2023年12月31日(日)逗子教会 主日礼拝説教・歳晩礼拝
●聖書 エゼキエル書11章19
    ヨハネによる福音書3章1〜8
●説教 「生まれ変わる時」

 
 先週の24日のクリスマスイブが日曜日。そしてきょう大晦日も日曜日ということで、礼拝を持って一年を終える年となりました。テレビやマスコミでは、この一年を振り返る特集などがなされていますが、新聞に「今年の言葉」として、プロテニス選手の錦織圭さんの言葉が載っていました。錦織選手は、ケガをしてしばらく治療に専念されていましたが、今年の6月のカリビアン・オープンで復帰しました。そのとき語った次の言葉が載っていました。「ここに立てる幸せを感じながらやろうと思った。」
 私の心筋梗塞からの復帰の恵みについて、復帰後最初の礼拝でお証しをし、その後も少しずつ恵みを分かち合いたいと申し上げましたが、病院を退院して思ったことは、錦織選手が言われたのと同じようなことでした。命を落としていたかも知れないことから助かって、退院した時に、世界が違って見えました。生きているということが当たり前のことではないことを強く思わされました。神さまによって生かされている。それ以外の何ものでもないことを感じました。そして退院後最初の礼拝では、礼拝の恵みというものをそのときほど強く感じたことはありませんでした。私たちが帰るべき所はここだ、私たちは神さまによってここに招かれている。教会でよく聞くその言葉が、本当にそうだと身に染みて感じ、感謝でいっぱいでした。
 
   出会いの夜
 
 さて、本日の聖書箇所は、ニコデモという人がイエスさまの所を訪れた時の会話が記されています。
 2節に「ある夜」と書かれています。ニコデモは、夜、イエスさまの所を訪ねました。「ある夜」とわざわざ聖書が書いています。ニコデモは、なぜ夜にイエスさまの所を訪ねたのでしょうか?‥‥ふつうに考えると、昼間は仕事をしているからということになります。イエスさまも、昼間は人々を教えたり、病をいやしたりと、忙しくしておられる。そうすると、イエスさまとゆっくり話をしたいと思うと、やはり夜ということになる。
 もう一つ考えられるのは、ニコデモがファリサイ派に属しており、さらにユダヤ人議会の議員であったと書かれていることです。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の厳格派でして、イエスさまと対立していく人々です。また議員は、ユダヤ人の指導的立場の人です。そうすると、昼間イエスさまに教えを乞いに行くには、目立ってしまう。同僚のファリサイ派から批判されることになるかも知れない。そういう世間体を気にして、夜に出かけたという説もあります。
 
   真剣に求める人
 
 いずれにしても、ニコデモという人は、道を求める人であったことはまちがいありません。それでイエスさまの所を訪れた。ファリサイ派という宗教家であり、人々の指導的立場にいるニコデモ。一方のイエスさまはといえば、なにか宗教家としての教育を受けたわけでもない、まったく庶民の出である人。またニコデモはすでに年寄りであったと思われます。一方のイエスさまは、およそ30歳ほど。その年下のイエスさまに教えを乞いに行くというのは、見栄やプライドが高い人であるならば、できないことでしょう。しかしニコデモは、そのイエスさまに教えを乞いに行った。やはり真剣に道を求めている人であったと言うことができます。
 レッテルを貼るというのはよくないことです。ファリサイ派というと、厳格な形式主義者であり、やたらと他人を裁く高慢な宗教家というイメージがあります。しかし、そういう人ばかりではないということは、例えばニコデモを見ても分かります。ニコデモのように、謙遜になって、真剣に道を求める人もいるのです。
 
   イエスとの対話
 
 イエスさまの所を訪れたニコデモは言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
 イエスさまが、神さまから遣わされた教師であると告白しています。また神が共におられると言っています。つまりイエスさまが預言者であると見ています。
 この、ニコデモがイエスさまを神の人であると思う理由ですが、「神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」ということを言っています。つまり、イエスさまのなさる「しるし」、すなわち病気を癒やしたり悪霊を追い出したりといった奇跡を見てと。
 このことは、この前の聖書箇所、すなわち2章33〜35節で、人々がイエスさまのなさる「しるし」を見てイエスさまを信じたと書かれていることとつながっています。イエスさまは、イエスさまのなさる奇跡を見て信じた人々について、それで良しとはされなかった。それは、それがいわゆるご利益信仰であるからだと、先週申し上げました。ご利益信仰というのは、その人が自分にとってこの世の利益がある限りにおいて信じる、というものです。しかし、自分にとって利益がないと思えば信じるのをやめる。それがご利益信仰です。自分の願いをかなえてくれるのが神さまだ。しかし、自分の願いをかなえてくれないのであれば、信じるのをやめる。‥‥しかしそれが神さまを信じるということなのか。自分中心です。自分の願いを神さまにかなえてもらいたいけれども、神さまの願いを自分が聞こうとはしない。それではよろしくないとイエスさまは思われている。
 きょうのニコデモは、まさに、イエスさまのなさるしるし、奇跡を見てイエスさまを信じ、教えを乞いに来た。ですから、前回の、しるしを見てイエスさまを信じる人の代表のようにして、今日登場しています。
 もちろん、「しるし」を見てイエスさまを信じることが悪いというのでは絶対にありません。人々も、ニコデモも、そういう信仰の世界しか知らなかったからです。しかしイエスさまは、そういう世界から、新しい世界に変わるように導いておられるのです。
 
