2024年1月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書7章13〜14
    ヨハネによる福音書3章9〜15
●説教 「天と地の間」

 
能登半島地震と輪島教会
 
 元日に発生しました能登半島地震。報道されています通り、とくに輪島市や珠洲市といった奥能登地域で大きな被害となっています。そして教会も大きな被害を受けています。とくに輪島教会は全壊、牧師館も隣家が寄りかかってしまっていることから「危険」の判定を受け、使用不能となっています。教会員のほとんどの家が被害を受け、牧師をはじめとして避難所に避難しています。
 輪島教会は私が東神大を出て最初に遣わされた教会でした。つまり私の伝道者としての原点の教会です。東神大を卒業前に、輪島教会の前任牧師の楠本先生から招かれて、輪島教会に伺いました。雪の積もる中に静かに建つ教会が印象的でした。そして日曜日の礼拝のときに、私は「主はこの地を愛しておられる」という言葉をいただきました。私はすばらしい平安で覆われました。そのときのことを思い出しています。
 その輪島教会は、短い間に2度の大きな地震に見舞われました。1度目は2007年の能登半島地震です。そのときは、牧師館を建て替えることになりました。教会員が十数名の小さな教会ですから自力で建て替えることはできませんので、全国の支援を得て建て替えられました。それからわずか17年で、前回を上回る規模の大地震に見舞われたわけです。
 主はこの地を愛しておられるのではなかったのか? 神は何をしておられるのか? 神がおられるとしたら、どうしてこんなことが起きるのか?‥‥さまざまな疑問が浮かんでくるだろうと思います。この大きな問いに対して答えることは、とても難しいと思います。
 しかし、そのような問いに答えることは難しいけれども、私たちの主は、いつも絶望を希望へと変えてくださる方であることはたしかです。イエスさまは、病んでいる者を癒やし、目の見えない人の目を開け、重い皮膚病におかされて町の外に住まなければならなかった人を癒やし、ベトザタの池のほとりで38年間も病気で苦しんでいる人を癒やされました。私たちの主は、苦しみの中にある人を、立ち上がらせる方であることも、まちがいのないことです。
 引き続き、能登の地に、震災の地に、主のみわざが現れるように祈ってまいりたいと思います。
 
ニコデモ氏の「?」
 
 さて、ユダヤ人議会の議員であり、ファリサイ派に属する宗教家でもあったニコデモ。この人が、ある夜、身を低くしてイエスさまに教えを乞いに来ました。ファリサイ派というと、イエスさまと対立し、イエスさまを十字架に追いやっていく側の人たちです。そんなファリサイ派の一員であり、人々の尊敬を受けていた議員であるニコデモが、自分よりも年下のイエスさまのところに、身を低くして教えを乞いに行きました。ニコデモが真剣に道を求める人であることがわかります。
 そのニコデモに対して、イエスさまは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、3節の所でおっしゃいました。「神の国を見る」というのは、他の言葉で言い換えれば「救われる」ということであり、また「この世にいながらにして神の国の中を生きる」ということでもあります。イエスさまはそのように、「新たに生まれなければ」、とおっしゃった。それに対してニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか?」と答えました。たしかに物理的にもう一度母親の胎内からやり直すことなどできるはずもありません。たとえできたとしても、人間が罪人である限り、似たような人生の繰り返しになるでしょう。
 それに対してイエスさまは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。‥‥」とおっしゃいました。そうしてきょうの聖書箇所に移ります。イエスさまの言葉に対してニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか?」(9節)と返しました。
 ニコデモは、イエスさまがおっしゃっていることが、さっぱり理解できなかったようすです。するとイエスさまは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」とおっしゃいました。きびしい叱責の言葉です。しかしそれは愛のある叱責の言葉に違いありません。このイエスさまの叱責の言葉は「いったい、これまであなたは聖書から何を学んできたのか?」という問いです。
 聖書を教える教師であるニコデモ、ご自分よりも年輩のニコデモ、律法と呼ばれる神の掟を忠実に守ってきたであろうニコデモに対して、「あなたは聖書がまったく分かっていない」とイエスさまはおっしゃったのであります。きびしいといえば、これ以上きびしい言葉はないでしょう。しかしニコデモには、イエスさまの言われる言葉が身に染みたに違いないと思うのです。心当たりがあったと思うのです。だからこそ、ファリサイ派でありながらイエスさまの所に身を低くして教えを乞いに来たのです。
 
