれています。神が「その独り子をお与えになった」と。この「お与えになった」というのは、神が私たちにイエスさまをお与えになったということですが、もっと突き詰めて言うと、それはイエスさまが十字架にかかられたことを指しています。そして、そこに神の愛が現れているといいます。
 今週は、日本海側で大雪の予報が出ています。地震の被災地である能登のことが心配されますが、この季節になると、私は思い出す出来事があります。
 それは今から11年前の3月に、北海道のオホーツク海に面する湧別町で起こった事故のことです。それは、たった一人の小学生の娘さんを持つ漁師の父親が、暴風雪の中、亡くなったというニュースでした。父親は、午後3時過ぎに大雪の降る中、学童保育に通う娘を車で迎えに行きました。しかし家に帰る途中、風雪が強まり、車は雪の吹きだまりにはまってしまって動けなくなりました。しかも車にはガソリンが残り少なくなっていました。このままガソリンが切れれば、エンジンが止まってしまい、暖房もできなくなる。それは死を意味します。
 それでお父さんは、小学生の娘さんを連れて車の外に出て、近くの知人の家に歩いて向かいました。しかし時は夜、氷点下の暗闇の中、しかも暴風雪で、もう歩けないという状況だったようです。ようやく倉庫を見つけましたが、入口に鍵がかかっていては入れない。それでお父さんは、自分の着ていた薄手のジャンパーを脱ぎ、娘さんに着せました。さらに娘さんを吹雪から守るように抱きしめて自分の体温で暖め続けたようです。朝になって警察官が二人を発見した時、既にお父さんは亡くなっていました。娘さんを抱きかかえて亡くなっていたそうです。そして娘さんは、助かったのでした。
 この出来事は、イエスさまの十字架を連想させないでしょうか。お父さんは自らの命と引き換えにして、娘さんの命を守ったんです。イエスさまは、十字架で、ご自分の命と引き換えに私たちを救ってくださったんです。
 それできょうの旧約聖書は、イザヤ書53章の中から読んでいただきました。「わたしの僕」と神さまがおっしゃる方が、イエスさまです。イエスさまは十字架で、私たちの罪を負って下さったのです。それを信じることによって救われるのです。
 
   永遠の命
 
 きょうの16節をもう一度見ますと、「永遠の命を得るためである」と言われています。
 「永遠の命」をテーマにした漫画がありました。もう亡くなりました、昭和の漫画の第一人者とも言える手塚治虫さんの書いた「火の鳥」という漫画です。手塚治虫さんは、「鉄腕アトム」とか「ジャングル大帝」などで有名ですが、晩年は「ブッダ」を描くなど、宗教に接近されました。また、最後はバチカンの依頼を受けて「聖書物語」のアニメを作り始めました。残念ながら、完成を見ずして亡くなってしまわれましたが。他の人の手によって、それは完成されます。
 その手塚さんのライフワークと言える漫画が「火の鳥」です。火の鳥は、不死鳥とも鳳凰とも呼ばれる鳥で、永遠の命を象徴しています。そして火の鳥の血を飲んだ者は永遠の命を受けるという伝説に基づいて、いろいろな時代の人々が、火の鳥を捕らえに行きます。そして、生きるとは何か、永遠の命とは何か、というようなことがテーマになっています。
 だいたいの人が失敗するんですが、中に火の鳥の血を飲んで、永遠の命を手に入れた人がいるんですね。その人は人類の中で一人生き残って、体が朽ちても霊だけが生きている。そして最後はどうなるかというと、火の鳥の中に入れられるんですね。一体となるんです。
 私は最後の晩餐、すなわち聖餐式を思い出すんです。あす十字架にかかられるというイエスさまが、ぶどう酒の入った杯を手に取って、弟子たちにおっしゃいました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流すわたしの血、契約の血である」(マタイ26:27〜28)。
 聖書では、血は命のことです。私たちの罪を担って十字架に向かわれるイエスさまが、わたしの命を受け取れとおっしゃった。
 もう一度16節を読みます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 
 主は、私たちをイエスさまを信じることへと招いておられます。


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