   ニコデモの問い
 
 さて、ニコデモの言葉に対して、イエスさまの言葉はかみ合っていないように見えます。ニコデモが、イエスさまが神から来られた方であると言ったのに対して、イエスさまは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と応えている。ニコデモはあいさつを述べただけであって、神の国のことなんか言っていません。しかしイエスさまは、いきなり答えのようなことをおっしゃっています。
 これは前の章の最後の35節に書かれていることがヒントとなります。つまり「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」ということです。ですからイエスさまは、ニコデモの考えていること、求めていることを知っておられたのです。それでいきなり確信の答えを述べられた。
 すなわち、ニコデモは神の国を求めていたのです。ここで「神の国」ということについて少し解説が必要でしょう。「神の国」というと、多くの人は天国のこと、つまりあの世の世界のことであると思っていますが、そうではありません。もちろん、死んでから行く世界も神の国ですが、「神の国」というギリシャ語は「神の支配」という意味ですので、この世において神の支配の中に生きるということでもあります。すなわち、この世において、神と共に生き、平安や喜び、感謝のうちに生きるということです。ニコデモはそのようなものを求めていたのです。
 ここでニコデモの求道の歩みが見えてきます。彼はファリサイ派として、その教えに従って、旧約聖書に書かれている神の掟、そして律法をきちんと守ってきたことでしょう。それらの戒律を守れば、祝福と平安と神を身近に感じることができると信じてきたことでしょう。そして謙遜に、いっしょうけんめい戒律を守ってきたでしょう。もっとがんばれば、平安になれるのだ、もっといっしょうけんめいになれば信仰の喜びや感謝が満ちあふれるようになるのだと。そう思ってきた。ところが、いくら熱心になって厳しい戒律を守っても、がんばっても、平安はなかったでしょう。神さまを身近に感じることができなかったに違いありません。それどころか、他人を裁きたくなる。それが律法主義というものです。
 
   新しく生まれる
 
 それに対してイエスさまはおっしゃいました。(3節)「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 新しく生まれる必要があるのだと。なおこの3節の「新たに生まれなければ」という日本語の訳は、直訳すると「上から生まれなければ」となります。「上から」というのは神さまによってということです。
 それを聞いてニコデモは言いました。(4節)「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」これは当然の問いでしょう。母親のお腹の中に戻ってもう一度生まれるということなどできるはずがありません。
 なおここで、ニコデモが「年を取った者が」と言っていますが、これは自分のことでしょう。年を取れば、体も何もかも衰えるばかりです。若い頃は、それでもいろいろなことにチャレンジすることができた。しかし年を取れば、今さら何ができると思うばかりです。体もだんだん動かなくなります。新しいことを覚えるのは、とても難しくなります。そして先が見えてきます。なのに、どうして新しく生まれることなんかできるでしょうか。あるいは、やり直すことなどできるでしょうか。
 たしかに、人生やり直したい、生まれ変わりたいと思う人もいるでしょう。そう思わないでも、大失敗をしたあの時よりも前に戻ってやり直したい、と思うこともあるでしょう。しかしたとえ生まれ変わることができたとしても、人間が罪人である以上、形は違っても、同じような人生の繰り返しとなることはまちがいありません。
 では、イエスさまのおっしゃる、新しく生まれるというのはどういうことなのか?
 
   水と霊によって
 
 イエスさまは答えられました。(5節)「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」
 あなたは新しく生まれることができる。それは「水と霊とによって生まれる」ということだ。そのことによって、この世においては神のもとで神と共に平安に生きることができ、そして来たるべき世においては神の国において生きることができる。そういうことをイエスさまはおっしゃったのです。
 「水と霊」とは何を指すのでしょう。きょうは結論だけ言いますが、「水」とは洗礼の水を指していて、「霊」とは聖霊を指しています。イエスさまを信じることによって洗礼を受ける。そして聖霊をいただく。その聖霊が私たちを満たしていって下さるということです。イエスさまを信じて、イエスさまにすべてゆだねる。それが新たに生まれるということです。そして聖霊が私たちを助け、導いていって下さる。
 このようなことはニコデモには、にわかには信じられないことだったでしょう。なぜなら、彼はファリサイ派として、神の戒律を守り努力しがんばることによって救われると教えられてここまで歩んできたからです。これは言ってみれば、高い山まで、自分でいっしょうけんめい努力をして登って行くというイメージです。それに対してイエスさまのおっしゃることは、イエスさまにおんぶしてもらって連れて行っていただくというようなことです。
 つまりそこには、イエスさまを信じるということ、この方が私を救ってくださると言うことを信じることにかかっています。こんな私でも、こんな罪人の私であっても、イエスさまは神の国の中で生きるようにして下さる。そのイエスさまを信頼し、ゆだねる道です。それが新しく生まれるということです。これは年を取ってもできる、まったく新しいことに違いありません。私たちはイエスさまによって、新しく生まれることができるのです。


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