律法主義者ニコデモ
 
 ニコデモはファリサイ派でした。それは旧約聖書のモーセの律法を、よりいっそう厳格に守ろうという人たちでした。そのように神のおきてを守ることによって、神さまから祝福をいただこうという人たちでした。
 イスラエルには、今日でもそういう人たちがいます。例えば、ユダヤ教には安息日の掟があります。モーセの十戒の安息日の規定を厳格にしたものです。十戒では、安息日にはいかなる仕事もしてはならない、ということが書いてあります。そしてこれはイスラエルに行った人の有名な話ですが、安息日になった時のことだそうです。ホテルのエレベーターに乗った。すると、そのエレベーターは、乗る人も降りる人もいないのに、1階昇るごとに扉が開いて、また閉まる、ということを繰り返したそうです。そしてあとから、それが安息日だったからということを知ったそうです。つまり、エレベーターの目的の階のボタンを押すという行為が、仕事をすることに当たるから、安息日には自動的に各階に止まるようになっているとのことだったそうです。
 これは笑い話のように聞こえますが、彼らにとっては大まじめな話です。もちろん、現代のユダヤ人が皆そうであるということではありません。ユダヤ教の中にも世俗主義者がいます。しかしエレベーターのボタンを押すことまで仕事と見なして、それを避けるようにするのが、神のおきてを守ることなのだと信じている人もいるのです。
 ニコデモたちファリサイ派もそうでした。モーセの律法には書かれていないことまで、たとえば週に二度の断食をするというようなことまでして、神に忠実に従おうとしていました。つまり、きびしい戒律や苦行を自らに課すことによって、神さまに受け入れてもらおう、祝福していただこうとしたのです。
 それに対してイエスさまは、3節に書かれているように「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。つまり、人間は、そういうことによって救われるレベルではないほど落ちぶれている、罪人であるということです。人間の努力によって救いに与ろうというレベルではないことに気がつけ、というわけです。これは、努力を重ねて戒律を守ることによって救われることしか考えてこなかったニコデモにとって、何がなんだか分からないというのも、無理もないことです。じゃあ、いったいどうやって救われるというのか?
 
モーセが荒れ野で上げた蛇
 
 そしてイエスさまが語られたのが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というできごとでした。このエピソードは、旧約聖書の民数記という書物の21章に書かれています。
 昔モーセに率いられて荒れ野の中を旅していたイスラエルの民は、文句を言いました。荒れ野の中で、食べ物といったら、神さまが毎朝地面に置いていて下さっているマナという食べ物だけでした。それに飽きたんですね。そしてつらい旅。エジプトを出て来るんじゃなかったと、文句を言ったんです。あろうことか、自分たちをエジプトの過酷な環境から助け出してくださった神さまに文句を言ったんです。そうすると神さまが、炎の蛇という名の毒蛇を民の中に送られた。それで多くの死者が出た。それで人々は、自分たちが間違っていたといって悔い改めました。モーセも、蛇に噛まれた人々を癒やしてくださるように祈りました。
 すると神さまは、青銅で蛇を造って旗ざおの先に掲げなさい、それを見上げた者は助かるとおっしゃいました。それでモーセは神さまのおっしゃったとおり、青銅で蛇を作り、旗ざおの先に掲げると、蛇にかまれた人がそれを仰いだところ、命を得たと書かれています。
 私はこの話を読むたびに、イタリアの自動車のアルファロメオのエンブレムを思い出すんです。あのエンブレムは旗ざおの代わりに十字架になっていますね。そして隣の蛇が人をかんでいる。この民数記の話とアルファロメオが関係あるかどうか知りませんが。
 これは旧約聖書の中では、非常に珍しい、特殊なできごとです。なぜなら、モーセの律法・十戒では、偶像を造って拝んではならないと書かれているからです。偶像礼拝は絶対禁止なんですね。ところがその民数記の話では、神さまがモーセに青銅の蛇という像を造らせて、それを掲げさせ、人々がそれを見上げたところ、病がいやされたというのですから。ちょっとありえないような話なんです。ですから、これが何を意味するのか、ユダヤ教の学者も非常に説明に苦労しているようです。
 しかしここでイエスさまは、その秘密を明らかになさっているんです。それは、この出来事は、イエスさまの十字架を予告していたのだということです。14節の「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」ということばです。イエスさまはご自分のことを「人の子」と言われます。「人の子も上げられねばならない」というのは、イエスさまが十字架の上に上げられることを指しています。もちろん、この時ニコデモには、何も分からなかったでしょう。
 しかし、蛇にかまれた人々が、何か神のおきてを守ったことによって治ったのではなく、何か良い行いをたくさんしたから治ったというのでもなく、ただモーセの造った青銅の蛇を仰いだことによって生きた。同じように、私たち人間が、十字架にかかられたイエスさまを見上げることによって、そのイエスさまにすがることによって、救われる。
 あまりにも簡単で拍子抜けするようなお話しです。しかしそれは、もはや私たちの罪は、私たちではつぐなうことができないほどである。しか上から来られた人の子、つまりイエスさまが、私たちの代わりにつぐなってくださった。それが十字架です。イエスさまがつぐなってくださったので、それを信じるだけです。そうして救われる。聖霊を受けて、全く新しく生まれるということです。
 ただ、自らの命を十字架で捨てて、私たちを救ってくださったイエスさまにおすがりして歩むのです。この私たちのような者も救ってくださるイエスさまに感謝です。
 
【祈り】
 父なる神さま、青銅の蛇を仰いだ人々が救われたように、私たちも十字架のイエスさまを見上げ、おすがりいたします。どうぞこの一週間も、兄弟姉妹たちが祈る言葉をお聞きになり、あなた共に歩む一週間でありますように、お守りください。今、困難な中にある兄弟姉妹たちに、あなたの救いをあらわしてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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